第339話・信濃の援軍。


 永禄十一年五月一日

 武田信玄の命により、伊那・飯田城の秋山信友は四千の軍兵を率いて出陣した。その日は駒場から寒原峠と二百丈もの高みを越えて息も絶え絶えになりながら浪合村で一泊した。

 翌日はさらに七十丈も上がった三州街道の難所の治部坂峠を越え、賑わいをみせる平谷村を通り根羽村でその日の行軍を終えた。



  翌日はゆっくりと出立した。その日は難所・杣路峠を越えて、伊那街道で一番の賑わいを見せる武節宿までの短い行軍だ。そこには武田方の菅谷氏が守る武節城があり、そこに泊まれる。

その翌日には最後の難所である伊勢神峠を越えれば、あとは緩やかな下りで足助宿に到着出来る。

 急行する必要も無く、戦場に行くからには行軍の疲れを出来るだけ残したくない。それが秋山の考えだった。



「秋山殿、出陣ご苦労に存じる」

「うむ。菅谷殿、今宵は厄介になる」

「今日は兵にも酒を配りますれば、戦の前に鋭気をお養い下されますように」

「忝い」


 武田家譜代家老・秋山信友は、武勇に優れた武田家にあっても抜きん出た名将で髙遠・伊那方面を担当する四十一歳の働き盛りの大将である。


「皆の者、明日には足助に着く。さすれば戦が待っている、相手は長年戦を重ねて来た徳川隊で、油断ならぬ強敵だ。今日はゆっくりと体を休めて鋭気を養うがよい」


「「おおお! 」」

「有難し! 」

「さすがうちの大将だ!」

「酒だ、酒だ!」


 兵たちは大喜びだ。そんな兵たちを横目で見て、秋山は供回りと勘定方を連れて町に降りた。

伊那街道と秋葉街道が交わる要衝の武節宿は、海の産物も多く伊那人には珍しい物もある。野陣で使う干物など無いかと思ったのだ。

街道沿いに並ぶ店を覗き込みながら民に気軽に話し掛ける。そういう武将で有り、秋山は兵にも民にも好かれていた。



「けっこう・けっこう・こけっこう

 けっこう・けっこう・こけっこう

夜泣き、痙攣、咳に効く。

 子供に良く効く飲み薬」


「あれは、何を売っているのだ?」

「あれは、売り歩きの薬屋で御座る。鶏鳴薬と言って子供の病に良く効くと評判で御座るよ」


 すぐにその者らの姿が見えた。見目麗しい娘らが陽気に唄い人寄せをして、後には屈強な男衆が従っている。


「けっこう・けっこう・こけっこう

 けっこう・けっこう・こけっこう

 鶏鳴講のお薬だ。

子供に良く効く飲み薬」


「うむ。男衆は只者では無いな・」

「へえ。何せ高価な薬故に盗賊除けで御座る」


「娘、金創薬は無いか?」

「ございます。お侍様」


「そうか。幾らだな?」

「一合わせ五十文でござります」


 金創薬(塗り薬)は大概、二枚貝に入れられている。故に一合わせや一つがいと呼ばれることもある。


「左様か。高価と聞いたがそれ程でも無いな・」

「はい。鶏鳴薬とは違って普通の処方ですので。でも効き目はあります」


「さようか。ならば有るだけ貰おう。幾つある?」


「金創薬は二百五十合わせございます。合わせて一万二千五百文のところを一万二千文で結構でございます。山中銭・金貨十二枚分でございまする」


「む・銀粒ではいかぬか?」

「申し訳ありませぬ、お侍様。私ども歩き売りは軽量で持ちやすい山中硬貨しか取り扱いしておりませぬ」


 山中硬貨か、近頃急速に広まってきている銭だ。駿府では焼津湊で両替が出来るらしいが、甲斐や伊那では両替出来る店が無い。

 それで此度の軍資金は砂金と銀粒で持ってきている。


「殿、それ位なら有りますぞ」

「そうか。なら支払いを頼む」


 うむ。勘定方が幾分かの山中銭を持っている様だ。

 ・・・ひょっとして、三河や尾張でも砂金や銀粒は通用しないのか?


「ありがとうございます」

と爽やかな声を残して、薬屋は歩き去った。その後を子供らが「けっこう・けっこう・こけっこう」と唄いながら追って行くのは微笑ましい。

 子供薬故に「こけっこう」か、なかなかに面白い。



「ここはどこの細道じゃ

 てんじん様の細道じゃ。


ちっと通してくだしゃんせ。

ご用のないもの通しゃせぬ。


 この子の七つのお祝いにお札を納めに参ります。

行きはよいよい・帰りは怖い。怖いながらも通りゃんせ・通りゃんせ・」



 大勢の子供らが通りで遊んでいる。我らは戦に行く途次というのに、それを見ていると和やかな心持ちになる。某も子供が欲しいな。いやそれより先に嫁か・・・



 その日武節城でゆったりとして鋭気を養った秋山隊三千は、翌日早朝武節宿を発った。伊那街道最後の難所・伊勢陣峠までは二里ほどだ。昼間には峠を越えて、余裕を持って足助宿に到着できる筈だ。足助城にはその旨を告げる早馬を朝一番に出している。


 あと少しで峠、そこまで来ていた。五月になったばかりだが、暑い日だった。皆大汗を掻き疲れて朦朧としている者もいる。上り坂では兵たちも荷駄を押すのを手伝うのだ。峠に到着すればあとは楽、皆がそう考えて最後の坂を登っていた。


 一行の中で突然立ち止まった兵が何名かいた。彼等は訝しげに周囲を見渡している。

 すぐに、

「ゴゴゴゴゴー」と言う音がして、地面が揺れて始めた。


「山津波だー」

「逃げろー」

と言っても狭い峠道だ。前後に逃げるしかないが、そこは兵で満ちている。行き場を失った兵が考える間も無く、一瞬のうちにそれに飲み込まれた。



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