第338話・信玄出陣! 。
信玄出陣の報は忽ち両軍に伝わった。
徳川軍は何処に現われるかと固唾を飲んで見守り、武田軍は軍神の出陣に士気を高揚させた。
信玄が現われたのは、岡崎城を大きく迂回した吉田城の北東四里の野田城だ。少ない守兵を吉田城に派遣した野田城兵は、信玄来るの報と多数の火縄銃での攻撃を受けてここで戦う事の不利を悟り、城を捨てて吉田城に退散した。
野田城に守兵を入れて豊川沿いを下り、水軍の船が浮かぶ豊川湊に出た信玄に吉田城攻めの兵が合流して来て三千兵となった。
酒井忠次らが籠もる吉田城は対岸にある、この広い豊川を水堀の一部として取り入れている平城だ。
周辺の地形を調べた信玄は、東海道御油宿の狭隘な地形に目を付けた。広大な平野から一気に両脇に山が迫り狭い所では一丁も無い狭い地形が続く。その先五里で岡崎城であり狭隘な地形は三里ほど続く。武田軍はそこへ入り込み岡崎城に向けて進軍した。
これを知った吉田城・酒井隊と船形山城・平岩隊は、兵を出して街道の出口を塞いだ。さらに岡崎城に伝令を出した。街道の一里程の南北には脇往還があって早馬を出せば武田隊を追い抜けるのだ。
こうして武田軍は、大軍の利が活かせ狭隘な場所に自ら嵌まり込んだ。
「逃げろー」
「武田軍だー」
「赤備えの鬼が来たぞー」
「捕まえれば金山送りだぞー」
「逃げろー」
民にとっては青天の霹靂。泣き喚きながら持つ物も持たずに逃げ出した。忽ち千以上の民がトコロテン突きの様に街道を岡崎へと流れ込んだ。実際に武田軍は働き手である若者を捕えていた。
この民がもたらす報は伝令より早く岡崎城に伝わった。
三河岡崎城
「武田軍三千が東海道をこちらに向かって来ています! 」
「盛綱、直ちに五百を率いて藤川宿手前で東海道を封鎖しろ! 」
「はっ! 」
「北の元忠を呼び戻せ!」
「はっ!」
岡崎城の兵は千五百。だがその内三百以上は西の攻防で負傷交代した者で動けぬ。実質は千兵そこそこだ。信玄坊が東に現われたために北の脅威がなくなった。それで鳥居元忠の五百兵を呼び戻した。
「しかし、桶狭間を思い出しますな・」
「それよ。儂も信長公のように手勢を率いて行きたいのは山々だが兵が足りぬ・・」
「行けば岡崎城が空になりますからな・」
「それにこれは信玄坊主の明らかなる誘いだ」
「左様。罠ですな・」
岡崎城の徳川家康は街道を封鎖するだけに留めた。東の御油宿手前でも吉田城兵が馬防柵などを構築して街道を封鎖した。かといって武田軍の針路が絶たれたわけでは無かった。東海道から分岐する峠道が北にも南にも幾つかあって脱出は可能だ。
家康の予想通り、武田軍は狭隘な街道の半ばである赤坂宿で停軍した。付近には広い平地もあって大軍が留まる事が出来る地形だ。
そして翌日、翌々日と武田軍は動きを見せなかった。
「動かざること山の如しか・」
「しかし殿、三宿から逃げ出してきた民が腹を空かしております。このままでは周りの民と諍いが起こりますぞ・」
路上や空き地では逃げ出してきた大勢の民が座り込んでいる。村々では炊き出しして与えているが、何せ人数が多い。そのうち田畑を荒らしたり民家に盗みに入ったりするのが目に見えている。
民だって喰わなきゃあ死ぬのだ。
「ぐっ・・・城の蔵から米を出して、粥を炊いて与えよ。出来るだけ水増しするのだ。野草を入れて中身を増やせ」
「解り申した。それでも何日持つか。蔵の米は僅かですからの・・・」
さらに三日経った。岡崎平野に逃げ出してくる民が増えている。武田軍は周囲の村々に乱取り(略奪)を行なっているのだ。実際に働き手の男達が捕えられている。船で甲斐の金山に送られるという噂が流れている。
しかしそれでも、家康は歯を食いしばって耐えた。少ない兵で誘いと分かっている隘路に踏み込むのは危険すぎた。
赤坂宿付近 武田本陣
「家康は動かぬか・・・」
「動きませぬ、いや、動けぬので御座ろう」
「弱りすぎて動けぬか。ならば、そろそろ吉田城を取りに行くか」
「御意!」
「山県、三百騎で迂回して御油の敵の側面を突け」
「はっ!」
「須田、山県到着前に御油に五百兵で先行して封鎖を解け」
「はっ」
「出浦、須田隊に先駆けて柵外の隊を襲い助けよ」
「承知! 」
「封鎖が解ければ全軍で押し出し、城外に出ている者を残らず討ち取るのだ! 」
「「はっ!」」
翌日未明、御油宿手前の封鎖地点に山伝いに忍び寄った忍びらが、無言で徳川隊を襲った。暗闇で行なわれた襲撃に徳川隊は混乱する。それと同時に街道を来た須田隊が柵の取り除きに掛かった。
それと知った守備隊は、須田隊に向けて火縄銃を撃ちかけ矢を放つ。忍びに対しては数人でまとまって反撃する。
「退け、新手が来るぞ。城に引き上げよ! 」
忍びが消えた時点で、守将は柵を捨てて引き上げる事を選んだ。間も無く武田本隊が来る、多勢に無勢だと悟ったのだ。
「北から武田の騎馬隊来ます!」
「固まるな。五人隊に分かれて駆けよ!」
「死ぬ気で駆けろ。豊川まで行けば助かるぞ! 」
「おおおー」
徳川隊三百は蜘蛛の子を散らした様に東に走った。それで山県の騎馬隊三百は大きな目標を失った。騎馬隊もバラバラになって追走したが、五人組の徳川隊は弓で狙い、馬の足を槍で攻撃する事でこれを防いだ。
騎馬隊もバラバラになっては分が悪かった。馬を潰されて落馬する者が続出し、草が高い川岸まで追い切れなかった。
二刻後 豊川左岸 武田本隊
「戦果は?」
「最初の忍び衆の攻撃で五名倒しています。その後、騎馬隊がこれを追撃、倒した敵十名。しかし反撃されて十名死亡、馬二十頭がやられました」
「なんと、それでは五分以下では無いか・・・・」
「徳川隊はいち早く柵を放棄して遁走致し、五人組で散開して騎馬隊の目標を無くし、追ってくる馬の足を狙い防いだのです。咄嗟に的確な指示を出した将の力量は並ではありませぬ・・・」
やはり、徳川はしぶといのう・・・
「捕えた者は何人だ?」
「元気な男女二百名で御座ります」
「二百名か、関船一隻で済むな。義信への土産だ。船で駿府に送れ」
「はっ」
徳川はしぶとい。大量の軍費が掛かった割に、三河はなかなか手に入れられそうに無い。ならば鉱山での働き手を得て勘定を合わせるのだ。なにせ、鉱夫の消耗は激しいからのう。駿府までは距離がある、水軍の経験と船の有効利用が同時に出来る訳だ。
「飯田城の秋山に伝令。予定していた兵を率いて足助宿に参れと」
「はっ」
「我らは川を渡り全軍で吉田城を囲む」
「はっ!!」
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