第334話・徳川家の疑念。


永禄十一年(1568)三月 三河岡崎城


 朝比奈侵攻で大敗して、五百を越える死者を出した徳川家は困難な状況にあった。幾多の捕虜を取られ領地を割譲して大量の兵糧を置いてほうほうの体で帰参した。


 惨めだった。情けなくて惨め、敵も十分な準備をして待っているなど当たり前の事なのにそれを考えもしなかった。

新領地で得た物量に舞い上がっていたとも言える。それ以来、家臣のおのれを見る目が違ってきたように感じる。おのれの無策のために五百もの兵を死なせたのだ。領地も失った、幾ら後悔しても足りない落ち度だ。



「殿、遠州から捕われていた者らが戻って来ておりますぞ」


「そうか。それは良い知らせだ、出迎えよう」


 街道を笑顔の兵らが行進してくる。彼等は壊し燃やした家屋の仮設を手伝わされていた。朝比奈は約定のふた月できっちりと帰してくれたのだ。表情から食べ物も十分に与えられたようで安心した。


「これで田植えも最低限出来ますな・・」


 心底ほっとした顔の数正だ。それでも五百もの兵が死んだのだ、昨年の様にはいかない。今から切り詰めなければ飢え死にする者が出るかも知れぬ・・・


「当分、戦は出来ませぬな。兵糧も無ければ、武具も槍も無い」


 そうだ。戻って来た兵たちは当然武器を持たぬ身一つだ。彼等五百もの兵に与える武具に武器だけでもどれだけ銭が掛かることか・・・



「殿、お話が・・・」

 半蔵が低い声で囁いた。・・・嫌な予感がする。




「半蔵、話とはなんだ?」

「良くない事であろうな・・・」

「なるべくなら聞きたくないが・・・」

「聞かずに済まぬか・・」


 どうやら皆も儂と同じ気持ちのようだ。



「なりませぬ。話は実に些細な事ながら行き着く先は重大で御座る」


「ふうっ・・」

「聞く前に溜息をつくな、康政」

「いや儂も溜息が出たわい・」

「とにかく話せ。半蔵」


「刈谷城の水野殿は、斉藤家の佐久間殿と織田家の時より親しい付き合いが御座る」

「うむ。それは知っておる」

 皆も知っていることだ。


「佐久間殿が再び尾張に戻ってから、書状の往来が盛んになって御座る」

「それで?」



「その内容は些細な噂話などで御座ろうが、なかには『斉藤家は武田よりは信頼出来る』『徳川と斉藤が協力して武田を追い払う』などという妄言が確認出来ておりまする」


「うむ、水野の気持ちは分かるが・」

「左様、はっきり申して武田は不気味だ。不意に寝首を掻かれる怖さがある。まあ、織田もそうであったが・・」

「そうだったな。それで、」


「それを武田の忍びが興味を持ったようで御座る。すでに幾つかの書状が奪われておりまする」


「武田が、どう言う事だ?」

「分からぬか忠勝、武田にとっては徳川が斉藤と密約を結んだと取られかねぬ」

「同盟した武田を裏切ったという事かの・」


「しかしそれは両人の言葉の綾・妄想の類いで御座ろう・」

「左様。そういう話は某もする。つまらぬ妄言よ」


「いや、武田に書状が奪われたならば無視出来ぬ。かくなる証拠だと言われれば申し開きが出来ぬ・・」

「左様。同盟を破棄されて攻め込むのには十分だ」

「それは拙いぞ。我ら、今は最悪の状態だ」

「無論、武田はそれを知って、仕組んでおる・」

「虎に狙われたか・・・」

「・・・」

「・・・」


 やはり聞きたくない話だった。

参ったな。敗戦の痛手が大きい今は最悪な状態だ。武田が本国から兵を差し向けてきたら支えきれぬだろう。尾張武田だけでも分からぬ。なにせ、尾張には信玄坊主がいるのだ・・・


「殿、すぐに防備を!」

「左様、遠州に向けている兵を動かしましょうぞ!」

「朝比奈は約束通り捕虜を帰してくれた。ならば朝比奈を信用して兵を尾張に向けましょう!」


 ふむ。確かに朝比奈向けの浜名の海西岸や吉田城の兵は最小で良いな。西と北を固める必要がある。


「お待ちあれ。話はまだ御座る。書状が奪われたのはどうやら刈谷城内。そこに武田の間者が出入りしていると」


「武田の間者・・・どう言う事だ?」

「忍び込んでいるのか、刈谷城に?」

「商人に化け、或いは忍び込み・・・水野殿は我ら忍びの者を嫌っているために詳細は分かっておりませぬが、煩雑に出入りしているようで・・・」


「煩雑に出入りして、書状を奪った・・・それは水野が渡しておらぬか?」


「我らもそう見て御座る」。


「恐らくは巧妙に仕組まれた罠・」

「どう言う事だ。正信」


「徳川と斉藤が密約すれば武田は許さぬ。同盟を破棄して攻め込んでくる。それは敗戦で徳川が弱った今が好機。その時に水野が裏切れば・・・」


 刈谷城の水野信元は徳川家中でも強い権限を持つ存在である。徳川家に取って変わろうと思っているやも知れぬ。


「そのような事があろうか・・・」

「於大の方様がいる水野家が果たして・・・」

「・・・いや、水野は本気かも知れぬ」

「左様、水野は此度の戦で被害が出ておらぬ。一世一代の好機と捉えているやも知れぬ・・・」


「とにかく、武田家に攻める口実は既に出来たのだ。明日攻め込まれてもおかしくは御座らぬぞ」

「拙い、拙いぞ。今攻め込まれると対処出来ぬ・」

「左様。何とか事前に納める策はないか・」

「こんな時こそ正信。お主の出番ぞ」


「・・御座る」

「聞こう」


「某の策は、・・・・・・・・・で御座る。事前に納めるにはこれしか無い。如何か」

「そ・それは・・・」

「正気か・・・」


「いや、しかし刈谷城が寝返れば、知多を・常滑を失う。事は重大ですぞ! 」

「それは拙い。常滑を失えば台所が苦しくなる・」

「銭が無ければ、武器も購えぬ・・」



「分かった、儂は正信の策にのろう。苦渋の決断だが、それしか手は無かろう。何よりも時間が無いのだ」


「・・・」

「・・・」


 家臣らの顔は苦痛に歪んでいる。おそらく儂もそうであろう。


 しかし、この苦難の時にお家が沈没しかねない問題を起こす水野も許せぬ。それに水野が居るお蔭で三河の経営が上手く行かぬのも確かなのだ。我が叔父(母・於大の方の兄)で強権があるかの者は、家臣としては大きすぎる・・・






三河刈谷城


「殿、大殿から呼び出しで御座りまする。信政殿共々大至急、大樹寺に来られたしと」


「うむ・・・」


 何故、岡崎城では無くて大樹寺、しかも信政もだと・・・。

 これはひょっとして・・・・・・


「如何なされたか?」


「高木、これはひょっとすれば儂は誅殺されるかも知れぬ・・・」

「な・何故に? 」


「大概は佐久間殿との好誼を誤解されたのであろう。武田忍びの暗躍が増えておるとは思っていた」

「左様、忍びまがいの商人が出入りしていましたな・」


「高木、もし儂に万一の事あれば斉藤を頼れ。その際には躊躇無く武田を利用するのだ。解るな」


「・・・しかし、殿。どうせ武田を利用するのなら、大殿の呼び出しに応ぜずに城に籠もったら如何ですか?」


「それはならん。例え誅殺されようとも、主君の呼び出しには応えねばならぬ。後の世は知らずこの信元、一度なりとも主君徳川家を裏切ったことなど御座らぬでな」


「殿・・・」


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