第331話・井伊谷の女城主。
永禄十一年(1568)二月 遠州掛川城 井伊直虎
「朝比奈様、井伊家を継いだ井伊直虎で御座います。此度の御配慮忝く、至らぬ身ですが宜しくお願い致しまする」
「直虎殿、井伊家は散々難儀致したな。儂に出来る事ならば何でも言ってくれ」
「はっ。有難き幸せで御座いまする」
私は還俗して井伊家を継いだ。徳川家の市野城攻めで井伊家を盗取していた小野道好が討死した。それは僥倖だったが、新野や中野の家中を支えていた者達も亡くなり井伊家を継ぐ者が私しかいなくなったからだ。
徳川が敗退。浜名の海北部が朝比奈領となり、井伊家も朝比奈家に所属することになった。それで遅ればせながら朝比奈様にご挨拶に伺ったのです。
朝比奈様は新領地になった井伊谷衆に、領地を安堵して兵糧を手当てして下さったのです。貧しい領地の井伊家にとって嬉しい御配慮でした。
「時に、直虎殿は幾つになられたか?」
「はい、三十二歳になりました」
「ほう、まだまだお若い、婿を取って跡継ぎを設けられよ」
「はて、それは・・・」
「なんなら儂が仲介致そうか」
「お戯れを・」
この年で婚姻など恥ずかしくて出来ませぬ。跡継ぎは養子を迎えるつもりです。それよりもまずは、戦続きで荒れた領内を、民の暮しを少しでも楽にせねばなりませぬ。
「それよりも朝比奈様、興産などのお知恵をお借りしとう御座います」
「うむ、何なりと。我らも山中国の知恵を借りて富国に努めておる最中じゃ」
「山中国・・・」
「大和・紀伊・近江を本国として日の本各地や南蛮まで拠点を持ち、壮大な商いをしている国だ。我らが武田や徳川に飲み込まれなかったのは山中国有ってのこと。今の国主は山中百合葉様、圧倒的な力を持つ女神様だという。お歳はたしか三十前半と聞いたな」
「女神様・・・三十前半の・・・」
「良い機会じゃ、一度大和に行ってはどうかの。何よりも国を豊かにする参考になろう」
「遙々大和へなど、とんでもありませぬ」
「なに、焼津まで行けば二・三日で行けるという。ここまで来たのだ、焼津は近い。費用は儂が出そう・・・うむ、人のことは言えぬ。儂も一度お目にかかって御礼を申さねば・・・良し決めた、儂も行く。同道致せ」
「・・・お待ちを。話が急過ぎて返答しかねます・・・」
「善は急げと申す。今考えて貰いたい」
ちょっと展開が早すぎます。大和まで行ってくるなど何日掛かりましょう。
ですが、女神様にお会いしたい気持ちが次第に大きくなってきます。領地を豊かにする参考になるのなら・・・
「段蔵、どう思いますか」
「良き思案かと。山中国は無双で大層豊かな国です。朝比奈様がご一緒なれば全てにおいて安心だと」
段蔵は数年前に満身創痍で門前に倒れていた男です。ひと月以上も伏せていましたが回復しました。無口ですが腕が立ちとても博学で諸国の事情に通じています。私の傍に付いてくれて、師と護衛を兼ねてくれている男です。
「朝比奈様、お言葉に甘えてお伴致しまする」
「左様か。ならば早速出立致そう。誰かある! 」
白い帆を上げた船が泡立つ海水を切り裂いて大海原を疾走しています。吹き飛んでくる風は身を切るような冷たさです。
いつもなら今頃は、寺域の掃き掃除をしている時分でしたが、こうして髪も着物も冷たい風に激しく嬲られていると、ここ数日で大きく変わった自分の身の上を実感できます。
「殿、冷たい風は体に毒ですぞ・」
「分かっています。でももう少しこうして居たいの」
「それでは某もお伴します」
「段蔵、焼津湊には知り人がいましたか?」
「いえ、あの者らは山中国の忍び衆で、知り人では御座らぬ」
湊に近付いた時に不意に段蔵が止った。そして一人の男が寄ってきて何か話をしていた。それで知り人かと思ったのです。段蔵が忍びの者だと言う事は知っています。今まで何処にいたのか、仲間がいるのかなどは知りません。
「某は・・・」
「話したくないのならば良いのです」
「いえ、某が拙いのは越後のみで・」
「そうですか」
掛川城から焼津湊までは、駆歩で二刻ほどでした。私はあまり馬に乗り慣れておらずに、なかなかに堪えた道程でしたが翌朝の船に乗せて貰えることになりました。後は船と馬車に乗って居れば良いとのことで安堵致しました。
山中国の商船の大きさ速さは驚くべきもので、巨大な熊野拠点に一泊した翌日は紀湊に入りました。
紀湊。
その街の繁栄は、想像するより遥かに大きく賑やかでした。広大な湊に浮かぶ大小の大型帆船の数々。小高い所にある端が見えない程の大きなお城。街には日の本各地の出店が軒を連ねて、それに混じった異国の店。華やかで賑やかで圧倒されました。
「こ・これ程とは・・・」
朝比奈様らも立ち竦んで目を見張っています。
私も同じです。何もかも初めて目にする物ばかりで、呆れを通り越して頭が真っ白でした。
翌日も驚きです。
何処までも続く広い真っ直ぐな街道。乗った馬車が早足で行き交います。何度も何度もです。昨日今日とこれ程の人を見るのは初めてです。それが皆嬉しそうに微笑んでいるのです。
そして、
街道の先に夕日に染まった白亜のお城。
その美しさに心を奪われました。この様な美しいお城に女神・百合葉様は住んでおられるのです。まさに殿上人です。
「お初にお目に掛かります。朝比奈泰朝で御座ります。山中様には大層お世話になっており申す」
「山中百合葉です。朝比奈殿、此度の勝ち戦聞き及んでおります。真におめでとう御座ります。朝比奈殿に肩入れしているのは家臣の三雲です。山中国として贔屓にしているのでは有りませぬ」
「それは存じており申す。ですが三雲殿が動けるのは、山中様のお許しがあってのこと。感謝しておりまする」
「謝意は受け取っておきます。ですが山中国は朝比奈の敵とも商いをしていることをお忘れなく」
「それは承知しており申す。今後とも宜しくお願い致しまする」
山中百合葉様は、気高く美しいお方でした。元は木津という所の四千石の城主で、周囲に並ぶ者がいない豪の者だったと聞いて大きな体のお方だと想像しておりましたが背は高いものの細身できしゃな体つきのお方でした。
朝比奈様との会話で、領国の関係を初めて知りました。朝比奈様に協力しているのは山中様の家臣の三雲様と言われるのですね。どういうお方か、あとで段蔵に聞いてみます。
「ところで、貴方が井伊殿ですね」
「お初にお目に掛かりまする。遠州井伊谷の井伊直虎です。此度は朝比奈様のご厚意に甘えて領地と民を豊かにする方法を学びに参りました」
「はい。民を豊かにすることは山中国の目的でもあります。聞きたい事は聞いて下さい。案内人も付けますし、望むのなら指導者を派遣しても良いですよ」
「有りがたき幸せで御座いまする」
「我らはそう変わらぬ年齢です。その様な固い物言いは止め、友として話して下され。妾は同世代の友があまりおらぬ故に、その様にして欲しい。最近は尾張の斉藤帰蝶殿も同じ歳と聞いて喜んでいたのです・・・加藤殿、そなた斉藤家に遺恨はありますか?」
百合葉様は鋭い目付きで、いきなり背後の段蔵に問われた。段蔵の姓は加藤というのか、私も初めて知りました。それにしても白刃を抜いた様な殺気が飛んだと私にも解った。
「いいえ。斉藤家に遺恨など御座いませぬ。命を救われたお方を支えておったのみで御座る。それに加藤という名は捨て申した。某、直虎様に仕える一老爺の段蔵で御座います」
「・・・そうですか。ならば、直虎殿のお守りを頼みますぞ。なにかあればうちの者を頼るが良い。帰蝶様と上杉殿にも手を出さない様にと言っておきます」
「・・・承知仕りました」
何事にも動ぜぬ段蔵が大汗を掻いている。それにしても百合葉様は、私も知らぬ事情を何でもお見通しなのですね。尾張・斉藤家や越後・上杉家にも話を通せるなんて。
山中国の百合葉様のお力はとんでもありませぬ・・・
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