第330話・金の鶏。
尾張熱田湊 馬場信春
儂は熱田湊で甲州屋の船が入るのを待っておった。水軍の小浜が伊勢大湊に行く甲州屋に同行して湊の様子を見に行ったのだ。
御屋形様は北畠攻略には極めて慎重姿勢だが、夜に紛れて水軍の船で兵を一気に送り込んで、伊勢大湊を制圧するつもりだ。今の船で一度に二千の兵を送れる。西五里の大河内城兵が駆け着けてくる前に制圧するのだ。
ここ十年以上戦すらまともに経験していない北畠軍など、我らの敵では無いわ。武田軍はどれ程苦戦を重ねて来たか。船を往復させ増援した兵四千なら、大河内城も一気に落とせる、北畠家を倒せば武田も畿内に進出出来る。
だが、その時に問題になるのが湊の警備だ。噂によれば整備された北畠水軍が警備しているらしい。小浜ら主立った海賊衆が抜けた水軍とはいえ、北畠の稼ぎ頭の伊勢商人を守る水軍だ。船が着けられなければ兵が動かせぬ。
「小浜、如何であった?」
「へい。伊勢大湊はあきまへん。我らには無理でんな」
「・・どう言う事だ?」
「北畠水軍は、山中船型の船で調練しちょります。あの大砲で狙われたら我らは壊滅します」
「壊滅・・・」
大砲とは火縄の大きな物だ。だが実際に見た事は無い、どれ程の威力があるのだ・・・
「大砲はどれ程の威力だ?」
「某も知りやせんが、山中の大砲は南蛮の船も購って帰る、一刻もせずに城を破壊する威力だとか聞いていやす。目が飛び出るほどの代価だとも・・」
「一刻で城を破壊・・・」
うぬぬ。それは何とかしなければならぬ・・・
「・・・ならば、闇に乗じて小早で焼き払えないか?」
「水軍兵は船で宿泊しているようで、夜間も見張りがいて即座に反撃されまんな」
船で宿泊だと・・・
そうか山中国の船は日の本一円を回旋しているので、水夫が泊まれるようになっているのか。我らの水軍が船に泊るなんぞ、有り得ぬ話だが・・・
「馬場様、そうなれば北畠水軍に那古屋城を攻撃する理由が出来ますぜあの船で遡上すれば、一方的に城を破壊出来ましょう・」
「那古屋城をか…」
我らは手出し出来ずに、一方的に城を破壊されるか、大砲とは恐ろしいものだな…
「相解った。仕方があるまい、大湊攻めは中止じゃ。この旨、御屋形様に申し上げる」
「承知致しました」
「けっこう・けっこう・こけっこう
けっこう・けっこう・こけっこう・・・・」
「ん・」
「あぁ、鶏鳴薬売りですな」
近頃良く聞く軽調な歌声が聞こえている。娘数人が歌い、笈を背負った屈強な男衆が続く、歌いながら歩き売る薬屋だ。子供らが歌をなぞりながら続いて歩く。至る所で女房衆が待ち受けて購っている。
「夜泣き、痙攣、咳に効く。
子供に良く効く飲み薬。
けっこう・けっこう・こけっこう
けっこう・けっこう・こけっこう
鶏鳴講のお薬だ。
子供に良く効く飲み薬」
「鶏鳴薬でんな。あれは良く効くという評判でやす」
「左様か。ならば御屋形様にも効くまいか・・・」
「ですが、鶏鳴薬は子供用ですぜ。まっ、大人でも飲む者はおりますが・」
「そうか・・・しかし、試しに購おう」
御屋形様(武田信玄)の容態は悪い。起きられる良い日もあるが、悪い日には横になったまま食事も摂られない。たとえ子供用の薬とは言え、もし効能が出るのならば僥倖だ。
「薬屋、幾らだ?」
「はい。一包み銀貨一枚百文で御座います」
「百文か高いな・」
人夫の労賃は三十文ほどだ。三日も働かなくては一包みを購えない。
「お侍様、高価なのはご容赦下され。貴重な材料を使い手間暇かけて作った物を奥美濃から遙々運んで来て、こうして売り歩いておりますれば・」
「うむ、そうか、そうだな。ところで、普通はどのくらい服用するのだ」
「はい。子供一回一包み、大人は二包み、一日二回食後・効能が出るためには、少なくとも五日間は飲むのをお勧めしております。五日間十袋で山中銀貨九枚、十日間二十包銀貨十八枚で御座りまする」
うむ。まとめて購えば割安になるのか。しかし小商いでも山中銭が普及しているか、たしかに歩き売りで重い銅銭を渡されても困ろう。金銀秤を持ち歩くのも難儀だ。しかし甲斐ではまだまだ文銭と銀粒だ。薬など高価な物を歩き売り出来ない訳だな・・・
「ならば十日分貰おう」
「はい。おありがとう御座います。食後すぐに水で服用して下されますように」
「わかった」
儂はその足で城に上がり御屋形様に伊勢大湊の様子を報告した。
「左様か。北畠水軍が大砲をな…」
「はい。城を一刻で破壊出来るとか…」
「・・・ふむ。それもこれも銭の力か…常滑が欲しいのう…」
「徳川が遠州で大敗したと聞き及んでおりますが」
「うむ。死者・負傷者・捕虜がいずれも五百兵以上、浜名の海の北部を割譲したとか」
「それ程に・・・」
「うむ。朝比奈が兵の中で破裂する爆裂玉なる武器を使ったらしい・」
「爆裂玉・・・大砲といい新しい武器は恐ろしいですな」
「そうだ。いずれにしても、これからは銭の力が戦を決める。そういう世の中になろう」
「御屋形様が駿府・那古屋に進出した訳ですな」
「そうだ。だが上手く行っておらぬ・・・」
「ならば、常滑を取りますか。徳川が弱っている今が好機と思いますが・・」
「常滑は徳川領。武田と徳川は同盟しておる。仮初めとはいえ同盟国には手を出せぬ」
「ならば、徳川に裏切り行為があるとすれば如何ですか」
「裏切りは許せぬ。もしそのような事があれば、同盟を破棄して攻める」
「例えば、徳川が斉藤に通じて武田を攻めようと謀っていれば?」
「裏切り行為だ」
「出浦殿をしばらくお借りしたいが」
「うむ。出浦、信春の御用を努めてくれ」
「はっ」
出浦守清は武田忍びの頭である。
「ところで殿、鶏鳴薬と申すものを購って参りました。子供薬とのことですが滋養強壮の効能もあり、大人でも効くと申しておりました」
「けっこう・けっこう・こけっこうの鶏鳴薬か。薬師によれば百日咳に効くとか、儂とは少し症状が違うが、信春の気持ち受け取っておこう」
「ご存じでしたか・」
「うむ。薬師の源信が世間の噂話を色々と聞かしてくれるのだ。鶏鳴薬は奥美濃で作られているらしいが、材料やら配合やらは秘伝で真似できぬとかな」
「奥美濃でしたか・」
「飛騨との境に近いとか・」
「けっこう・けっこう・こけっこうで鶏鳴薬ですか、妙な名前ですな・」
「その鶏は、金の鶏らしいぞ」
「えっ・・・」
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