第326話・徳川軍・遠州に侵攻す。


永禄十一年一月 遠州三方原


 吸い込まれるような青い空の下、三方原には無数の人馬の響めきが続いていた。徳川軍が集結しているのだ、その数八千。

 徳川家は浜名湖の西と北、それに東の北側を支配している。この辺りは朝比奈領との境界である。浜名湖の東南には市野城、引間城、頭陀寺城の朝比奈三城があり、徳川の侵攻に対して頑強に対抗している。


「皆の者、安心するが良い。此度は兵力も兵糧も武器も十分ある。腹を減らせての戦働きはさせぬぞ」


「「「ぐわっはっは」」」


 徳川軍には余裕があった。三城の城兵は五百・二千・五百の三千、援軍が来たとしても三千ほどだ。それに新武器の火縄銃を三百丁揃えて兵糧も充分にある。それもこれも知多半島・特に瀬戸物の産地で湊街の常滑を得たからだ。


「故に焦る必要は無い。じっくりと掛かり、朝比奈を天竜川に追い散らす。前回の因縁を晴らせ!」


「「「おう!!」」」


「市野城は本多重次、大久保忠介、松平康忠、渡辺盛綱、小野道好が二千で向かえ」

「「はっ」」


「頭陀寺城は信康、平岩親吉、鳥居元忠、石川数正、本多忠勝が二千で向かえ」

「「はっ」」


「残りは儂が率いて引間城に向かう。良いな」

「「はっ」」


「もう一度言うぞ。ひと月掛かっても良い気持ちでじっくり行け」

「「おう!」」





 本多隊は二千兵を率いて市野城に向かっていた。三方原から市野城は一里と近い。ちなみに引間城はそれより少し遠く、頭陀寺城は一里半ほどである。

本多隊の面々は主君家康の言う通り、物見を多く出して焦らずに油断なく進んでいた・つもりだった。


「馬込川、異常ありません」

「よし。各隊に分かれて一隊ずつ順次渡る。渡った隊は周囲に展開して索敵して、火を炊いて体を温めるのだ」


 

 三方原は丘陵の端にある。その際に馬込川が蛇行して流れてその先は田畑と小川が点在する平野となる。市野城は少し小高い平山城だ。三方原から市野城へは幅二間ほどの街道が通っている。

馬込川は小天竜とも呼ばれ、昔は天竜川の本流であったと伝えられている川幅二十間ほどの川でそう大きな流れでは無い。しかし厳寒のこの時期に体を水に浸けるのは苦行であり、そこを襲われると大いに不利となるために慎重に渡る必要がある。


先頭の松平隊二百が渡りきり多くが周囲に散開して、残った者は焚火を始めた。その様子を見て異常なしと判断した渡辺隊四百が川を渡る。これも異常なく渡川して焚き火の数と囲む者の輪が増えた。


三番目の井伊隊二百が渡っているときにそれは起こった。

「上流から材木、気をつけよ!」

「あぁぁぁー」

気が付いた時には、上流から流れてきた材木がすぐそこに来ていた、避けられなかった兵数十名が流された。両岸の兵がそれを助けようと追う。


「三十は馬で救出に向かえ。五町行ったところで見つからなくとも引き返すのだ。残りは今の内に渡れ!」

本多の掛け声で馬が駆け本隊八百が一気に川に入る。

馬込川は引間城と頭陀寺城の中間当たりを流れて遠州灘に出る。敵地で少数・それ以上は進むのは危険だ。

本隊が渡り終えたのを見届けた大久保隊四百も続いて渡り終えた。


「流された五名を救出。六名が見つかりませぬ・」


 渡り終え冷えた体を乾かし終えたところで、馬で流された者を追った者の一部が戻って来た。十騎はまだそこに留まっているという。


「散開して索敵している者の一部が戻りませぬ!」

と、松平隊からの報告。


「・・・五名一組・十組の斥候隊を出して探せ」

「はっ」


 川を背にして放射状に斥候隊が出された。その報告がもたらされたのは、斥候隊を出してまもなくの事だ。


「落とし穴です。落とし穴に斥候隊の三名が落ちて負傷しています」

「何だと、それは拙い・・・」


 本多重次は嫌な予感を感じた。そしてそれはすぐに現実となった。放射状に出した斥候隊のうち、落とし穴に落ちて負傷した者が相次いだのだ。全部で十五名、斥候隊の半数がやられていた。それも陣列から離れた者が多かった。落とし穴の底には木杭が埋められておりそれで負傷したのだ。彼等はもはや戦は出来ぬ。


「十名が負傷者に付き添い刑部城に送り届けよ」

かくして早々に離脱者を出した。だがこれはほんの手始めに過ぎなかった。徳川が十分な準備をして来た様に、朝比奈側も用意する時間が十分あったのだ。


「周辺には罠が仕掛けられている。あまり離れると危ない故に広範囲に探る必要は無い、一町ぐらいの範囲で軍列を目視出来る位置までだ」


斥候を放たぬ訳には行かなかったが、あまり広範囲に探る必要は無かった。何故なら、朝比奈勢は火縄銃を持っていないという確かな情報があったのだ。


「大変です! 列の先頭に落とし穴。大勢が嵌まりました!」

「・・・街道にも落とし穴か・・・」


「ならば、先頭は棒で地面を突きながら進め」

 斥候隊と陣列の先頭は棒で地面を突きながらゆっくりと進んだ。


「おわー」という声が陣列の中程に位置する本隊まで聞こえた。


「今度は何だ?」

「木です。街道沿いの立木が倒れてきて数十人が下敷きに!」

「ぐぬぬぬぬ・」


 更に三十名が負傷して離脱した。これで罠だけでは無く、敵が待ち伏せしていることがはっきりした。こうなると迂闊には進めない。


「五十の隊を出して、街道周辺を入念に調べるのだ。くれぐれも油断するなよ」


 市野城に僅か半里(2km)足らずの位置で行軍は停止した。五十の先行隊が街道の安全を確認しながら慎重に進む。

 だが、この先行隊に被害が出た。一町二町と彼等だけ突出して進む。やがて本隊から彼等の姿が見えなくなった。

 隊長の本多重次は、敵前で少数の兵を先行させた事に気づき、急に不安を感じた。


「松平隊、急行しろ。先行隊に追いつくのだ。本隊も前進! 」


「先行隊が倒れています!」

 不安は的中した。棒で地面を突きながら進む隊を側面からの矢と槍隊の突撃によって倒されたのだ。既に敵は逃げ去っていない。城に到着する前に百もの兵を失った。屈辱である。


「ぐぬぬぬぬ、おのれ。よい、押し出せ。全軍で一気に城を囲むのだ! 」

「燃やせ、邪魔な建物は燃やしてしまえ! 」


 一千九百の兵で城を囲むと、住民が避難して空屋と化した周辺の家々を焼き払った。伏兵が潜むのを嫌ったのだ。



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