第325話・斉藤家の戦略。
永禄十一年十二月 尾張小牧山城 可児才蔵
今日はすこぶる冷える。澄み切った青空が大地の熱を吸い上げているようだ。この寒空に奥間の障子は開け放たれていた。
「才蔵で御座いまする」
と、廊下に座して声を掛ける。だが部屋に帰蝶様のお姿は無かった。見廻す某の目に庭に立っているお姿が目に入る。
帰蝶様は吹き抜ける寒風の中で、身動きもせずに凍てついた地面を持ち上げる氷柱(こおりばしら)の様子を見ておられる。そのご様子を見て声を掛けるのは躊躇われたが、某の御用も大事であると思い直した。
「帰蝶様、皆様お集まりで御座います」
「そうですか。ではすぐに参りましょう。才蔵、其方も来なされ」
「はっ」
帰蝶様の厳しいお顔は一瞬のうちに緩んで観音菩薩のように微笑まれた。某の些細な務めなど労う要は無いのにな。
本丸の広間に集まった方々は、池田様、明智様、佐久間様、滝川様の斎藤家四家老に帰蝶様を古くから支える金山玄蕃様に、奥美濃の小原殿・中切殿の七名の斉藤家の頭脳とも言える方々だ。
「皆の者、この寒空によく来てくれました。本日はこれからの斎藤家の道筋を決める相談をします。まだまだ未熟な妾ゆえに、忌憚の無い意見を言って下され」
ここにおられる方々で帰蝶様を未熟だと思っている者はおられまい。それどこらかあらゆる情報に通じ的確な判断と躊躇いの無い行動をなさる主君に相応しいお方だと言っておられる。
「それというのも信長殿にはあれ程お止めした武田家との戦を、我らは再び始めなければ成りませぬ。言うまでも無く我らの尾張から武田を追放する為です」
方々は無言で頷いた。
信長様は伊那へと侵攻して浅井の援軍もあって飯田城を手に入れた。だが、背後で一向信徒の一揆が火を噴いて激烈な戦でこれを壊滅した後に、遠く加賀まで攻め込んで大敗した。それも完膚なきまで敗れて織田家は分裂崩壊して武田の侵攻を許したのだ。
残った北尾張は筆頭家老になった丹羽秀吉によって差配され、狂気に狂った信長殿は幽閉されあげくに討たれた。その丹羽を成敗した帰蝶様が北尾張を領することになった。
それから武田に奪われた南尾張を取り戻すことは、我らの悲願だ。
「但し、我らと武田とは戦力に大差があります。これを何とか工夫しなければ勝てませぬ。具体的には兵の数と練度、武器・特に火縄銃の数です。佐次郞、説明を」
中切佐次郎殿は伊那忍びを束ねる忍びの者だ。小原殿、金山殿と共に帰蝶様を支える影の集団の一人だ。
「はっ。武田勢は那古屋五千、伊那・木曽に八千、甲斐・信濃に八千、駿府に三千。これに対して我らは八千と帰蝶様の二千で一万ほどが動員出来る兵で御座る」
二万四千と一万か、しかも武田軍は練度が高く精強で尾張兵は弱い・・・。帰蝶様の二千とは奥美濃にあるらしい影の勢力で、今回小牧山城に来た小原殿五百兵もそれに含まれる・らしい・・・
「次に我らの所有する火縄は加賀での戦で大半を失い僅か三百丁。それに対して那古屋城にはおよそ一千丁はあると思われます」
「兵で二倍半、火縄では三倍か・・・」
「おまけに精強ときた・・・」
「溜息が出ますな」
「武田勢のうち駿府や甲斐の兵は無視してしても良いのです。那古屋勢を打ち破るか窮地に追いやってのことですが、こちらに援軍が来るとすれば伊那の三千に信濃の三・四千だと思います。まずは那古屋勢を追い散らします。那古屋勢の詳細を」
「はっ。那古屋勢約五千のうちしゃかりきに増強している水軍に一千、那古屋城の警備に一千、馬場信春が三千、騎馬隊の土屋昌続が三百を指揮しておりまする。信玄は床についているらしく、総指揮は馬場信春がとっております」
武田信玄が病んでいるらしいと伝わっている。那古屋の夏の暑さが堪えたという噂があるが、小原殿が言うのなら本当だろう。馬場信春も歴戦の猛将らしいが信玄入道からくる圧力に比べれば気がだいぶ楽だ。
「つまり当座の相手は、馬場の三千と土屋の騎馬隊です。秀満・恒興・一益でこれを誘い出して打ち破る策を考えなさい」
「「はっ」」
猛将の明智秀満様と歴戦の滝川一益様、筆頭家老の池田恒興様が掛かれば三千少々の馬場・土屋隊を破るのは難しく無い筈だ。
「その後、信玄が出て来るか、信濃伊那から援軍が来るか。佐次郎と金山は伊那援軍の進軍途次に痛撃を与える策を立案して」
「「はっ」」
「帰蝶様、信玄が那古屋城に籠もればどうなされます?」
「それです。籠もった場合はその時に考えるとして、何とか出て来て欲しいわ。出て来た場合はのらりくらりと戦を長引かせる、その様に考えなさい」
「は・・・?」
何故だ。馬場隊を打ち破れば、信玄に残った兵は少ない。例え相手が戦の鬼の武田信玄とは言え我らが勝てるかも知れないのだ。
のらりくらり・・・
「皆も知っての事です。先日、長島に慰霊に参りそこでお市様と山中国の百合葉様とお会いしました」
うむ。織田家によって亡くなった大勢の民の慰霊と浅井家との友好、それに畿内で絶対的な力を持つ山中国との友誼が成ったと。それも書面で行なった女同士の交友の成果だ。
「そこで、何と山中様にお目にかかったのです。陸奥よりの帰路、偶さかに羽津湊におられたと」
「「おおっ」」
「帰蝶様、山中様とはどのようなお方で御座った?」
「百合葉様と実に仲が宜しくて柔和なお方でしたよ。ですが並ぶ者がいないほどの武芸の達人です。それは妾にも分かりました。才蔵、其方はお見掛けしたことがあると言っていましたね、どの様に感じましたか」
「はっ。数年前のことです。某、大和・興福寺宝蔵院の胤栄師の元で槍の修行しておりました。そこに松永様の軍勢が押し寄せて一触即発の危機に陥りましたが、山中様の一隊が来て何故か大路で宝蔵院との前線大試合が催されました。五番勝負・三勝一敗で山中隊が勝利。さらに頂上決戦として催された胤栄師と山中様の試合は、息も止る速さ恐ろしさに鳥肌が立ったいまだに忘れ得ぬ極限試合で御座りました」
「・・・」
「・・・さほどに」
「山中様は松永と興福寺の戦をその前線の大試合で治めたのです。その様な数々の驚くべき事を成し遂げて、山中様は軍神と呼ばれ百合葉様は戦の女神と呼ばれております。妾はその軍神に武田を尾張から追放する手を教えて頂きました」
「!・・・どのような?」
「武田水軍の動き、それに伴う入道殿の容態、これは戦に出ると悪化すると」
「つまり、信玄殿を戦に引っ張り出して消耗させるので御座るな」
「そういう事です。『尾張・伊勢・渥美・三河・遠州は何かの動きで大きく動く。その機を捉えるのだ』とも言われました」
「・・・」
「・・・」
方々は腕組み目を閉じて沈思しはじめた。皆に考えさせてはいるが、おそらく帰蝶様にはまだまだ幾つかの仕掛けを施しているだろう事は、方々は察している。
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