第282話・松平の決断。





尾張三河堺 松平軍陣地 松平家康


「鳥居、信長様は信康を人質に寄越せと仰せか・」

「はっ」

「なんと・・・」


 織田軍は加賀の一向一揆征伐遠征で大敗して勢力が一気に半減した。

川尻・丹羽・金森・森・遠山などの名だたる武将が討ち死にして、柴田・滝川・佐久間などの有力な武将が飛騨に留まったまま戻らず、尾張にいる有力な将兵が激減した様だ。


忍びの者を束ねる服部半蔵正成の言によれば、加賀の戦いで先陣の柴田・滝川・丹羽隊が形勢不利で一気に兵を減らして後退しようとした。それを信長様が許さずに『後退するな』と火縄銃を撃ち込んだらしい。

空に向けての威嚇射撃なら解らぬでは無いが、味方兵に向けて撃ち放ち大勢の兵を撃ち殺したという。その中に柴田の嫡男がいたようだ。


山間を飛騨に向けて逃げて、飛騨高山で兵をまとめた。迎撃に出た金森長近が重傷を負い、代わって柴田勝家と滝川一益が飛騨を護っている。どうやら二人は、織田家と袂を別つようだと。



 信じられない事だが、今の織田軍は五千ほどの兵を指揮する将は、池田の他は前田・佐々・木下・明智などの小身者しかおらぬという。

そこを逃さずに武田軍が南下して尾張国境に進軍して来た。そして我が軍に共に織田を攻めようと衆人の前で伝えてきたのだ。それは織田に聞かせる武田の策略なのは解っている。

松平と武田は少し前に軍事同盟を組んで遠州を攻撃した。遠州を落とす事は出来なかったがそれはまだ生きている。



それに対して詰問に来た織田の使者の無礼なこと。勝手に激昂して戻っていった。その様子を儂は離れて聞いていた。織田には人がおらぬ。これはかなり深刻だなと苦笑さえでたわ。


 だが、松平に人質を寄越せとは・・・。確かに織田家とは対等な同盟では無い。従属したといって差し支えない同盟だ。今川と戦うためには致し方なかったのだ。それを近衆の世間知らずに無礼な口を聞かれる覚えは無い。ただでさえ我が家臣団には一向宗徒が多いのだ、信者を捕えて人盾にするような織田方に味方するのは以前より遥かに難しくなっている。


 ふむ、それを踏まえた信長殿の指示か・・・まったく蛇の様な男だ。



「殿、如何致しましょうや?」

「鳥居、今の時点で織田に人質など出すつもりは無い。是非にと言えば一戦に及ぶのも構わぬ。だが武田は何処まで本気だと思うか」


「さ・それは・・・」

「・・・」


 重臣どもも武田の本気度は計り難いようだ。


「殿、宜しいでしょうか」


「半蔵、なんだ」

「武田軍を率いているのは馬場信春・飯富昌景に土屋昌続で御座る」


「うむ、飯富は譜代家老で赤備え三百騎の大将だ。馬場も譜代で歴戦の猛将、土屋は・・どのような?」

「土屋昌続は騎馬五百騎を率いる騎馬大将で御座る」


「騎馬隊か、武田の強力な部隊だな。しかし飯富・土屋と騎馬隊が多いな・・・む・」

「お気付きで御座るかな」


「騎馬隊を運用すれば、織田隊より速く展開出来る。つまり武田隊は本気だな。信長殿を討ち取り一気に決着をつけるつもりか・・・」

「拙者もそう思いました。だが相手は織田だとは限らぬかと」


「・・・なるほど、我らが織田と組んで対抗すれば三河を取るか」

「はい。そして今の織田ではそれに手を出せますまい」


「我らは生け贄か、理不尽だな。ならば武田に味方すればどうなろう」

「織田領の一部を手に入れて、織田を怖れて暮らすことになり申そう」

「今までと大差ないわ。いつ織田に喰われるかヒヤヒヤしておったからな」


「伊那で武田に敗れ、加賀に敗れた織田が狙えるのは三河・遠州で御座る」

「・そうなるな。ならばここで良い領土を得て国力を上げるか」


「それがよう御座います。良い領地を得られれば織田に負けぬかも知れませぬ」

「うむ。それが最善の策か・・・」



「ご注進、武田軍が進軍しています!」


「動いたか、虎が・・」

「ですな」



「武田隊、伊保城下に集結、その数八千!」

「騎馬隊一千が境川を越えて西進!」


「おう、さすがに速いな・」


「飯富隊四千が城下の南に布陣。残りは境川を越えて西へ!」


「殿、もはや猶予は御座らぬぞ!」

「うむ、武田に味方する。我らはどのように動けば良いかと飯富隊に伝令を出せ!」

「はっ!」


 伝令はすぐに戻って来た。

「飯富隊より伝令! 松平隊は境川を渡り信長に馳走すべしと!」


 ・・左様か。信長殿に当れか、やはりそう来るか。

是非もなし、潔く信長殿と戦ってその首を落としてくれるわ。それならば戦後の憂いが消える。


「進軍せよ、境川を渡り織田隊に馳走する!」

「「「おおお!」」」


 この瞬間、織田松平同盟は瓦解した。





長久手・岩作城 織田軍池田恒興


「武田隊、西に進軍!」

「岩崎城、武田隊に囲まれています!」

「松平隊、境川を越えました!」


 次々と入る報告が急を告げている。武田の八千が尾張領に侵入して、松平隊がそれを追うように境川を越えた。我らがここで牽制しているのを屁とも思わず真っ直ぐ領内に侵入したのだ。騎馬隊のみを先行させた武田隊の動きが速い。


「すぐに南下して武田隊の後を追えと、広見城に伝令!」

「はっ!」

「大草城には、城を破棄して合流せよと伝えよ!」

「はっ!」


 小牧山城から進軍して来て三州街道を北から圧力を掛け待ち受けたが、こうなった以上少数の我らが分散しているのは良くない。


「御屋形様、武田はここを素通りして尾張深くに向かうつもりで御座ろう。いち早く末森城に戻り防御を固めるのが良かろうと思いまする」


「・・うむ。ならば、其方が末森城に行き迎え撃て」

「御屋形様は?」

「余は小牧山に戻って援軍を編成する」

「・・承知致しました」


(最近の殿はどうしたというのだ・・)

 池田恒興は信長と乳兄弟で幼い頃から小姓として仕え、信長とはもっとも気心が知れあった間柄だった。滝川一益とも遠戚で彼も最近の信長の行状には胸を痛めていた。


(しかし、領地が犯されているのに、敵の優勢を知ると策も与えずにとっとと逃げるのか・・・)

とは思ったがこれは口には出さなかった。


だが、総勢五千兵のうち一千を連れて行くという仰せには、『多勢を連れてゆけば時間が掛かります』と言わざるを得なかった。ご自分だけを守っても尾張は守れぬのだ。

それを考えると、却って妙な策など聞かなくて良かったかも知れぬ・・・



「佐々隊一千合流しました!」

「よし、末森城まで駆けるぞ。重い物は置いて行け。一時も早く着くのだ!」


 二千五百の兵で夢中で一里も駆けた、末森城まではあと半分だ。無論、鎧は着けたままだ。兜は手に持ったが、全身汗でドロドロになった。改めて締め直せねば戦も出来ぬわぃ。


「注進、末森城は既に武田の手に落ちて降ります!」

「なんじゃと。敵は今どこか!」


軍を止め四方に斥候を放った。

武田軍は境川を越えて岩崎城に取り付いた。だが岩崎城の守兵は三百ほど、そこに一隊を残して前進して末森城を落としたのか。

次は何処だ? 武田軍の動きが解らぬ、何処に向かったのだ・・・


「注進。松平隊二千、我らの最後尾を掠めるように北上しております!」

「一千が南下、残り一千は岩崎城を背後に反転して陣構えをしています!」

「なにぃ!」


 松平は武田に付いたか。

南下すれば知多郡だ、陶器の生産地・常滑がある。反転したのは追走してくる広見城兵への備えか。

北上と・・・まさか御屋形様を狙っているのか。この先の末森城は敵方に落ちた、このまま進めぬ・・・


「佐々、一千で反転して前田と松平を挟撃せよ!」

「はっ!」


「残りは北に向かい庄内川を越えて清洲城に向かう。すぐに出立せよ!」

「はっ!」


 北に向かう我らの鼻先を掠める様に騎馬隊が駆け抜けた。御屋形様を追っていると思われる三百の武田騎馬隊だ。だが騎馬隊が無い我らでは如何ともし難い。

 しかし何という動きの早い戦だ、敵の動きが解らぬ。後手後手に回っている。

それにしても、いつの間に国境も守れぬ隊に成り下がったのか、尾張は・いや織田はこの先どうなる・・・


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