第241話・熊野詣。


永禄八年三月中旬 万里小路輔房


 朝靄の立ちこめる都を出たのが卯の刻(午前5時)、山中様の用意された馬車は驚く程速い。淀川沿いを下って尼崎近辺に着いたのが辰の刻(午前7時)だった。


 行幸は主上と房子様、権大納言・山科言継様と泰子様、それに侍従四名(女)と小者二名(男)と麿の十一名だ。行幸としては考えられぬ少人数だが、前後には山中家の精強な数十の騎馬兵が随行しているので不安は無い。

 案内は南山城・木津城の元城主・木津重右衛門殿だ。木津殿は山中様の義父で室の百合葉様のご尊父だ。一行の中では最年長の山科様と同じ歳で、穏やかな御方だ。


 まだ朝方早き時刻だが、湊には山中様の船が既に停泊して我らを待っていて呉れた。その大きく美しい大船を見て、一行は度肝を抜かれた。

 大和丸は揺れも少なく快適だ。それでも海に慣れぬ我らの為に半刻毎に入港して陸に降ろされた。大地を踏むと浮ついた体がしっかりとするのが分かる。


 三度目の入港は湯浅湊だ。中食が用意されていて半刻ほど海の幸を楽しんだ。

 本日の宿泊地である紀伊田辺についたのは、夕刻が近付く申の刻(午後4時)頃だ。


「万里小路様、如何でしたかな船の旅は?」

「木津様、思ったより快適でありました」


 今回の一行では、山科様以外は船に慣れてない。麿も船酔いを覚悟していたが、船が大きいせいか気持ち悪くなる手前で留まっている。主上や女衆も甲板に出て景色を見ていることが多かった。

山中の警護隊の半数は女性で、警護隊はそのまま乗船して近くにいてくれるので女衆も一安心だろう。大和丸には女性用の厠があるという。房子様も泰子様もとても喜んでおられた。



 夕餉は質素ながら手が入った一品であった。参詣という性格上、贅を抑えた食事に気配りが感じられた。参詣といえども遊山の旅だ、酒も一本付いていた。主上の希望で旅の間の飲食は車座ですると言う事になっている。そこで侍従・小者以外の五名と木津様を加えた六名で頂いている。


「重右衛門、大和丸は見事な船であるな」

「はっ、山中国の船大工が工夫を凝らして改良した船で御座いまする」


「立派なお部屋に女用のあれも嬉しゅう御座いました」

「はい、大和丸には女衆も乗っておりまする故。もっとも殿のご指示だと聞いておりまする」


「明日はもう本宮大社に着くのよな」

「はい。本宮大社の近くには到着致しますが、ご参詣は明後日でありまする。まずは出で湯に浸かり熊野の大地を感じて頂きますように」


「昔は都から本宮までは十日も掛った。二日で着くとは山中のお蔭ですな」

「うん。朕が熊野詣出来るとは、まことに夢のようだ」




夕餉の後は、座机を借りて本日の事を書き記す、これが麿の役目だ。山科家の家定である麿が同行を許されたのは、主上や山科様の使いっ走りと記録のためである。房子様や山科家は遠戚で親しいと言う事もあるだろうが麿の若さが決めてであったろう。


 山科様は蔵人頭で朝廷の逼迫した財政の立て直しに各地の大名家を奔走された。なにせ主上の即位式が二年も出来ないほど逼迫していたのだ。それが永禄四年からの山中様の献金により大いに改善した。山科様が山中様の後見のようになっているのはその為だ。今では朝廷の財政の多くが山中様に頼っているのだ。


「ふう、書き終えた。いやはや長い一日であった・・・」


少し遅くなったが、明日からは馬車の旅なので船酔いも無く安心だ。うん、あの馬車は快適だ。寝ていても明日は熊野の出で湯に浸かれると思うと幸せだ。



翌日は中辺路を本宮大社に向けて出発した。二台の馬車に十数騎の騎乗兵が前後に付いている。前の護衛は華隊と言われる女武者だ。

馬車は六人掛けで、先頭の座に麿と木津様、後に帝と房子様、その後に山科様と泰子様が座されている。侍従と小者は後の馬車に乗っている。


「天子さま!」

「、ようこそ!」


街道では、多くの民が馬車の傍に来て見ている。主上が来られたことを皆が知っているのだ。手を合わせて拝んでいる者が多い。

それにしても近いな、前後にいる警護兵も彼等を離そうとはしないのか?


「帝、山中の民はすぐ傍に来ます。殿にもその様にして平気で話し掛けて来ますので、お許しを」


 木津様が後に御座されている主上にお断りを入れている。昨夜、旅の間は「主上」では無くて「帝」と呼ぶ様に仰せになられたのだ。


「良い。山中の民を見る事が旅の主観ならば、いっそ好都合」


「天子さま」に混じって

「木津様、お帰り!」

「ようお戻りに!」という声も多い。


「重右衛門、お帰りとは?」

「はい。某、当初この地域の差配を努めておりました。太郎が生まれ「たまには出で湯に浸かり孫の顔を見に来い」との言葉を頂きまして後に離れましたが」


「そうであったか」


「木津さま、女神さまや姫さまは元気だか?」

「おう。二人共もすこぶる元気にしておるぞ!」


「そりゃあ何よりだ、おらも嬉しいだよ。天子さまのご案内、ご苦労だがや」

「わっはっは」


 山中国の差配と言えば、地域を統括する者だと聞いた。独自の判断が許されて有力国人以上の力を持っていると。だがその者と民との会話とは思われぬ親しさだな。これは話に聞いていた以上だな、麿も気にしないようにしなければ。


「重右衛門、女神とは百合葉の事か?」

「そうで御座いまする。実はこの辺りを制圧したのは百合葉で、その折、民草が敵である山中隊に協力してくれたので御座る」


「そうか。・・・車を停めて呉れぬか。民と話をしたい」

「御意」


 馬車が止まり回りに民が取り囲むと、華隊が下馬して車の回りに並んだ。


「皆に聞く。山中が攻めて来たときに何故味方したのか」


「そりゃあ天子さま。山中領のよい話を聞いていたからだ」

「んだ。てめえの都合で民を食い物にしねえ」

「ただ働きの労役がねえ」

「戦に取られねえし、略奪がねえ」

「開墾や商いで豊かになると・」


 民草は平気で主上に話し掛けている。都では大名でも見る事さえ許されぬのに・・・


「そうか。今はどうか」


「食う物に困らねえだ」

「べべの替えもできただよ」

「おら、蓄えもできただ」

「安心して子を産めるだ」


 なるほど。想像通り豊かになったのだ。だが、労役や戦役、戦での略奪は何処でも普通にある事だ。都でもそうなのだ・・・

 たしかに他国とは、民の目の輝きが違う。そもそもこんな弾けたような笑顔は都でも見られぬ。


「話では、山中の女神様が行けば敵の首が飛ぶと聞いた。まことか」


「そりゃ真だよ、天子さま」

「悪たれ領主の山本や目良の首がポンポンと舞い上がっただよ!」

「あれから此処らは良い国になっただよ!」


 やはり本当だったのか。山中様や百合葉様の話はとんでもないものが多いが、それがみな事実だとしたら・・・




「帝、間も無く滝尻王子で御座いまする」


「そうか。初めてお山の内に入るか、朕も水垢離する。そこに案内を頼む」

「御意」


 滝尻王子は近年には迂回路があって使われていなかったが、山中様が街道整備してのち再び使われるようになっているらしい。

 どちらにしても熊野詣をする者にとっては、熊野三山への入り口・岩田川で水垢離をして向かうのがしきたりだ。


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