第54話・菊水の旗。
楢原城 楢原久遠
夜襲があった。
今朝未明のことだ。我らにでは無い。
南から山中の陣地に何本もの火矢が撃ち込まれていた。まるで平野に乱舞する蛍のようだった。それはそれで美しかった。
だが、これを切っ掛けに何が起こるか分らぬ。我ら城兵は緊張して備えていたが何事も無く朝の光を迎えた。
朝の光の中で見る山中の陣は、はっきりと兵が減っていた。半減している様に見える。
「物見、何か分ったか?」
「はっ、夜襲部隊は吐田勢およそ百、山中隊に接近して無数の矢を放ったようです」
(もぐらが出て来たか・・)
山中に無視されていた状態の吐田が出て来て陣を襲い、山中勢の一部がそれを追って出陣したのだ。
「山中隊の被害は?」
「幾つかの小屋などが燃えましたが、兵に混乱は無く、人的被害は確認出来ておりませぬ」
ふむ、夜襲があったのにも関わらずに混乱が無かったのは、ここから見ても分った。吐田の動きは事前に察知されていたと考えるべきだろう。
「追撃した山中隊の様子は?」
「薄明るくなった四半刻後に、およそ五百の兵と荷駄隊が粛々と行軍して行きました」
追撃では無くて行軍か・・。荷駄隊も事前に準備が終わっていた。山中隊にとっては全て予定通りの動きだった訳だな。
夕方になると戻って来た物見の報告により、更に詳しい状況が分ってきた。
肝心な事は吐田が夜襲に出た間に、吐田城がそのまま乗っ取られたらしい。あの入念に整備された研ぎ澄まされた刃の様な山城が何の役にも立たなかったのだ。
吐田城の門前で、吐田監物のほか吐田家の主な者は討死。
吐田領の国人衆の過半は山中に臣従した。残りの者は滅ぼされたか交戦中だという。
うむ、やはり山中は怖い。一夜にして吐田を滅ぼした。
それにしても、あの吐田が死んだか。我らは吐田氏に追い落とされて、何年も山中で逼塞したことがある。
その吐田氏が滅んだ。
昨夜の火矢の舞いは、吐田氏最後の乱舞だったのだな・・
待っていたもぐらが出て来て滅んだ。
次に山中はどう出る?
読めぬ、まったく見当もつかぬわ・・
翌日の昼過ぎに、将兵はすぐに本城に集るようにと当主から連絡があった。駆け付けると主な者が揃って戸惑いの表情だ。
「どうした、何があった?」
「叔父上、山中の陣に菊水の旗が立っているとの報告がありました」
「なんだと・・」
菊水の旗は、後醍醐帝が許した楠木の旗だ。我らの先祖がこぞって結集し、正成公と共に幕府を倒した旗印だ。それは楢原のどの兵にも心の奥底に残っている誇りの源なのだ。
そうか。これが山中の狙いか。
「ならば、我らはその旗の下に行こうではないか」
「叔父上、それで宜しいので?」
「何を迷っているのだ。我らの生きる道を山中殿が示してくれたのだ。それとも菊水の旗の下に集るのに躊躇いがあるのか」
「いいえ某には、一片の躊躇いも御座りませぬ。解りました叔父上」
「よいか者ども、我らはこれより山を降りて菊水の旗の下に駆け付ける。すぐに準備致せ!」
「「「 おうっ!!! 」」」
楢原城下の山中陣地 楠木正虎
某は山中殿の陣地にて、谷から湧き出るように下りてくる楢原隊の丸に花菱の旗を見ていた。
某の横には微笑んでいる山中どのと北村どのがいる。
奥伊勢から付いてきた橘や土居ら、楠木砦の直近の国人で最初に配下に付いてくれた佐味兵庫、それに赤坂村から駆け付けてくれた佐藤郷佐衛門らもいる。
総勢七十二名。これが今の某の兵の全てだ。楠木砦は五十の山中の部隊に留守を頼んだきた。
そして我らの前方左右には、山中どのから頂いた菊水の大旗が風を受けてたなびいている。
最初にこの話を山中どのに聞いた時は感動した。
「楢原は正成公にとって大事な一族であった筈だ。儂は楢原を生かして正虎どのの麾下に付けたい。一度は没落しても再び復活を果たした粘り強い一族の楢原だ。きっと正虎どのにも吉兆の者たちになるだろう」
御先祖の正成公が多くの国人衆に支えられて活躍したことは伝え聞いている。だがその詳細については分らぬのだ。
山中殿が囲んでいる楢原郷でも二千もの人々が身替わりの石地蔵を拵えて決死の覚悟で援兵に駆け付けたというのだ。
山中どのの配慮は嬉しかった。
「その時はこれを掲げられると良い」と言って菊水の大旗を渡された時には、涙が出そうになるほどだった。
しかし正成公の活躍した時代から既に二百年も時を経ているのだ。今さら楠木の、某のような若輩者に従ってくれるのか不安だった。おそらく無理だろうとも内心では思ったりもした。
だが今それが現実のものとなりつつある。その軍が下りてきて我らの目の前に整列し始めた。皆逞しき面構えのもののふ達だ。彼らは菊水の旗を見上げて膝を付いた。
まさかこんな時が来るなど、奥伊勢で逼塞していた時には夢でしかなかった。
なんという感激・感動だ。心だけで無く体も震えている。
「と・殿、これは夢では御座るまいな・・」
共に苦労してきた土居の目が光っている、橘もだ。馬鹿者、いい年をして泣くでないぞ。某も貰い泣きしそうではないか。
だが彼らはこの正虎を慕ってきてくれたのでは無い。全ては御先祖・正成公の威徳なのだ。ここは楠木の名に恥じぬように毅然としなければならぬ。
全ての兵が下りてきた。
整列した兵たち皆が無言でこちらを見ている。
その視線が熱い、だが決して目を反らしてはならぬ。
列の中から三人の将が進み出て来た。当主の楢原栄遠と嫡男の右衛門、前当主の弟の久遠だろう。
「楠木正虎殿とお見受けする。某は楢原家当主の楢原栄遠で御座る。我ら楢原一族はその昔菊水の旗の下に駆け付け戦い申した。今この時再びその旗に相まみえて、我ら再び駆け付けて参った。どうか我らを家臣の端くれにお加え下されますように」
「楢原栄遠殿とその一族の参陣、正虎 今までの生涯の中で一番の感動である。まだまだ心許ない若輩者の正虎であるが宜しく頼み入る」
陣地を静寂が包んだ。振り返って見れば、背後に民が大勢出て来て並んでいる。楢原の民たちだ。
山中どのが前に進み出ると、振り返って自軍に向かって言った。
「これにて山中の楢原攻めは終わり楠木は心強い味方を得た。大隊長、勝ち鬨を上げよ」
「者ども、勝ち鬨じゃ。エイ・エイ・オー!」
「エイ・エイ・オー!」
「エイ・エイ・オー!!」
「エイ・エイ・オー!!!」
立ち並ぶ民まで参加した勝ち鬨が平野に響き渡ると、それに突き動かされたように一陣の風が吹いてきて菊水の大旗を「バタバタ」と鳴らした。
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