3.

 町には、一つの〈怪談〉があった。

 こんな話だ。

『西の外れにある全長二・五キロメートルの大トンネルの中には〈非常駐車帯〉と呼ばれる道路幅の広くなった場所が三つある。その二番目、トンネルのちょうど真ん中にある駐車帯(町を出て隣町に向かう方の車線)に、血のように赤黒く塗られた長距離バスが停車する。バスは〈異界〉を巡る乗り物で、一度ひとたび乗車すれば二度とこの世界には戻れず、永遠に〈異界〉を彷徨さまよい続ける事になる』

 町の人間なら誰でも知っている話だ。

 単に知っているだけでなく、住民は皆、それを本気で信じていた。

 アルコールの雨が強く降る中、骨の折れた傘をさして防毒マスクをけた少年が、西の大トンネルを目指して町の幹線道路を歩く。

 いつもなら、そこそこの数の自動車が行き交う道路みちだが、その日はたまにトラックが通り過ぎるだけだった。

 町の人々は、降り続く雨と空中に漂う気化アルコールを嫌って外出を控えているのだろうか?

 少年は、歩き続ける。

 時どき、路面に出来た水たまりならぬ『アルコールたまり』を跳ね上げながら、トラックが少年の脇を通り過ぎて行った。

 住宅地が終わり、田畑を通り抜け、道は森に入る。


 * * *


 目の前に、大きなトンネルの入り口があった。

 怪談の舞台と言っても、荒れ果てた古トンネルではなかった。

 ユキタの町と隣町をつなぐ幹線道路上にある、最新の技術で掘削され建設された、まだ余り汚れていない綺麗きれいな灰色のコンクリート壁と黒いアスファルト舗装のトンネルだ。

 大型トラックが行き交うのに充分な道路幅があり、天井には換気用の大型ジェットファンが吊り下げられている。

 車道の両側には、細い歩道が通っている。

 ユキタは骨の折れた傘を畳んで大トンネルに入り、左側の歩道を……つまり、町を出て隣町へ向かう車線沿いの歩道を歩いた。

 発光ダイオードに照らされた坑内は明るくて、白っぽい。

 ひょっとしてトンネル内の空気は清浄だろうかと思い、防毒マスクを少し持ち上げてみる。

 ツンッと鼻を突く刺激臭に、あわててマスクを締め直す。

(やっぱり密閉されていないとダメか……)

 少年は黙々と、トンネルの奥へ奥へと歩く。

 一つ目の〈非常駐車帯〉に到達した。

 病気の発作など何らかの事情で運転できなくなったドライバーが自動車を停止させる場所エリアだ。

 その部分だけ車道が幅広になっている。

 当然、歩道もその膨らみに沿って設置されている。

 壁に、非常電話があった。前を通り過ぎる。

 再びトンネル内の車道は二車線に戻る。

 ユキタは歩道を歩く。

 奥へ奥へと歩く。

 空気がアルコールに侵されていて防毒マスクは外せないとしても、雨粒が降ってこないだけマシに感じる。 

 雨は体力を奪う。それが無いだけトンネル内は居心地良く感じられる。

 表情のないLED光に照らされた灰色のコンクリートが続く空間を、ユキタは歩き続けた。

 路面は乾いていて、脇を通るトラックが水たまり(アルコールたまり)を跳ね上げる心配もなかった。


 * * *


 二つ目の〈非常駐車帯〉に到着した。

 長さ二・五メートルのちょうど真ん中だ。

 バックパックを下ろし、歩道に腰を下ろし、壁に寄りかかってバスを待つ。

 血のように赤黒い長距離バス。

 実際、どんな外見なんだろうか?

 何時いつやって来るのか? 何時まで待つ必要があるのか?

 歩道にじかに座り、バックパックを抱え、コンクリート壁に背中を預けて待つ。

 少年が伝え聞いた〈怪談〉によると、どうやらくだんのバスは到着時刻が決まっていないらしい。

 このまま『丑三うしみつ時』とか呼ばれている真夜中まで待ち続けなければいけないのだろうか?

 そういえば、いま何時なんじだろう?

 少年は時計を持っていない。

 トンネルに入るときには、確かに昼間だった。

 坑内はLEDの光で煌々と照らされているから四六時中、明るい。

 だから今が昼なのか夕方なのか夜なのか、はっきりしない。

 座って少し落ち着いたら、空腹を感じた。

 バックパックの中からチョコレートを出した。

 しばらくの間、じっ、と見つめる。

 大事なチョコレートだ。

 旅は始まったばかりだというのに……いや、まだ始まってさえいないというのに、今ここで食べてしまうのは、あまりに勿体もったいない。

(大丈夫。まだ我慢できるさ)

 チョコの箱を再びデイバッグに仕舞しまう。


 * * *


 それから、さらに時間が過ぎた。

 何度も自分の町の方を……バスがやって来ると言われている方を見た。

 時々、トラックが通り過ぎた。

 運転手の中には、フロント・ガラスごしにユキタをチラリと見る者もあった。少し驚くような表情を見せ、しかし停車する訳でもなく、そのままスピードを維持して隣町の方へ走り去った。

 自動車が走り去り、次の自動車がトンネルに入るまで、少しの間だけトンネル内は静かになるが、ユキタは落ち着かない。

(音が無くなっても、このトンネルの中は、何だか

 その大型車がユキタの町の方から来た時も、最初はトラックだろうと思った。

 しかし、ぐに、その車体が長距離バスの物だと気づく。

 赤黒い、血のような色の、バス。

(あれは、血の色じゃない……塗装でもない)

 さびだ。

 ボディ全体の表面に、隙間なく赤錆あかさびが浮いている。

 その赤黒い感じは、確かに遠目には『血』を連想させる。

 人間の血が赤いのは鉄分が含まれているからだと理科の先生が言っていた。

 血中の鉄分が酸素と結びついて赤くなるのだ、と。

 それは鉄錆の赤さと同じものだ、とも。

 赤錆に覆われたバスが近づき、徐々にスピードを落とし、左ウィンカーを点滅させながら、通行帯から〈非常駐車帯〉に車線を変えた。

 少年は、あわてて立ち上がり、デイバッグを背負った。

 ……いよいよ、だ。

 いよいよ、僕は、このバスに乗るんだ。

 そして、もう二度と生まれ育った町には帰って来られない。

 どころか、二度とこの世界には戻って来られない。

 フロントガラスは大きく、運転手の顔が良く見える。

 表情の無い青白い顔の、痩せ型の中年男だった。

 ユキタの真ん前にドアが来る位置で、異界バスがピタリとまった。

 プシュー、という音と共にドアが開いた。

 運転手と目が合った。その冷たさにゾッとする。

「ヤミゴタ村役場行きー、ヤミゴタ村役場行きー」

 運転手の声をアナウンス・マイクが拾い、車体のどこかに設置されたスピーカーが鳴った。

(本当に、これで最後だ。いや、これが始まりだ)

 家族も、友達も、学校の先生も、汚れた町の路地も、小さなボロ・アパートも、もう関係無くなる。

 開いた自動ドアの向こう側、バスの車内へ行こうと片足を上げかけた時、父親の声がした。

「行かせない」

 心臓がドクンッと高鳴り、反射的に声のする方を見た。

 歩道の上に、いつの間にか父親が立っていた。

 アパートの前でゲロを吐いてブッ倒れた、その姿のままで立っていた。

 口の周りから胸元まで、自分自身のゲロで汚れていた。

「この俺が、お前を行かせると思うのか?」

 父親がユキタをにらみながら言った。

「何のためにお前の面倒を見て来たと思っているんだ? 大人になったら今度はお前が俺の面倒を見るんだ。そのために育ててやっているんだろうが。俺が死ぬまで、ずっと、俺の面倒を見るんだ」

 言いながら、ゆっくりユキタの方へ近づいてくる。

 ユキタは傘の柄をギュッと握る。

(無理だよ、父さん)

「勝手は許さん。この町から出て行くなんて勝手は、この俺が許さんぞ」

(死ぬまで面倒を見る、だって? 父さん? それは無理だよ。だって父さんは)

「そこでジッとしていろよ。バスに乗るんじゃないぞ」

(だって、父さんは、もう死んでいるじゃないか)

 いきなり父親が距離を詰めた。

 瞬間移動だった。

 物理現象を超越している。もう彼は生きた人間じゃない。

 父親が瞬間移動する直前、ユキタは傘の先端を父親に向けていた。

 どうしてそんな事をしたのか、自分自身わからない。

 反射的、無意識の動作だった。

 そして、完璧なタイミングだった。

 瞬間移動で近づいた父親の腹に、傘の先端が埋もれていた。

 ユキタの突き出した傘に向かって、父親が自ら瞬間移動する格好になった。

 父親の体がグラリと揺れる。

 ユキタは傘から手を離した。

 父親が笑った。

「こんなもので」

 傘がストンと足元に落ちる。

「こんなもので、俺をどうにか出来るとでも思ったか?」

 バスから「プーッ」という警告音が鳴った。

 自動トアが閉じる直前に必ず発せられる音だ。

 しびれを切らした運転手がドアの「閉じる」スイッチを押したのだと気づいた。

 ユキタはステップを蹴ってバスの中へ飛び込んだ。

 直後、ドアが閉まる。

 振り返ると、ドアのガラス窓に父親の顔がへばり付いていた。

 しかし、もう遅い。

 扉は閉まった。

 ユキタは、間一髪でバスの中。

 父親は、外。

 完全に遮断され、互いに、もう別々の世界の存在だ。

 物理法則に反して瞬間移動する『幽霊』でさえ、この異界バスの扉は越えられないようだ。

 父親(の幽霊)が、バスの扉をドンドンと叩く。恐ろしい、浅ましい形相ぎょうそうだった。

「永久乗車券パスを」と運転手がユキタに言う。「永久乗車券を見せてください」

「あの……持っていません」

 少しの間、運転手は少年を見つめ、それから「では、永久乗車券を買いますか? それともバスから降りますか?」と尋ねた。

 少年は、バスの運転手の青白い顔を見て、それから自動ドアの外で、バスを叩いている父(幽霊)の顔を見た。

「バスを降りるのは、いやです。でも、お金は持っていません」

「支払いは、お金ではありません。お客さまの『苗字』で支払って頂きます……どうしますか?」

 そう運転手にかれて、ユキタは、もう一度、ドアの外を見た。

「払います。僕の苗字で支払います」再々度、運転手の方を振り返って、少年は答えた。「だから永久乗車券を下さい」

 それを聞いた運転手が、運転席の何処どこかからカード・サイズの金属板を取り出して、ユキタに渡した。

 金属板には「ユキタ」の文字と生年月日が刻印されていた。

 苗字は無い。

(俺の苗字って、何だったっけ?)

 自分の苗字がどうしても思い出せない。乗車券パスと引き換えに、少年は苗字を失った。

「バスから離れてください」運転手がアナウンス・マイクを通して車外の父親に言った。

 警告を無視して、父親が扉を叩き続ける。

「発車しまーす」

 運転手が言い、ゆっくりとバスが前身を始める。

 父親がドアの窓から消えた。

 バスはウィンカーを出し〈非常駐車帯〉から走行車線に合流し、速度を上げた。

 ユキタは父親に対する興味を失っていた。

「死ぬまで俺の面倒を見ろ」と言った、既に死んで幽霊になっていた父親。

 バスの窓から外をのぞいて、父親がどうなったかを確認する気も起きなかった。

 とにかく、どこかの席に座って眠りたかった。

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彷徨うバス 青葉台旭 @aobadai_akira

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