2.
ユキタの住んでいたボロアパートから、本を貸してくれた友達の住んでいる地区まで歩いて行った。
少し距離がある。歩いて十五分くらい。
中流以上の人々が住んでいるその地区の、ちょうど真ん中あたりに友達の家があった。
玄関脇に設置されたインターフォンのボタンを押す。
「はい」
インターフォンの向こう側から、大人の女性の声がした。
友達の母親だ。
ユキタは防毒マスクを外し、インターフォンに内蔵されたカメラに自分の顔がよく映るようにした。
漂う気化アルコールが目に
「〇〇さんと同じクラスの、……ユキタと言います。借りていた本を返しに来ました」
「ちょっと待ってて」
インターフォンのスピーカーの電源が切れる「プッ」という小さな音。
ユキタは慌ててマスクを装着しなおし、フィルター越しに大きく空気を吸った。
しばらくして、玄関の扉が細く開いた。
少女の顔が
「ユキタくん、なの?」
少女が問いかけた。
ユキタが
少女は、人ひとりだけ通れるくらいにドアを開け「早く中へ」と言った。
ユキタはその隙間からスルリと中に入る。
少女が扉を閉める。
アルコールを含んだ外気が屋内に侵入するのを最小限に抑えられた。
「本を返しに来たんだ」少年は少女に言った。「ホビットの冒険」
「ええ? なにも、こんな日に返しに来なくても良かったのに」少女が驚く。「明日、学校で返してくれれば……もし明日が臨時休校なら、その次でも良かったのに」
「どうしても今日じゃなきゃ駄目なんだ」
ユキタのその言葉を聞いて、少女は何かを察し、彼の目を見つめた。
「何か……あったの?」
ユキタは黙って
少女が重ねて尋ねる。
「もしかして、お父さんと喧嘩した、とか?」
「まあ、そんな
「だって、前に『父さんと仲が悪い』って言ってたじゃん」
「そうだっけか」
「うん」
「実は、俺、トンネルに行こうと思ってさ……『バス』に乗ろうと思うんだ」
そのユキタの言葉を聞いて、少女がハッと息を飲む。
「本気なの? ユキタくん?」
「うん。本気。ほら、こうして着替えやら歯ブラシやらも持ってきたし」
言いながら、彼はバックパックを背中から下ろし、ファスナーを開けた。
中に手を突っ込んで、使い捨てのレジ袋に入った『ホビットの冒険』上巻を取り出す。
「はい、これ。貸してくれて、ありがとう。途中までしか読めてないから感想は言えないけど……でも、うん、面白かったよ」
言いながら、本を少女の方へ差し出した。
少女は、自分の胸あたりに突き出された本を見下ろし、顔を上げて少年を見つめ、また本を見下ろす。
もう一度、顔を上げて少年の目を見つめながら少女は再度、尋ねた。
「本気なの?」
「うん」
「考え直す気は?」
「ないよ。もう決めたんだ」
そう言った相手の目をしばらく見つめたあと、少女は「ちょっと待って」と言って家の奥へ消えた。
しばらくして戻ってきた少女は、手に持った本とチョコレートの箱をユキタに渡した。
「これ『ホビットの冒険』の下巻。ユキタくんに上げるよ。もちろん、上巻も」
「ええ?」
「あげる。二冊とも。バスの旅なら、きっと退屈でしょう。これでも読んで」
「本当に、良いの? だって大切な本なんだろ?」
「好きな本だけど、別に絶版って訳でもないし、今でも手に入るから。また本屋さんに注文し直すよ」
「だとしても、お金が掛かる」
「良いよ、それくらい。友達だから。これ『餞別』って言うのよ」
「餞別かぁ」
「要するに旅立つ人へのプレゼント」
「本当に、良いの?」
「しつこいよ。良いから、受け取って」
「ああ、うん。分かった。ありがとう。大事にするよ」
「それからチョコレート。どうせ食べ物の用意なんかしてないんでしょ? きっとお腹が
「うん。本当に、ありがとう」
少年は、もらった二冊の本、『ホビットの冒険』上巻と下巻を、ていねいにコンビニ袋で包み、チョコレートの箱と一緒にデイバッグに入れ、ファスナーを閉じて背負った。
「じゃあ」
そう言う少年に、少女は
「いつか、この町に帰って来たら」と少年が続ける。「必ず会いに来るよ」
少女の顔が曇る。「気休めの嘘を
そう言い残し、少女は家の奥へ駆けて行った。
ユキタは玄関の
アルコールの雨は、まだ降り続いていた。
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