彷徨うバス
青葉台旭
1.(第1話:出発)
ユキタの父親は酒が大好きだ。
父は、仕事を終えて安アパートに帰ると
そして時々、誰かが
休みの日には、それが……酒を飲んで動画を観るだけの時間が……朝起きた直後から夜寝るまで続く。
夜は、部屋の隅の座卓で勉強をするか、座卓をたたんで、空いたスペースに寝転がって本を読む。
勉強をしたり本を読んだりしているユキタを、父親は時どきチラッ、チラッと横目で見て、何も言わずにまたモニター上のSNS動画に視線を戻す。
ユキタは本が好きだったけれど、そんなに多くは持っていない。
少年が使える金は
もちろん電子書籍リーダー、携帯電話、その他、何であれ自分専用の電子端末を持つなんてのは夢のまた夢だ。
だから、ユキタが読む本の大部分は、彼より金持ちの家庭に生まれ育った友人から借りたものか、学校の図書室から借りたものか、町の公立図書館から借りたものだった。
* * *
その日曜日も、ユキタの父親は朝から酒を飲んでダラダラと動画SNSのタイムラインを眺めていた。
ユキタは、友人から『ホビットの冒険』上巻を借りて読んでいた。
尿意を
「おいっ、ユキタ、ありったけの鍋やら洗面器やらバケツを持って、アパートの外に出るんだ」
突然なにを言い出すんだ、とユキタは父親を見返し、それからモニターに視線を移した。
タイムライン連続再生が中断され、SNS運営会社自身が緊急速報の動画を流していた。
何らかの災害か、あるいは大事故が起きたらしい。
「〇△町のアルコール精製工場で、大規模な爆発がありました……繰り返します……〇△町のアルコール精製工場で、大規模な爆発がありました……膨大な量のアルコールが蒸発し、町の上空にアルコール雲が形成されています。数分以内に、濃度百パーセントのアルコール雨が降ると思われます……住民の皆さんは、全ての扉と窓を閉め、屋外へ出ないようにしてください。やむを得ず外出する時は、町から配布されたマスクを着け、呼吸器に気化アルコールが入らないようにしてください」
ユキタの住んでいる町には大小いくつもの工場が林立していた。
年に一度か二度、不注意なのか設備の老朽化なのかは知らないが、町の
化学工場が事故を起こし、周囲に毒ガスを撒き散らすこともあった。
いざという時の備えとして、町の行政から住民一人に一個ずつ防毒マスクが配られていた。
「もうすぐアルコールの雨が降るぞ」
父親がユキタを見て言った。
「ありったけの
父は、フラつく足で立ち上がり、ユキタを押しのけ、流しの下の扉を開けて
(父さん、それトイレ掃除に使ってるバケツだろ?)
空から降ってくる
狭い路地とはいえ公共の場所だぞ? 近所迷惑も考えずに、バケツやら
恥ずかしく、さもしく、情けなく、父を見ているだけでも気が滅入る。
おまけに、その恥ずかしい作業を、息子に手伝わせるとは。
しかし、反抗するわけにもいかない。
ユキタは、まだ小学六年生だ。
アル中とはいえ、父親の方が腕っぷしは強い。
言う事を聞かなければ殴られる。
(もう少し、もう少しだ……)
あと一、二年もすれば、成長期が始まる。
そうすれば、骨も伸びるし、筋肉も付く。
しかし、それまでは父に養って
充分な食事が無ければ、大きな体は作れない。
……そんな事を思っていると、ドアが開いて父親が顔を
「おい、ユキタ、何をボヤボヤしてるんだ! さっさと器を持ってこい」
ユキタは、慌てて流し台から鍋やらボウルやら茶碗やらを持てるだけ持ってスニーカーを突っ掛け、アパートの前の道に出て、器をアスファルトの上に並べ、空を見上げた。
どんよりとした雲が低く空を
ぽつり、と水滴が頬に落ちた。刺激臭がツンッと鼻を突く。
水滴じゃない。
アルコールだ。
この雨粒は、確かに
パラパラと、酒の雨が地に落ちて家々や道路を濡らす。
父を見ると、目一杯に体を
父親の浅ましい姿に、ユキタは思わず目を
部屋の隅に座って背中を壁に預け、シャツの袖口を鼻に持っていって匂いを嗅いだ。
少しだけ雨粒を受けて濡れたシャツは、アルコール臭かった。
まあ、しかし、この程度なら
まったく恥ずかしくて仕方がない、と思う。
便所掃除用のバケツに
たまたま通りがかったユキタの友人らが、そんな父の姿を見たら何を思うか。
その光景を想像して、どうしてもアパートの外へ再び出ていく勇気が出ない。
つくづく浅ましい親だと思った。
一刻も早くこのアパートを出たい、とも。
* * *
アルコールの雨は降り続く。
幸い、締め切ったドアや窓の隙間から気化アルコールが屋内に侵入してくることはなかった。
しばらく待ってみたが、父が戻って来ない。
雨はますます強くなっている。
道に置いたバケツやら茶碗やらは、とっくに満杯になっていることだろう。
それでも父は戻ってこない。
ユキタは、
町から支給された防毒マスクを押し入れから出して、顔に装着する。
鼻と口だけでなく、顔全体を覆うタイプだ。
これなら、目に染みることもないだろう。
骨が一本だけ曲がった安物の傘を持ち、思い切ってアパートの扉を開ける。
通りに、父親が
口を大きく開けたまま、白目を
傘を差し、父親の近くまで歩いて行った。
アスファルトの上でゲロを吐き続ける父の顔を見下ろす。
既に意識は無いだろう。
雨が降る前から、朝起きてから、ずっと酒を飲んでいた。
その上さらに、天から降ってくる純度百パーセントのアルコールを腹の中に入れ続けた。
(とうとう限界が来たか)
と、ユキタは思った。
(ついに『この日』が来たんだ)
意識は無いが、まだ父は生きているようだ。
しかし少年は、救急車を呼んで父の命を長らえさせようとは思わなかった。
(このまま放っておく)
何もしなければ、いずれ父の命は尽きるだろう。
運が良ければ、通りがかった誰かが助けてくれるかも知れない(確率は非常に低いだろうが)
ユキタは
友達に借りていた『ホビットの冒険』上巻を、濡れないようにコンビニの袋に入れ、デイパックの真ん中あたりに潜り込ませた。
ファスナーを閉め、背負う。
あらためて防毒マスクを装着し、スニーカーを履き、骨が一本折れている傘を持って、アパートの外へ出た。
傘を差して、路地へ出る。
さっきより、痙攣が弱くなっている。
口から噴き出るゲロの勢いもない。
それを見ても、大した感情も湧いて来ない。
あれだけの量の酒を毎日飲んでいたんだ。アルコールの雨なんて降らなくても、いずれは、こうなる運命だったんだよ、父さん。
形だけでも最後の
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