第33話 わたしの妾だったと言え、と

「ですが、フォーブス商会やわたしの友人には、志乃しのを妻として紹介している。それが受け入れられている、というのに、覆すとおっしゃいますか」


「そんなもの、内縁の妻でした、正妻はこちらです、とやり直せばいい。今から正式に結納の日取りを決め、祝言を挙げ、郁代いくよを妻として迎えてもらう」


「志乃を、わたしのめかけだったと言え、と?」

 慶一郎のこめかみに血管が浮く。


「ありていに言えばそうですな。なに、恥ずかしいことも何もないでしょう。私だって、何人も妾がいた。その娘だって、その妾が生んだ子だ。見目が良いし、何かに使えるだろうと思って育てたにすぎない」

 弥太郎は言うなり、顔を志乃に向けた。


「いいな。明日には我が家に戻ってこい。お前には別の嫁ぎ先を見つけてある」


「別の、って……。あなた、なにを……っ」

 千代が悲鳴に似た声を上げた。


「おお、刀自とじ殿。よくぞ聞いてくださった。あの、長谷川卿がのち添えを探しておられましてな。我が家が名乗りを上げたのですよ」


「長谷川卿など……。妾と年が変わらないではありませんかっ」


「なあに。すぐ死ぬでしょう。それまで、男の上に跨って、腰がふれればいいのです。その娘で十分ですよ」


 豪快に笑う弥太郎に、千代が反射的に湯呑を掴む。投げつけてやろうとするのを、必死で志乃が押しとどめた時。


 ばうん、と手毬がいきなり現れ、弥太郎の顔にぶつかった。


「なっ!」

 不意のことに避けることもかなわず、まともに顔で受けた弥太郎だが、すぐに怒りに震えた。


「これは、どういう仕打ちだ!」

 真っ赤にして怒っているが、投げつけた本人は姿を現さない。


「舅殿」

 畳を、ころころと転がる手毬を両手で拾い上げ、慶一郎は尋ねる。


「長谷川卿のことといい、耳の速い、あなたのことだ。志乃を嫁にやる時、当家の噂はご存じだったのでしょう?」


 ふん、と弥太郎が鼻を一つ鳴らしたが、それきりだ。


 慶一郎は、色素の薄い瞳を今度は郁代に向ける。

 目が合い、郁代はぽう、と頬を染めた。


「ご存じですか? 当家のことを」


「その……。女中や下男が続かず、嫁や婿に入っても長生きできない、と。女中がいないので、家事をせねばならないし、目の御不自由なおばあさまの世話も必要だ、と」


 ためらいながら口にしたが、郁代はその後、決然と背を伸ばした。


「ですが、心配ございませんわ。雪宮から、私と親しい女中と下男を幾人か連れてまいります。家事も介護もその者たちが行います。その道を生業にしている者の方がよいでしょう?」


「では、あなたはこの家で何をなさるのです」

 慶一郎が首を傾げる。


「もちろん、旦那様のお世話を。どこに連れて行ってくださっても恥ずかしくないよう、毎日きれいにして過ごします」

 ちらり、と郁代は志乃を見て、ふ、と小さく笑う。


「お召し物は良いものを用意してくださったようですが……。指や化粧があれでは……。上流階級が集まるところで、恥をかきますわ」


「あきれた」

 千代が驚いた顔のまま、郁代に顔を向ける。


「ようするに、毎日きれいな着物を着て遊んで暮らす、ということですか」


「そうではありません。日々、研鑽を積み、旦那様に相応しい女人になるよう、努力をする、ということですわ」


「これが最近の女性ですか。それとも、あなた、先祖返り?」

 千代は信じられない、とばかりに首を横に振る。


わたしは古い時代の人間ですが……、それでも、総領娘です。この瀧川を守り、次代につなぐために、様々なことをしてきました。それをあなたは、ただ、食いつぶすだけですか」


「苦労すれば美談になりますの?」


 目を細め、嫣然と微笑む郁代に、千代はため息だけを返した。


「当初、お父様からこのご縁談を持ち掛けられたとき、女中もいないなんて、かなり窮乏されているのかしら、と思っていたのです。だったら、私にはふさわしくないわ、と。ですが」

 郁代は志乃を見る。


「あのパーティーで実際に慶一郎さまのお顔を拝見し、志乃が着せられた服を見ると……。かなりの財力がおありだと確信いたしました。この瀧川家は、私にふさわしいのだ、と」


 うふふ、と紅を塗った唇で笑み崩れる。


「慶一郎さん」

 笑みを浮かべたまま、郁代はするり、と膝を進めた。


「私は、あなたがどこに連れて行っても恥ずかしくない娘です。必要なら、私の人脈を使えるだけ、使いますわ。そして、人を集め、毎日美しく着飾り、ふたりで過ごしましょう。語学が必要だというのなら、一生懸命学びます。そして、誰もが『瀧川の妻は、我が家に欲しいぐらいだ』と言わせてみせます」


 郁代は慶一郎にはっきりと言った。


「私を妻にすることで、あなたはこの世のどの男性からも、うらやましがられるでしょう」


「なるほど、わかりました」

 ぱしり、と慶一郎が言葉を断った。


「我が家のこともよくご存じで、かつ、わたしの妻になる自信もある、と。では」

 慶一郎は弥太郎に顔を向けた。


「試しに一度、我が家で生活なさってはどうです」


「生活?」

 目をぱちぱちとさせて弥太郎が尋ねる。


「そちらとしても、正式な手順を踏んで我が家に嫁入りをし、その後離縁となっては外聞が悪いでしょう。志乃と違って、この娘さんのことは、あなたは大事にしていそうだ」

 嫌味を込めて慶一郎は言う。


「その娘さんがわたしを選んだように、この屋敷は、嫁いでくるものを選ぶんですよ」


 冷淡な笑みを唇の端に乗せ、慶一郎は眼前の郁代を見やる。


「一度、日を選びましょう。わたしも、毎日かようなことにかまけるほど、暇ではないですからね。連絡をしますので、我が家においでなさい。あなたが言うように、女中や下男を連れてくるがよろしい」


 鼻が触れあうほど間近に顔を寄せ、慶一郎は郁代に微笑みかけた。


「新婚ごっこをしましょう。このわたしと。いかがですか?」


 魅せられたまま、ぽう、と郁代は「はい」と返事をした。

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