第26話 ひとの嫁を勝手にさわるな

「あら」


 これはどのような味なのだろう、と粉砂糖のかかったワッフルを見ていたら、聞き覚えのある声が聞こえて来た。


 スツールから転げ落ちないように注意し、そっと振り返る。


 店内に入ってきたのは、郁代いくよだった。

 同い年らしい女性数人と一緒にいる。


「誰だ?」

 慶一郎けいいちろうが耳に口を寄せる。


「異母妹です。あの、郁代様」


 妹に〝さま〟づけすることに、慶一郎が眉を寄せたが、志乃は違和感がないらしい。


 慌てて立とうとするから、慶一郎が手を貸してやる。


「まあ、慶一郎さまもご一緒でしたの?」


 郁代だけが集団から離れ、カウンターにやってきた。


 ちらり、と和織かずおりが視線を走らせるが、営業用の笑顔を浮かべて、他の女性たちをソファ席に案内した。


「こんにちは」


 志乃が頭を下げるが、郁代は一顧だにしない。

 慶一郎だけを見て、嫣然と微笑んだ。


「このお店にはよくいらっしゃるの? 今日は、噂を聞いて女学校時代の友達と来ましたの」


 今日の彼女は、大柄な椿の柄が入った着物を着ていた。

 帯は、椿に合わせて臙脂で、可愛らしい巾着は黄色をしている。いかにも、若い女の子が好きそうな服装だった。


 志乃は、というと、先日千代がまとめて購入してくれた付け下げを身に着けている。


 牡丹と蝶があしらわれているもので、慶一郎からも「良く似合っている。お祖母様は、本当に趣味が良い」と言われたものだった。


 値段も品も、郁代が今着ているものより断然いいが、それでも、志乃は郁代のように、「若者らしい」服装をしたことがない。


 雪宮の家にいたときは、使用人のような恰好をしていたし、瀧川の家に来てからは、「結婚した女性」に相応しい恰好をしている。


 そのどちらでもない服装をして、喫茶店に友人たちと来ている郁代が、志乃にはほんの少しうらやましかった。


「友人が店を始めた、というので」

 慶一郎が短く応じる。


「まあ。ここの店主さんがお友達ですの?」

 きらり、と郁代の目が好奇心で光る。


「今日一緒に来ている友人たちは、御実家が製紙工場や茶畑の権利を持っている方など、有名なおうちの方々なの」


「お友達をお席にご案内しましたので、お嬢様もどうぞ」


 和織が恭しく頭を下げ、ソファ席を手で示す。

 だが、郁代は一瞥もくれず、慶一郎に話しかけた。


「ぜひ、ご紹介していただきたいわ。きっとよい人脈につながると思いますの」

 ごほん、と和織が控えめに咳払いをし、それから笑みを深める。


「お嬢様」

「しつこいわね。今、私がこの方と話しているがわからないの」

 郁代が一喝するので、和織は大げさに驚いて見せた。


「これは、失礼を」

 言ってから、ハラハラと様子を見守る志乃の隣に立った。


「ねぇ、慶一郎の知り合いなの?」

 口元を片手で覆って志乃に尋ねるから、がくがくと首を縦に振った。


「私の……、妹なのです」


「母親は違うわ」

 ばしり、と断じられ、志乃は口をつぐんだ。


「あなたと私を一緒にしないで」

 冷ややかに言われ、志乃は肩を強張らせる。


「うひぃ。怖いねぇ」

 その肩を和織がおどけながら撫でるから、慶一郎がじろりと睨みつけた。


「ひとの嫁を勝手にさわるな」

「おお、こっちも、こわーい」


 ホールドアップの姿勢で笑う和織から視線を郁代に向け、慶一郎はスツールに座ったまま、グラスをもてあそぶ。


「ここの店主は、帝都で有名な千寿堂さんの御子息でね」


「まあ、千寿堂! あの、お上がお気に召したという琥珀糖で有名な!」

 声を上げる郁代に、和織が笑った。


「あれ、綺麗なだけで、そんなに美味くないよ」


「あなたになど、味がわかるわけないでしょう」

 ぴしゃり、と郁代に言われ、やっぱり、和織は、「うへえ」と呻き、志乃に言う。


「本当のことなのにねぇ」


「そ、そんなことありませんよ。千寿堂さんの琥珀糖は、私でも存じております」


 途端に、郁代に鼻で嗤われた。食べたこともないくせに、と言われたようで、志乃は顔を赤くして俯く。


「本家は長男さんがお継ぎになるようだが、帝都は長女さんが引き継がれるようだ。次男さんと次女さんは学者になるため、大学に残られたようだし……」


「それでは、ご三男さんがこちらを? ますますお会いしたいわ! 友人たちも紹介したいし」

 指を絡めてしなを作るから、慶一郎はにっこり笑った。


「その、三男だ」


「どうもー。店長の三男です」

 慶一郎の紹介を受け、和織がくるくると右手を回してから、片足を引き、優雅に一礼をしてみせる。


 ぽかん、と動きを止める郁代に、志乃はおずおずと話しかけた。


「慶一郎さんのお友達で、このお店の店長さんである和織さまです」

 郁代の目玉がこぼれんばかりに開かれる。


「だ、だって……。従業員かと……」


「店の奥に引っ込んでたら、暇でしょ?」

 はは、と和織は笑い、それからちらりとソファ席を見た。


「そりゃあ、親父や兄貴たちを紹介してほしいんなら、言ってもいいけど……。でも」

 和織は腰をかがめ、郁代の顔を覗き込む。


「印象最悪だからなー、あんた。肩書見て態度変えるような奴は信用できねぇし……。その友人でしょ? ちょっと、ほら。うち、客商売だから……。困っちゃうなぁ」


 途端に郁代の顔が真っ赤になる。

 だがすぐに、じろりと志乃を睨みつけた。


「知ってて黙っていたのね。あんた、性格最悪ね」


「いえ、その……、私は……」


 戸惑う志乃を挟んで、和織と慶一郎が呆れたような笑い声を漏らした。

 くるり、と郁代は背を向け、足音も荒く店内を出て行く。


「郁代さん?!」「どうなさったの!?」

 友人たちが驚いて立ち上がり、声をかけたようだが、彼女が戻ってくる気配はない。


「どうしましょう」

 おろおろする志乃に、慶一郎が吐き捨てる。


「放っておけ」


「ほんと、ほんと。ほらほら。新しい紅茶、淹れたげるねー」

 和織が、にこやかに笑いかけた。

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