第5話 夜が明けるまで部屋を出るな

「志乃」

 ため息交じりに名前を呼ばれ、慌てて返事をした。


「はい。なんでしょう」

「明日からはお前の見立てた量で買ってくれ。毎食これは、多い」


「そうねぇ。でも、ちょっとずつ、たくさんの料理を楽しみたいわ。あら。それじゃあ、志乃さんの手間よね」

「いえ、私は問題ございません」

 首を横に振ると、千代は嬉しそうに頷いた。


「では、全体の量を減らしてくれ。出来るな」

 出来るか、ではなく、出来るな、と言うところが慶一郎らしいな、と志乃は思う。


「はい。かしこまりました」

 返事をすると、慶一郎は視線を千代に向ける。


「では、いただきましょう。お祖母様」

「そうね。この後の大福が楽しみだし」


「まだ召し上がりますか」

 うんざりしたように言い、慶一郎は手を合わせて「いただきます」と言って箸をとる。千代も「いただきます」と続き、なんなく箸を取った。


 探るように指を箱膳の上に這わせるが、危なげなく鉢を持ち、食事を始める。


(本当になれていらっしゃる……。これは、特に介護は必要なさそうね)

 不躾にならない程度に千代を観察しながら、志乃は思う。


 厠や風呂の誘導も、実はまったく必要ない。家の中の配置はさすがに熟知していて、立ち上がりにも不安さはない。


『みんな、心配してくださるけど……。ただ、目が見えないだけなの』


 ころころと笑いながら千代は言う。本当にその通りだと志乃は思う。


 数年前に、介護を手伝った雪宮の親族よりも断然やりやすい。あの時は、褥瘡じょくそうの世話から汚物の処理まで、大変だった。


(このあと、大福を召し上がるんだったわね)

 慶一郎の様子では、彼には必要なさそうだが、千代は心待ちにしているようだ。その手はずを考えていたら。


「志乃」

 名前を呼ばれ、慌てて気を引き締めた。


「なんでしょう」

 お茶だろうか、と目の前の盆を持つが。


「お前は何故食べない」

 問われて、きょとんと、目をまたたかせる。


「あら、そうなの? やだ。ごめんなさい。先にいただいてるわ」

 慌てる千代に、志乃は戸惑って首を横に振る。


「ごゆっくり召し上がってください。私はこのあと、いただきますから」

「一緒に食えばいいだろう。家族なんだから」

 不審そうに慶一郎が言い、そうだ、とばかりに千代が頷く。


「雪宮の家では、親御さんとお子さんは、別々に召し上がっていたの?」

 千代が小首をかしげるから、何と言っていいか分からない。


 異母弟妹は、父と一緒に食事をしていた。

 自分だけ、使用人と食べていたのだ。


「ここでは、家族はみんな一緒に食べるのよ」

 笑みを深めて千代に言われ、思わず、ぼろり、と涙がこぼれた。


「……な」

 ぎょっとしたように慶一郎が箸を止めるから、急いで顔を伏せ、袂で涙をぬぐう。


「どうしたの?」

 状況が分からないのだろう。千代が白濁する瞳を開き、周囲に視線を走らせる。慶一郎もどうしたものか、と無意味に口を開閉させていた。


「あの……。では、お言葉に甘えて。すぐに用意してきます」

 なんとか取り繕い、志乃は部屋を出る。


 家族一緒に、という一言が無性に嬉しかった。


 厨房で残り物を食器に盛り、お盆に乗せながら、それでも、じわりと涙が浮いて来る。


 血のつながりなどまるでない。

 今日、この家に来ただけなのだけど。

 それでも、「家族」と言われ、たとえようのないほど、身体が温かくなった。


 それが。

 きっと、自分の中で凍らせていた涙を溶かした気がする。


「……志乃」

 部屋に取って返し、それでもなんとなく部屋の隅の方で食事をしていたら、ため息交じりに、また名前を呼ばれた。


「はい」

 すん、と鼻を鳴らして志乃は応じる。なんだか胸がいっぱいで、あまりご飯が進まない。


「明日の朝から、一緒のものをお前も食うように。食器も同じものを」

 鳶色の瞳をすがめて、慶一郎が命じる。


 ふと、自分の膳を見た。

 おこげのご飯に、ほうれん草の根っこの胡麻和え。具の無い味噌汁に、白菜の漬物。


 雪宮の家では、これが普通だった。

 まだ、量が多い方だ。


「それから、お前の席はお祖母様の向いだ。明日からそのように」

「はい」

 返事をしながらも、志乃の鼓動は早くなる。


 いいのだろうか、そんなことをして。

 志乃の母がまだ生きていた時、何度か父親が別宅に足を運んだことがあったが。

 母は、父とは遠く離れて座っていた気がする。


「志乃」

「はい」


「食事がすむと、わたしに関してはもう、用はない。お祖母様の世話が済んだら風呂を使って寝ろ」

 慶一郎が、綺麗な箸遣いで鯖をほぐす。


「かしこまりました」

 ほ、と力が抜けた。ようやく、一日が終わる。


「朝にも言ったが、部屋はお祖母様の隣だ」

「はい」


「明日、わたしは六時に起床する。家を出るのは七時だ。朝飯を頼む」

「承知しました。お弁当はいかがいたしましょう」


「作ってくれるなら助かる。それから」

「はい」


「夜が明けるまで、部屋を出るなよ」


 鯖の身を慶一郎が食べる。こつり、と音が鳴ったのは千代が小鉢を膳に戻した音だ。


 それに続き。


 ごとり、と。


 二階でなにやら音がする。


「は……い」

 志乃は、慶一郎の言葉に違和感を覚えつつも、素直に頷いた。


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