第3話 あいさつをしろ
だが、
障子に指をかける。
女性のように長く、美しい指だと志乃は思った。
しゅる、と敷居を障子が滑る音がして、志乃は廊下に手をついて頭を下げた。
その時目に入った自分の手指は、随分と荒れて、かさついている。慶一郎の指とは大違いだ。
「どういうことです、慶一郎」
「起きていらしたのですか」
渋い声に対するのは、丸みのある柔らかな声。
「あいさつを」
慶一郎に短く命じられ、志乃は廊下に額づいたまま、返事をした。
「
名乗ってから、しゃん、と背筋を伸ばす。
慶一郎が隣で告げた。
「今日よりお祖母様の世話と、家事をしてもらうつもりです。なにかあれば、この娘にお申し付けください」
「
目を閉じたまま、高齢の女性は穏やかな声で尋ねる。
「申しました」
「ですが、あなたが今言った言葉や態度は、使用人に対するもののようです」
「まだ、妻をめとったばかりなので、不慣れなのでしょう。申し訳ありません」
しれっと慶一郎が言い、おもわず志乃は小さく噴き出す。
その音が、多少緊迫感をはらんだ空気をやわらげたらしい。
「孫が申し訳ありません。千代です。どうぞ、よろしく」
にっこりと微笑むさまは、本当に慶一郎と血のつながりがあるのかと思うほどに温かい。
だがそれより、志乃が驚いたのは、彼女が繕い物をしていたことだ。
寝ていなかったのか、と慶一郎は先ほど言っていたが、布団などどこにもない。
八畳ほどの部屋には、糸や針山が入った箱と端切れが広げられており、彼女は針を握って小さな
(盲目、とお聞きしたけれど……)
実際、すう、と千代が目を開くと、黒瞳が白濁しており、志乃どころか、慶一郎の姿すら映してはいない。
年は六十をいくつか過ぎた、という感じだろうか。
髪は随分と白くなっているが、真っ直ぐに伸びた背中や、穏やかに笑むさまには、精神的な老いを感じさせない。
「舅殿から聞いているだろうが、お祖母様は目が悪い。よく尽くしてくれ」
たん、と水が石を穿つような話し方で慶一郎が志乃に告げた。
「かしこまりました」
床に手をつき、再度頭を下げると、大きなため息が千代の口から洩れた。
「その言い方……。誰に似たのかしら。妾の旦那様も、あなたのお父様も、それはそれは妻を大事にしたものよ」
大仰に言うなり、志乃の方に顔を向ける。瞳は閉じられたままだが、声の方向でおおよその位置が把握できるらしい。
「悪気があるわけではないのだけど……。物言いがきついの。あまり気にしないでね」
なんと答えていいのかわからず、思わず口ごもるが、千代は気にもせず、今度は慶一郎を見やる。
「それで祝言は?」
「しません。時間がありませんので」
「……あなたとは、ちょっと時間を取って話をしないといけませんね」
「双方納得しているのだからいいではありませんか」
「妾は納得できません」
「お祖母様の意見は、おいおい伺いましょう。では、わたしは仕事がありますので」
「慶一郎、せめて使用人を雇いなさい」
片膝立ちになる慶一郎に、千代が慌てて声を投げつける。
「長続きしないのは、お祖母様もよくご存じでしょう」
苦笑いとも、あきらめ顔とも、なんとも区別のつかない顔で慶一郎は言った。
「……このお嬢さんは大丈夫なの?」
深いため息をついた後、千代は尋ねる。
「とりあえずの処置はしました」
「………………あなた、なにをしたの」
「お祖母様の思っているようなことは、まだしておりません」
するり、と立ち上がると、慶一郎は千代に対して会釈をする。
「では、行ってまいります」
「志乃さん。お見送りを」
やんわりと千代が言う。
「かしこまりました」
志乃は立ち上がる。
そのとき。
廊下の端に、紙風船が転がっているのを見る。
かさり、と風で揺れ、壁際に転がった。
(千代様のものかしら。それにしては……)
あれは、子どもが遊ぶものだろうに、と首を傾げながら、慶一郎の背を追った。
「昼の用意は祖母の分だけでいい。今日、夕飯は家で食べるので、わたしの分も用意するように。八百屋、魚屋など出入りの業者への支払いは月末にまとめて行うので、当座必要な金はないが」
振り返りもせず、慶一郎は次々と志乃に命じた。
はい、はい、と律義に返事をしながら、志乃は彼の荷物はどこにあるのだろうと、視線を巡らせる。
「もし、必要なものがあれば、わたしが帰宅したときに申し出るように。随時金を渡す」
慶一郎が上がり框に腰掛けると同時に、志乃は靴べらを彼に差し出した。
一瞬、慶一郎が驚いたように目を見開いた。
あら、と志乃は少し可笑しくなる。ちゃんと、表情が動くのね、と。
彼が靴を履いている間に、志乃は鞄を見つけた。こちらも革製のものだ。風呂敷ではない。やはり、洋風なのだろう。
「帰宅は七時ごろになる」
眼鏡を擦り上げ、慶一郎が言った。
「承知しました」
使った靴べらを受け取り、代わりに彼の鞄を手渡した。
「行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
志乃は廊下に両手をつき、玄関扉が閉まるまでその姿勢で見送った。
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