第2話 お前にまかせたいこと

「……はい」

 思うところがあるものの、嫌われてはたまらない。


 気が変わらぬうちに、と風呂敷包みを掴み上げ、下駄を脱いだ。そのとき、靴べらが端の方に立てかけられているのが目に入る。ちらり、と、たたきを見た。

 靴だ。


(貿易業をされているとお聞きしたけど……)


 慶一郎けいいちろうは洋装だし、靴を履いていてもおかしくはない。

 ひょっとして生活全般も洋式なのだろうか。

 そちらの方の知識は、皆無だ。


 戸惑いながら、廊下に上がる。


 きゅ、と。

 磨き上げられた廊下が足袋の下で鳴った。古い木目の床板。


 これは磨き甲斐がある。

 さっき広がった不安はあっけなく霧散した。


「お前に任せたいのは、家事全般と、祖母の介護だ。できるな」


 言われて、見上げる。

 相変わらず無表情で、剃り跡など全くない、つるんとした顔の慶一郎が、自分の半歩前に立っていた。眼鏡の表面を光が滑り、鋭く志乃しのの目を刺す。


「かしこまりました」

 風呂敷包みを両手で持ったまま、応じるが、返事はない。


 代わりに、きゅ、と足音が聞こえる。

 視線だけ動かすと、慶一郎はもう歩き出していた。


「部屋は祖母の隣の間を使え」

「承知いたしました」


 彼の後ろをついて歩きながら、少しほっとした。


 表に面してあからさまな窓はなかったが、構造上、この屋敷には二階があるはずだ。


 普通、使用人は二階や中二階に部屋を与えられる。雪宮の家でもそうだった。

 そして、自分の部屋も、中二階にあった。使用人との相部屋だ。


 今度は、普通に部屋がある。

 嬉しく思ったものの、気づいた。


(……介護の、関係かしら)

 盲目だという祖母だ。


 夜間、下の世話が必要なのだろうか。頻繁な声掛けなどがあるのかもしれない。その時、対応がしやすいのは、たしかに千代の隣室だ。


(なるほど。そのためか。これは、気を引き締めないと)


 慶一郎は平日仕事で在宅していないだろうし、使用人はいない。世話はどうやら自分一人のようだ。家事全般と介護、となるとかなりの重労働だ。


 そうか。

 嫁、というより「働き手」が欲しかったのだろう。


 ほ、と強張った肩から力が抜ける。

 で、あれば大丈夫だ。やれる。


 離縁を告げられぬよう、頑張ろう。


 志乃が決意を新たにしていたとき、頬に日が差した。

 反射的に首をねじる。


 雨戸をあけ放っているせいで、廊下からは緑豊かな庭が一望できた。

 思わず足を止める。


(素敵)


 枯山水や、型にはまった古式庭園がもてはやされる中、瀧川家の庭は野趣あふれていた。


 大きく根を張る古木の桜はまだつぼみだが、苔むした大岩の脇に枝を広げた蝋梅は、今を盛りに花開いている。


 池の周囲には水仙が咲き誇り、水面に向かって鮮やかな光を放っているようだ。

 しばし、ぼう、と見惚れていたが。


「にゃぁお」

 と、しゃがれた猫の声で、我に返る。


 池の端だ。

 水仙の繁みの中で、残雪のように見えたのは、白い猫であった。


(変わった模様ねえ)


 目をぱちぱちとさせたのは、白猫の背中に大きく陣取る黒いブチのせいだ。

 半紙の上に間違って落とした墨汁のようなその模様を見ていると、「うなあ」と、不機嫌に鳴かれた。


 不躾に見たせいらしい、と志乃は気づき、猫を相手に目礼をして慶一郎の背を追う。


「お祖母様」

 庭に面した障子の前で、慶一郎がひざまずく。

 志乃も倣い、風呂敷包みを脇に置いて、控えた。


「慶一郎? どうしました」

 日の光を受けた障子の向こうで、穏やかな声が聞こえてくる。


「妻をめとりました。紹介を」

 障子の向こうからは「はあ!?」という素っ頓狂な声が聞こえてくる。


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