⑩TSして美少女になりたい!(上) 副題:乙女たちの内側

TS:フィクションにおける、元の性別とは異なる性別に変身・転生する事。世にいうトランスジェンダーとは無関係。なお、創作としてのそれを指す場合はTSF・TSものを用いるのが無難。(作者註)


 熊谷郁夫は読んでいた本をそっと傍らに置き、ぐっと伸びをした。背骨の軟骨が動き、鈍い音を発するのを肌で感じ取ってもいた。

 彼が読んでいたのはいわゆるライトノベル、ウェブ小説が書籍化した代物だった。もとより漫画やゲーム的な要素を持つ小説が好みだった。だが最近はウェブ小説なる存在を知り、気になった作品を買い込んで本棚に収めるようになったのである。一人暮らしだから本棚の趣味の悪さを糾弾される事もない。

 さて郁夫が読んでいた内容は、男であった頃の意識と記憶はそのままに、可憐な少女に生まれ変わり、傍若無人……もとい天真爛漫に暮らすという代物である。

 TSものという奇妙なジャンルは、ウェブ小説の中では存外数が多い。ウェブ小説に作品を投稿し、投稿した作品を読み漁る輩の多くは美少女を愛好するからなのかもしれない。男の意識を持ちつつも美少女に変化する。それはある種の男たちの欲求を刺激するものなのだ。青年や男と違うおのれの身体を子細に観察する事も、下心を装って無垢な他の少女と絡む事すらも、その手の作品の中では赦されてしまうからだ。

 もちろん、郁夫もこの内容を愛好する、画面の向こう側にいる一部の不特定多数と同類だった。やっぱり可愛い少女の姿になれば、自分も存分に美少女たちと絡む事が出来るのではないかと思い始めていたくらいである。



「初めまして、おにーさん」


 暗がりの隘路。郁夫は目を見開き、じっとその場に立ち尽くしていた。呼吸が早まり、胸の拍動も荒々しくなっていく。文字通り早鐘を打つ心臓のある当たりの手を添えながら、声の主を凝視していた。

 初めましてと言いながら親しげに話しかけてきたのは、一人の少女、いや美少女だった。つやのある黒髪は短いが、控えめに紅潮した頬を緩く優しく取り巻いている。ゴシックロリータの衣装とは異なるが、フリルとリボンの装飾がやけに目立った。一番目立つのは、やはり彼女の首周りのアクセサリーだろう。淡いパステルと白色を基調とした衣服を身に着けているため、金色のチェーンに繋がれた、グレイの丸い珠が七つ連なる奇妙なそれだけが、妙に浮き上がって見えたのだ。

 それでいて、全体的に調和がとれているようにも見えるのが不思議だった。


「熊谷郁夫さん、ボクの事はアーティって呼んでくれるかなっ!」


 謎の美少女ことアーティは、弾んだ声で自己紹介を行っていた。その声は澄んだメゾソプラノだったのだが、アイドルというか深夜アニメの可愛い系のヒロインの声音にも似ていた。一人称がボクだったけれど、郁夫にとってはそんな事は些事だった。奇妙な存在である事には違いないし、しかしそれ以上に彼女の可憐さに魅入られかけていた。


「えへへ、実はボクはね……これでも男の子なんだっ!」


 なんだと……本当に小さな声で郁夫は呟いていた。ボクッ娘はまだ少女だから許容範囲だ。しかしヘテロセクシャルである郁夫にしてみれば、男の娘などは特にお呼びではない。

 ついでに言えば実在する女装男子や男の娘は、女子の姿に扮するのが好きなだけの男性である事も多く、恋愛指向が女性である事も、彼女がいる事すら珍しくないという。

 茫洋とする郁夫の前で、アーティはくるくるとその場で回転を始めた。フリルが淡い花のように広がっていく。そう思っているうちに、アーティの、彼の姿と衣装が変貌した。

 そこにいるのはすらりとした肢体の可憐な少女ではない。やせぎすの、しかし優雅さを備えた青年だった。服装もパステルカラーのフワフワしたドレス風のワンピースではなく、ワイシャツと黒のスラックスという至極シンプルなものに変化している。

 いや――首許を彩る七つの珠のアクセサリーはそのままだ。鎖がこすれる微かな音が、その存在をはっきりと主張している。

 君は一体何なんだ。郁夫はそう聞いてみたかった。しかし驚きが大きすぎたために、喉の奥が渇いてへばりつき、下手な蛙の声のような物しか出てこない。


「ねーえ、男の子でもさ、女の子になりたいって思うんでしょ?」


 今や青年の姿で郁夫と向き合うアーティが静かに問いかける。心臓をガッシと鷲掴みにされたような気分を覚えながらも、郁夫はアーティを見据えていた。ド直球でおのれの秘めた欲望を問い詰められた事に、というよりもおのれの心中を見据えられた事に戸惑い狼狽していたのだ。既に郁夫の額や首周りには脂汗が滲んでいる。ザリザリと、地面を擦るように靴底を動かして後ずさり始めてもいた。

 アーティはじぃっとこちらを見つめている。那智黒のように純度の高い、それでいて外宇宙のような得体の知れなさを内包した黒々とした瞳だ。覗き込み過ぎたら魅入られて戻れなくなる。そのような恐れを感じた郁夫だったが、もう手遅れなのかもしれない。白皙の面の美しさに感嘆しながら、彼を凝視しているのだから。


「別に恥ずかしがらなくっていーんだよ、おにーさん」


 アーティは直立したまま前のめりになり、首から上をぐっとこちらに近づけて声を張り上げた。少女に擬態していた時の声ははっきりと少女らしいメゾソプラノであったが、今の声音はバリトンである……それでも人の心を惹きつけるような、美声である事には変わりないが。


「男の子に生まれてしまったから背負わなければならない労苦があるって事も、ボクにはきちんと解るよ? だってそうでしょ? 男女平等が謳われるようになったけれど、それで却って男の子たちが迫害される羽目になる事だって、あるにはあるんだからさ」

「そ、そうだよな……」


 郁夫はアーティに同調するように呟いていた。おのれの声は、アーティのそれに較べればうんと濁った声音だった。そこにおのれの心根が示されているかのようだった。

 アーティは更に近付いたようだった。けれどすぐにその事には気付けなかった。音もなく滑るようにやって来たみたいだった。


「――女の子になりたいんでしょ? 綺麗な可愛い女の子になってさ、男の子にも女の子にもチヤホヤされたいんでしょ?」


 郁夫の喉仏が静かに動く。生唾を飲み込むときの、軋むような鈍い音を聞いたような気がした。相変わらず郁夫の視線はアーティの黒い瞳に向けられたままだった。

 そして、呆けたようにアーティを見つめていた郁夫は頷いた。頷いて、しまった。


「よーしっ、それじゃ、ボクが君を女の子にしてあげるッ」

「どうやって……なさるのでしょうか」


 既に郁夫は自分が美少女に変化するという未来を受け入れてしまっていた。

 だがどうやって自分は美少女になるのか? 魔法? 性転換? それとも……あれこれとまとまらぬ考えを巡らせているうちに、アーティが笑みを広げて言葉を続ける。


「丁度良い感じのカワイ子ちゃんの身体にね、キミの魂を移植してあげるよ。だーいじょうぶ。美少女で、尚且つ魂が抜けてすぐの器を探すなんて事は、このボクには造作のない話さ」


 アーティの声音が変質したのを郁夫は感じた。先程までは滑らかなバリトンだったはずなのに、所々ざらつき、耳障りとさえ感じられたのだ。

 それとともに、彼の姿がゆっくりと変化していく。首周りのファーボールがムクムクと膨らんでいき、鳥の頭部の形へと変貌していく。嘴と眼を備えた完全なる頭部になるだけに留まらず、長くしっかりとした首が伸びていくところさえ見えたのだ。

 それからビチャビチャと、汚らしいものが垂れて滴る音が響いた。アーティは少し顔を歪めている。その端麗な面に、濁った色合いの血のしぶきが数滴飛び散ったものがねっとりとついている。血の紅色の濃さは白い肌によく映える。紅色は濃く、いっそ表面は緑色に見えるほどだった。


「ボクは昔から色々な生き物の魂を扱ってきたんだ! 傷つけずに基の肉体から取り出す事も、他の肉体にそれを移植するのも片手間でできるんだよ! さ、キミも安心してボクに身を委ねると良いよ!」


 言い終わるが早いが、アーティの顔がろくろ首よろしく伸びていた事に気付いた。その頭部は鳥と大きな蜥蜴の中間のような姿になり、郁夫の胸のあたりに嘴を突き刺した。

 郁夫が覚えているのはそこまでだった。急激な眠気を覚え、意識を手放したからだ。




 次に「彼」が目を覚ました時、自分は「美琴」と呼ばれる高校生の少女になっている事に気付いた。アーティと名乗る謎の存在は、ちゃんと「彼」の願いを叶えてくれたのだ。

 とはいえ、最初に「彼」の脳裏に去来したのは戸惑いと驚きだけだった。元々は大の大人であると言えども、目を覚ました時に見知らぬベッドの上で眠っていたとなるとやはり疑問が浮かんでしまうのも当然の話だ。しかも美琴の場合、眠っている場所のみならず、肉体まで変貌しているのだから。最初に気になったのは手だった。美琴の手は、白くほっそりとしており、変に筋張ったり青緑の血管があからさまに浮き上がったりしている事は一切なかった。

 肉体の軽さや声音よりも何よりも、手を見た時に「彼」は美琴になったのだと思ったのである。


 美琴は裕福な家庭の一人娘として育っていたらしい。両親と対面した時にはどうやってごまかそうかと戸惑ったが、その心配は実は徒労だった。彼らと相対したときにどのようなやり取りで切り抜ければよいか。それはちょうどハードディスクに貯蔵されたデータが表出するかのように解決案が提示されたからだ。簡単に言えば、今まで本当の美琴が行ってきた記憶のようなものが、「彼」の意識の中にごく普通に同居していたのである。美琴本人の人格があるという訳ではない。よくある身体の主導権云々に至る事は無かったし、そもそも美琴由来の記憶には感情らしきものは窺えず、ただただ無機的な情報としてそこに在るだけだった。

――良く解らないけれど美少女になれたッ! 理由はさておき「両親」もごまかせたし、後はこの身体で存分に楽しむのみッ!

 姿見でおのれの容姿を見分しながら、美琴はその美しい面にそぐわぬゲスそのものの笑みを浮かべていた。両親は一日半も眠り通しだった美琴を心配していたようだ。だが前述のご都合主義めいた記憶保持のお陰で美琴が別の誰かにすり替わっているという事までは見抜けなかったらしい。

 今日は休日という事であるが明日から高校がある。自分も美少女なのだが、その友達も色っぽい感じの娘から、可愛い系の女の子までいる事を、美琴由来の記憶で把握しておいた。



「今日も元気だね~、彩香ぁ~~」

「ちょ、急にどうしたのよ美琴ぉ」


 昼休みの教室内。美琴は友人の一人である倉橋彩香にじゃれる素振りを見せながらおもむろに抱き着いていた。彩香はすらりと背も高く、ついでに言えば高校生とは思えぬほどに発育した身体つきの持ち主であった。それでいながら日頃はおっとりのんびりとした性格で、むしろ奥手でお人よしと呼んでも過言ではなかった。

――だからこそ、美琴が狙いを定めたと言っても良いだろう。現に彩香の柔らかい身体を制服越しながらも堪能している美琴だが、驚いてこのじゃれ合いに応じるだけで、拒絶どころか抵抗される事もほとんどない。

 同じ女子であっても、可愛い系の麻奈美などは、美琴の動きを機敏にかわし、懐っこい笑みを浮かべつつも美琴の不埒な接近を許さなかった。女子たちの中でもスキンシップへの対応は違っていた事に対する驚きは、美琴の中にしばらくこびりついていた。

 しかし今はそれとてどうでも良い事である。美琴は自身も美少女になり、尚且つかつての自分ならば叶わなかったような女子たちとの交流に身を投じる事が出来るという事実に喜びかまけていたのだ。

 美少女に、性別的には女子に分類される美琴は、もちろん体育の前後の着替えも女子たちと一緒だった。着替えの合間にじゃれるふりをしながら、見女麗しい乙女たちが日頃制服や体操着の下に何を着ているのかをチェックしたり、偶然を装って彼女らの肌に触れてみたりという下劣な遊びに興じ、何の疑いもなくそれを楽しんでいた。

 だからこそ美琴は気付かなかった。自分がこうして遊んでいる時に、遠くで様子を窺う女子たちが向ける眼差しの鋭さに。


 美琴がアーティに再び出会ったのは、ある夏の昼下がりの事だった。自分の美少女ぶりに耽溺しながらの散歩は中々楽しかった。

 夏の午後という事でそこかしこは白く乾いた風景となっていたのだが、それもそれで自分の美貌を際立たせるのに丁度良い、などと思いながら歩いていたほどだった。つまるところ美琴の肉体は暑さにある程度強く、またそれ以上にうぬぼれも強かったのだ。

 そんな塩梅で自分の事だけ考えながら歩いていたわけだから、思いがけずアーティを目撃した時にはその場で飛び上がりそうなほどに驚いた。しかもアーティはとうに美琴の存在に気付いており、表情の読めぬ笑みを見せながら近づいている最中でもあったのだ。


「ごきげんよう……今は西園寺美琴ちゃんだったね」


 アーティが今の自分のフルネームをよどみなく口にしたのを聞いて、美琴は少し安堵していた。言うまでもなく今の美琴はオリジナルの美琴ではなく熊谷郁夫と呼ばれていた男の意識が宿った存在である。もしかすると、アーティがかつての名で自分を呼ぶのではないかと気が気ではなかったのだ。


「ごきげんよう、お久しぶりですね」


 すっかり板についた少女口調で語ると、アーティはクスクスと笑い始める。


「気を遣って猫をかぶらなくても良いよ。ここを起点に六ヤード(約五メートル四十センチ)四方に結界を張っておいたからね。キミの会話もボクの言葉も、他のみんなからは聞こえないようにしているんだ! プライバシーを保護してあげたからさ、キミも素に戻りなよ」


 陽気な調子でアーティは言ったが、その後すぐに何かを思い出したのか、顔をしかめて口元に右手を添えた。内緒話でもするかのように近付いてきたアーティに対して、美琴はちょっとだけ緊張していた。 

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