第5話「踏み出した一歩」
俺の話を聞いたマスターは福武の境遇が特殊なことに一応気付いてくれたようだ。
顔色を変え、店の奥から人数分のコップと麦茶を持って俺の隣に腰掛ける。
姉貴は案の定話を理解していないようだが、置いてけぼりが嫌なのか膨れっ面のまま唯一空いている福武の隣に座った。
これは俺が説明する流れか。俺らのこと心配してくれるのはありがたいけど仕事しなくて良いのかよ。
「ガキンチョ、アタシにも分かるように説明しろ!」
「こちらにもお願いします。まだ完全に理解が出来ていないもので……」
マスターは良いけど姉貴にも分かるようにとなると一気に難易度が跳ね上がる。
だが、この際姉貴の理解力はどうでも良い。それ以上に問題なのは福武だ。
「福武は良いのか?」
「何が?」
「俺は福武の母親を悪く言う。多分姉貴はこき下ろす。福武にとって心証が良い話は聞けないぞ」
福武の母親の行為は狂気と言っても過言じゃないと思う。なんなら狂気と断言しても良い。
「それでも……聞きたい。知っておかなきゃいけない気がするの」
恐怖と好奇心が絡み合った福武の目に俺が映っている。
ここまで話しておいてやっぱり辞めたと手を引くのも変か。他でもない本人が良いのなら躊躇う必要はないだろう。
「福武、さっきの話をちゃんと実体験で説明してくれないか?俺のはあくまでそれっぽい内容を言っただけだからな」
「うん。分かった」
「おうい!そんなんでアタシ分かんのかよ!小難しい話はさっぱりだぞ!」
「大丈夫。俺なんかが噛み砕いて説明するよりよっぽど分かりやすいさ。特に姉貴はな」
「はぁ?」
————。
あれは十数年前。私に物心と呼ばれる意識が芽生え始めた頃。
あの頃の私は理由も分からず勉強をやっていた。地獄の一生終わらない刑罰のように延々と。延々と。
やっていた理由はお母さんが喜ぶから。
忙しくて家に顔を出せないお父さんを悪く言うお母さんだけれど……私が頑張れば喜んだ。ご機嫌になってくれる。
般若の顔のお母さんは見たくなかった。
「なんでお母さんは怒るの?」
ふと、聞いてみたことがある。
その時のお母さんの顔がどうだったか、もう覚えていない。深い深い真っ黒な井戸の底に落ちたっきり跳ね返ってこない。
けれど、言葉ははっきりと覚えている。脳裏に焼き付いている。
「それはね、お父さんがお母さんに嫌なことをするからなの」
「嫌な……こと……?」
「そうよ。でも絶対あなたはやっちゃ駄目。良く覚えておいて。みんな仲良く、そして誰かの迷惑になることをしてはいけないわ」
それから私は出来る限り優しい人であるように心掛けた。
もちろん、お母さんの頼みごとは引き受けて、学校でも困っている人が居たら手助けをした。
私が手を差し伸べればみんな笑顔になってくれるのがたまらなく嬉しい。
そうしてお母さんにそれを言われてから間もなく、学校のみんなが遊ぶことを始めた。
ゲーム、漫画、テレビ、本。中でもゲームが結構多かった気がする。
金銭的な問題で小学生の頃に映画を頻繁に見に行く人は少なかった。その代わり親が好きだと一緒に見に行っている人は数人だけ居た。
それらは私の目にも輝かしい姿で映った。
「ねぇねぇお母さん!私もゲームやってみたい!」
家に帰ってお母さんに頼み込んでみる。お金が必要なことなのは分かっていたから頼むしかなかった。
この時のお母さんの表情は記憶に残っている。
激しい音を立てながら椅子から立ち上がって、まるで汚らわしいものを見るような眼差しが頭上から私に向けられた。瞳に宿る黒い感情。
今、考えるとあの目に集まっていたのは失望や拒絶などの感情だったのかも。
あのお母さんの豹変ぶりを見た私は幼いながらに死を覚悟してたと思う。
震える私に目の高さを合わせたお母さんは言った。
「ゲームは駄目よ」
「そうなの……?みんな楽しそうだよ?」
「駄目なものは駄目。本もゲームも漫画もテレビも全てあなたの人生を狂わせる毒。周りはきっとあの手この手で引き込もうとしてくるけど駄目。お母さんの言うこと聞いてくれないと怒るわよ」
「そっか……分かった!」
「良いこね」
私はお母さんに怒ってほしくなかった。
でも、私を抱き締めるお母さんの腕は冷たく感じた。
————。
最初は同じかと思ってたけど……同じではないな。俺の方も大概だが幾分かマシだと思える。
みんな仲良く、人に嫌なことはしちゃ駄目か。小学生の道徳の時間に先生が言ってたな。あの時は正気かよ、と思った。
「じゃ……じゃあその言葉にずっと言いなりだったのか?嘘だろ!?」
自分のしたいことを優先してきた姉貴からすれば信じ難い存在が目の前に居る。普通は親なんか無視してゲームするなり本読むなりするからだろう。
「ですがあの年齢で刷り込まれてはしょうがない気もします……しかしあれは教育とはあまりにもかけ離れている……」
「俺から言わせれば洗脳だ」
あの流れで「言うこと聞かないと怒る」なんて、ただの脅迫じゃないか。
「あーもう!想像するだけでキレそうだ!アタシたちは勉強するロボットじゃないっつーの!!」
「こらこら。椅子に立つんじゃない」
姉貴がむしゃくしゃした気持ちをどうにかしようと椅子の上に立ち、シャドーボクシングを始める。マスターが嗜めてはいるが止まりそうにない。
相談の場には合ってるのか合ってないのか分からなくなってきた。
それはさておき、これだけは言っておく。
「みんな仲良く、人に迷惑を掛けるな……その実現は無理だ。諦めろ」
それは俺たちが人間である以上叶わない願いだ。福武の母親が母親である自分に迷惑を掛けないようにする為の呪文である可能性が高い。
今までの思考の柱を根底からひっくり返されるのをすんなり受け入れる奴はほぼ居ない。福武もそうだ。
「待って。確かに不良さんたちの言う通り、お母さんは洗脳に近い行為をしてたのかも知れない。でも、みんなと仲良くしたいと思うのが間違ってるとは思わない!」
福武が強い口調で言い返してくる。
その声を聞いた姉貴が椅子に掛け直し、マスターは悲しげな眼差しで福武を見る。
「間違ってるなんて一言も言ってねぇよ。ただ、無理だと言っただけだ」
「なんでっ……そんなこと……」
「思い返してみなよ嬢ちゃん。アンタは出来る限り優しくあろうとした。アタシから見ても、多分誰が見てもアンタを優しい人だって言うよ」
姉貴に言われて福武が俺の顔を見るので頷きで返す。マスターも俺に続いて「そうだね」と漏らした。
「けどさ、アンタは嫌われてるじゃないか。いじめって形でね」
「っ……!」
率直な姉貴の一言が福武に突き刺さる。
「底抜けに優しいアンタが嫌われてる時点でみんな仲良くなんて不可能なのさ」
姉貴はコップを揺らし、中の氷で音を奏でながら淡々と話す。
俺も姉貴の意見には同意だ。この性格の福武でさえ、学校でそんな立場にある事実はみんなで仲良くが叶わないことを裏付けている。
そうして相談役とスケバンに突き放された福武が頼るのは。
「マスターさんは……どう思いますか?」
「まあ難しいと思いますねぇ。職業柄、おかしな客が来ることも多々あります故。あれらと手を取り合えるかと言われれば……こちらから願い下げたい」
「そんな……」
「勉強狂うほどにやってきた頭があれば分かるだろ。マスターはこちらから願い下げだと言ったんだ」
喋ってばっかりで喉が乾いてきた。マスターが持ってきた麦茶を飲む。
ずっと放っておいた所為で氷が溶け出し、味が薄い。
……まさかこんなに事情が重いとは思ってなかったぞ。やっぱり触らぬ神に祟りなしだ。
俺に分かるだろと言われた福武は顔をしわくちゃにしながら考え込んでいる。
「相手依存なんだよ。どれだけこちらが好きで仲良くしたいと思っても拒否される。それが普通だ」
福武を嫌いになる奴らは大体が嫉妬だろうな。心の醜い奴らだ。
「ババアに言われたからとかじゃなくてさぁ……アンタはどうなの?自分に危害を加えてくる奴らと仲良くしたいと思えんの?」
「分から——」
「分からない訳ない。それは逃げてるだけだ。考えることから逃げて周りの言葉に流されてるダメ人間なんだよ」
姉貴は容赦なく福武をこき下ろす。てっきり母親をボコボコに言うかと思ったのだが、姉貴には福武の方が気に入らなかったらしい。
ダメ人間は言い過ぎだ。泣き止んだ福武の目にまたもや涙が浮かび始めている。
「自分の頭で考えられる。これは人間の特権だぜ?嬢ちゃん?」
先程のマスターの発言を再度姉貴が持ち出す。考えることの大事さを特権と称するとは洒落ている。姉貴の癖に。
姉貴の横に座る福武は涙ぐみながら、溜め込んだ言葉を吐き出そうとしているようだが。
「——っ」
出ない。
そこまでして福武の感情をギリギリで押し留めるのは母親の呪縛か、それとも自分を曝け出す恐怖か。俺には分からない。
だけど、後一押し。後一歩。
行け。ここを乗り越えないと悩みは一生解決しないぞ。
人間的な悩みを解決するなら、まずは人間になってからだ。
「大丈夫だ。何を言ってもここに怒る奴なんか居ない。失望もしない」
これで駄目ならもう俺に打つ手はない。
姉貴もマスターも静かに福武を待つ。福武の本心を。考えた結果を。
「私はあの人たちと仲良く出来ない……したくない!普通に学校生活を送りたい!楽しいこと一杯したい!!」
「あははは!そうだ嬢ちゃん!高校生なんかそんなんで十分!下らねぇことは大人っ子に任せて遊ぶんだよ!アタシの奢りだ!好きなの頼みな!そうすりゃマスターが作る!メニューになくてもな!」
「メニューにないのは無理があるぞ……」
遊んでばかりは考えものだろう。
しかし、吹っ切れた福武は姉貴とはしゃぎながらメニューを眺めている。壁と涙を乗り越えた笑顔は昨日よりも輝いて見える。
ここで細かいことを指摘するのは野暮と言うものだ。
福武が考えて、決めて、一つの答えを出した。普通だろうと思えることだが、俺は意外と難しいと思っている。
これは大きな一歩だ。
「姉貴ー、じゃあ俺もー」
「ガキンチョに貢ぐ金なんかない!可愛い娘にこそ!その価値がある!」
渡さないぞとばかりにメニューを抱えて睨み付けてくる。メニューは見せろ。
「マスター、なんか甘いのおまかせで」
「はい、おまかせね」
珈琲飲みまくってたから甘い物が欲しくなった。
おまかせと言うと大体材料が余ってる何かが出てくるのだが、稀に新メニューの試作品が食べられる。常連の特権だ。
「そんじゃ、絶交宣言も出たとこだし。こんな可愛い子ちゃんを傷付ける輩の報復でも考えましょうかねぇ!」
「姉貴がぶん殴れる訳じゃないぞ」
だからと言って福武が殴れる訳でもないけど。
「分かってるさ。でもそいつらが痛い目見るの想像したら面白くってよー!」
姉貴は楽しそうに笑いながら自分の足をペシペシ叩く。この女、荒事が好き過ぎる。
そこへ福武が戸惑いながら会話に加わる。
「二人ならどうしますか?」
「ちょっかい掛けてきた直後にぶん殴る!これで万事解決だ!」
「俺は悪口陰口無視くらいならどうでも良いけど、流石に直接危害加えてくるようなら姉貴と一緒だな」
「つまり……正当防衛?」
「難しく考え過ぎだバカチン」
「バカチン!?」
何やら俺の煽り文句に福武がショックを受けた。
何処に反応したんだ?チンか?可愛い顔してどすけべ女だ。まあ、高校生なら普通か。
「福武に非がないのに暴力を振るわれた。だからやり返した。ほら、何処の学校にもある学生同士の喧嘩だろ」
「そいつらはやり返してくるような奴を標的にしないからな。一発痛い目見せれば大丈夫。そうじゃないなら何度でもやり返しな」
最近だと直ぐ親が首突っ込んでくるのが面倒臭い。中学の時、喧嘩如きで大騒ぎした親が学校に来たのを覚えている。
あくまで今の解決法は俺と姉貴の方法だ。これに従う福武じゃないだろう。
解決法の一例を聞いた福武は姉貴の奢りで注文したいちごのパフェを口に運んでいる。首を傾げているのは考える時の癖だろうか。
「解決法、思い付きました!」
「言ってみ?」
「まず、校長室に行きます」
「「うん……?」」
早速意味が分からない。そもそも校長室は「まず」で入れるのか。
「そしてこうするんです。ナイフを自分の首に突き付けて……いじめっ子を退学させないのなら死んでやるー!……どう?」
「そんな厄介女の無理心中みたいな……」
「アンタ、考え方は可愛くないのな」
「あれぇ……?」
福武が思っていたような反応は得られなかったらしい。
うん……名案とは言い難いが効果はあるかもしれないなぁ……どちらにせよ先生頼みだとやってみないと分からない。
やられた側も慌てるだろうから五秒カウントダウンとかすれば良い返事を引き出せるかもしれない。そこまで行ったら完全に詐欺の手法だが。
「そんなに急いで答えを出さなくても良いのでしょう?」
分厚いホットケーキを運びながらマスターが言う。
「あ?まさかガキンチョと同じズルしてんのか?」
「境遇からすりゃ福武は全然ズルじゃないけどな」
「それなら少しの間、娯楽に身を寄せるのも良いのでは?これまで触れてこなかったものに触れてみる良い機会ではありませんか」
「!」
マスターの言葉に反応して福武が見たのは俺の顔。何故そこで俺の顔を見るのか。
数多の期待が詰まった福武の目。
どうやら可愛らしい好奇心で溢れた獣にひどく懐かれてしまったらしい。
俺は溜息を吐いた。
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