第37話 永遠に沈まぬ月と迫り来る黒い影
雨上がりの湿気が覚醒を促す。
肌に張り付く風を手で拭って、目蓋を開く。
「─ッ」
少女の胸の中で眠っていたという事実は、いくら大人びた少年だと言えど穴に入りたくなるほど恥ずかしいものである。
「んぅ」
バンディーダが動いたことでクシスもまた眠りが浅くなり、目覚めが近くなる。
「......クシス」
君は全て見ていたのだろう。
僕の正体は、君にとって耐え難い存在のはずだ。
けれど、君は拒絶するどころかそっと包み込んでくれた。
彼女の乱れている前髪を右耳にそっと梳く。
「君だけは、君だけは絶対に───」
それは、本心か?
夢に溺れた汚い欲望じゃないか?
どうせ守れやしないというのに。
「その時は、本当の意味で僕は死ぬ」
空っぽの僕を辛うじて繋ぎ止めているの彼女の存在だ。僕にはそれ以外もう何も残されていない。
「最低だ......」
他責で、傲慢で、恥知らず。
それでも、進もう。
今はただ、それしかできない。
「んぁ、ん!」
間の抜けた声と共にクシスが突然起き上がる。
「あれ? 私寝てた?」
焦りながら辺りを見渡す彼女に姿に思わず微笑みが零れる。
「あ、なによバン!何で笑ってるの!」
「あぁ、ごめんよ」
「まぁ、いいわ。それで、此処は......どこなのかしら?」
辺りは薄暗い。
天には未だ満ちた月が中央に座している。
「夜。確か、眠る前も夜だったような気がするけど、まさか丸一日寝ていたとは、思えないね」
バンディーダは水気の多い泥を足で捏ねる。
「だとすれば、永夜の檻かしら」
クシスは立ち上がり、泥と土を払いながら天を見上げる。
「夜行性、そして夜にしか生きられない生物がこの場所には居るの。バンが知ってそうなもので言えば吸血鬼、なんだけど生憎彼らはもう滅んでいるのよね」
吸血鬼。
人間の生き血を啜る蝙蝠の怪物だと、どこかの本で読んだ気がする。
所詮、空想上の生物だと思っていたが、存在自体はしていたのか。
「ドラゴンの私が言うのもなんだけど、ドラゴンの遺伝子って割と単純なのよね。大まかに言えば炎や雷、風の魔力因子が混じっている大きなトカゲ。原種は難しくとも、
クシスは手のひらに小さな炎、雷、竜巻を順に顕した。
「多くの試行回数が稼げるから、その過程で偶然......なんてこともね」
ニヒルに笑う彼女の瞳は、宵闇の青海。
悔しさと怒りが込み上げる。
「ッつ」
腕の皮膚が
中から熱い炎が吹き出しそうだ。
「ちょっと!大丈夫!?」
「うん。ごめんよ、話の腰を折って」
一度吹き出した僕の本質は、緩んでしまった蓋を簡単に開いて顔を出す。
ふとした感情の波で、あらぬ悲劇を招きかねない。
意識して抑制しなければ。
「ほら、腕だして」
言うが早いか、彼女は差し出す前に僕の腕を掴んだ。
心地よい冷気が、腕に染み渡っていく。
「どう? 少しは楽になった?」
「ありがとう」
彼女には世話を焼かれてばかりだ。
そう思うと、自然に声色が落ちる。
「つめたっ!」
冷たい指が鼻先を突く。
「持ちつ持たれつ! いちいち気にしない!」
彼女は不敵な笑みを浮かべて、そのまま指を弾いた。
鼻を抑えるバンディーダをおかまいなしに、彼女は話を続ける。
「それで、ランジェたちは吸血鬼も同じように作製を試みたのだけど、吸血鬼特有の因子がどうにも解読できなかったようで、結局、実験過程で全て消滅してしまった」
「消滅? 普通の死に方とは何か異なる事があったということかな?」
「えぇ、彼らは死ぬとき、肉体が塵になる。それも、すぐに空気と同化してしまうから、死体が残らない。故に、奴らも手の施しようがなかったのよ」
あまり想像ができない絵面だ。
一体どういった仕組みでそのような現象が起きるのだろう。
「だから、今ここに残っている生物といえば夜行性の狼か、巨大昆虫といったところかしら」
「一応居るには居るんだ。寝ている間によく襲われなかったね」
「雨を嫌ったんでしょう。運が良かったわ」
クシスが歩き始めるので、バンディーダもその後に着いていく。
「階層的には、ドラゴンやゴブリンたちがいた場所より少し上。だからといって、気を抜きすぎると餌食になるから油断は禁物よ」
「誰の?」
「.......それは言いたくないわ」
─ヴヴヴ!
不快な羽音が辺りに轟く。
「え?」
受け入れ難い疑問と共にバンディーダはクシスの発言を思い返す。
巨大昆虫......?
「ひゃあああああ!もう、なんでよりにもよってコイツなのよ〜!」
クシスは頭を抱えて蹲ってしまった。
「まさか、こいつは......!」
それは、見るもの全てを不快と恐怖の底に叩きつける黒い悪魔。
「いや、デカすぎる......」
全長1mをゆうに超えるその昆虫は、二人の目の前に悠然と舞い降りた。
「無理ぃぃぃぃぃぃ!」
チラリと視線を上げたクシスの悲痛な絶叫が、薄暗い森の中に響いた。
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