第35話 雨が降る

 彼女が死んだとき、僕は本当に悲しかったのだろうか。


「バンディーダ、さま」


 僕は本当に彼女の顔を見て、目を見て聞いていたのだろうか。


「ナティナ、さまを、どうか」


 僕は一体何を見て


「頼みます」


 聞いて


「豚の、王子様」


 鏡に映っているのは醜く肥えた豚。

 それは『豚の王子様』。

 そしてそれは


「僕じゃない」


 見下ろす手足は骨張っていて、


 聞こえる声は驚くほど鋭い


「あの日、本当は悲しくなかったのだろう? 一時の喪失感に酔っていただけで、仕方のない犠牲だとお前は物語の下に彼女の屍を積んだ。彼女は所詮、お前の夢の中にいる舞台装置でしかなかった。つまり、彼女の死などお前にとっては些細な出来事にしかすぎなかったのだろう?」


 違う


「ならば、なぜ? なぜ身を焦がすほどの感情を抱かなかった。お前にとって本当に大切な者であれば、当然として抱くべき感情のはずだ」


 ナティナがいたからだ。

 あの時の僕はくだらない復讐心よりも、彼女の守ることを優先したんだ。


「なんのために?」


 彼女を守るためだって言ってるだろ。


「なぜ、彼女を守らなければならなかった?」


 それは、約束したから。

 彼女を幸せにするって。

 あの本のように。


「どうしてそんな約束をしたんだ?」


 彼女を愛していた、から。


「彼女の何処を愛していた?顔か?声か?それとも、性格か?」


 全部、好きだった。


「じゃあ、どうしてあの時─」


「「僕はあんなにも冷めた気持ちだったんだろう」」


 僕は本当に彼女が好きだったのかな?


「本当に好きだったのなら、彼女の声が聞こえていたはずだ」


 本当に愛していたのかな?


「本当に愛していたのなら、彼女の苦しみが理解できたはずだ」


 全てが本当なら


「「決闘なんてせずに、どんな手を使ってでもあの男を殺したはずだ」」


 そうか


「そうだ」


 僕が、好いて、愛していたのは


「「物語ナティナ」」


 だから、物語から逸れた途端、夢から覚めたように彼女への思いも泡のように消えていった。


「ごっこ遊びに見切りをつけて、彼女は一足先に現実へと戻ったのさ」


 そして、役者の居なくなった物語は成立しなくなり、僕の夢も自然と現実へとうつろわざるを得ない。


だった。この結果に至るのは」


 目の前で苦しんでいる彼女が、彼らがこうなったのも、全ては僕が


「「」」


 これが


 僕の見つめるべき現世なのだ。


『豚の王子様は悲しみの涙は流せど、敵を憎むような怒りを抱くことはなかった。それは、彼が善なる英雄であるため、罪とも言うべきその感情など存在すらしないのだ』


「だが、どうだ? 本当のお前はこんなにも」


「「罪深い」」


 君はどうしてそんなにも僕のことを知っている?

 君は一体何なんだ?


「そんなこと、お前は既に知っているはずだろう?


 唐突に視界が曇る。

 そして、引き上げられるように訪れる目覚め。

 酩酊感のような微睡みが覚めるにつれて、途方もない自己嫌悪が胃の中を這いずり回る。


「げほっ」


 憶えている。

 あれは決して夢などではない。

 肉体も精神も蹂躙された。


「僕は、人間だ」


 言い聞かせるように独りごつ。


「母上も」


 そう、あれは奴らが動揺させるためについた嘘だ。名前だって間違っていた。稚拙な策だ。

 見ろ。

 この水面に映る姿はどう見たって──


?」


 薄暗い水溜まりに浮かぶ顔は、まるで骨にこびり付いた皮かと思わせるほど痩けていた。


「違う」


 腕を見やれば枯木の枝。

 立ち上がろうと、足に力を入れれば勢い余って尻もちを着いてしまう。



 そもそも、そのって?


 繰り返される自問自答。

 あぁ、これもまた夢か。

 まだ覚めそうにないが。


 蹲った頭の先で砂利の擦れる音がする。

 そこに目を向ければ、蒼の少女が寝返りを打っていた。


「クシス......」


 どうして彼女がここに?、という疑問とともに襲い来る焦燥感。

 一連の惨劇を見られていないことを祈りばかりで、また目覚めることすらも望まない。

 どうか、このままずっと夢の世界にいてくれとすら。


「ガァァァ!」


 けたたましい怪鳥の声が辺りに響く。

 心臓が跳ね上がり、その声の主を探す。

 見渡せば、森の中。

 以前のような閉塞感はなく、空には美しい満月が浮かんでいる。


、か?」


 姿勢を変えようとすると、湿り気の混じった土が滑る感触が両手に伝う。

 雨が降っていたのだろうか。


「ッ......」


 視線を感じる。

 自身の背後から。

 その正体は想像に難くない。


 振り返れば、月すらも射通すような碧眼が自身の姿をはっきりと捉えていた。


「バンディーダ」


 まるで死刑を告げられることが分かっている囚人のように全身が強張る。

 時の流れが著しく遅くなった。


「少し、痩せたわね」


 軽く息を漏らしながらはにかむ彼女の顔は、まるで絵画のように神さびて耽美。

 巡り巡った疑義など、愚者の杞憂と言わんばかりに嘲笑が浮かぶ。


「ははっ」


 目頭が熱くなる。

 抑えきれそうにない。

 悔恨と慚愧の波が、横隔膜を刺激する。

 だめだ。

 彼女の顔がまともに見れない。


「大丈夫よ、バン」


 再び蹲っていると、そっと柔らかいものに包まれる。

 彼女の両腕は、ほんの少し冷たくてとても暖かい。


「私は、貴方に豚の王子様救世主になれ、なんて言わない。ただ、私は、私は─」


 彼女の頬に伝う涙が、バンディーダの頬に落ちる。

 その一滴に籠る想いは、決して単純なものではない。


「あ、あぁぁ」


 堰を切ったように、二人は涙を流し始める。

 言葉はなく、嗚咽だけが辺りに響く。

 己の無力を嘆くように、己の運命を恨むように雨が再び降り始めた。


「うううっ......」


 二人はただ、抱きしめ合う。

 全身に伝う水滴すらも、その世界を侵すことは許されない。


 僕は─

 私は─


 止まぬ悲愴のなかで、芽吹いていく決意。

 それは言葉を交わさずとも、決して違えることのないもの。




 やがて、泣き疲れた二人はそのまま眠りに落ちてしまった。

 先程まで眠っていたのにも関わらず、寝息をたてて、安らかに。


 雨はもう上がっている。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る