第3話 飛鳥の過去

 翌日、二〇二二年四月五日。優香ゆうかたち四組は健康診断の順番が一番最初だったので、十時にはクラス全員が教室に戻っていた。

綾北あやきたセンセー、オリエンテーションって何やるの?」

 日奈子ひなこの問いかけに、綾北先生が答える。

「ちょっとした、ゲーム、です……。とりあえず、椅子だけ残して、机を下げて、ください……」

 指示の通り机を教室の後ろに下げ、七人が車座に座る。

 一体どんなゲームをやるのだろうか?

「これから、皆さんに、やって頂くのは、ずばり、湾フロパイン、です……」

「湾フロパイン?」

 菜月なつきが首を傾げる。

「はい……。リズムに合わせて、順番に、言葉を連想していく、ゲームです……。例えば、パインと言ったら、果物……。果物と言ったら、リンゴ……。みたいな、感じです……」

 なるほど、あのゲームか。ルールは完全に理解した。

 ただ、説明してる綾北先生がリズムガン無視なのはどうかと思うけれど。

「よし、早速やってみるっすよ!」

「誰からやる? アタシからでもいい?」

 教室が盛り上がりを見せる中、隣に座る飛鳥あすかが優香にしか聞こえないような声量で愚痴をこぼした。

「全く。高校生にもなってマジカルバナナをする羽目になるとは、本当に最悪だわ」

 ちょっと、そのゲーム名二度と言わないでよ。私だって思ったけど言わなかったんだから。

「湾フロパインだけどね。でも、童心に帰れて楽しくない?」

 囁きかけると、飛鳥は小さくため息を吐いた。

「はぁ、宮ヶ瀬みやがせさんはまだ子供ね」

 聞き捨てならないセリフに、優香は『子供じゃないもん』と頬を膨らませる。

 しかし、飛鳥は優香など眼中に無い様子で本を開いていた。

 あの本は英語の参考書? まさか、ゲームしながら受験勉強するつもりなのか?

「それでは、始めます……。最初のテーマは、高校です……」

 綾北先生の合図で、日奈子からゲームがスタートする。

 ちなみに答える順番は反時計回りに、日奈子、菜月、花音かのん、優香、飛鳥、かえで美里みさとの順だ。

「湾フロパイン♪ 高校と言ったら部活」

「部活と言ったらバスケ」

「バスケと言ったら球技」

「球技と言ったらサッカー」

「サッカーと言ったらイギリス」

「イギリスと言ったら王室」

「王室と言ったら……あぁ……」

 答えられなかったので美里の負け。

「ちょっと美里〜。一周もしてないじゃん!」

「えぇ⁉︎ ジブンのせいっすか? 楓さんが難しいお題で回してきたのがいけないんっす」

 けらけらと笑う日奈子に対し、必死に反論する美里。

 確かに急に王室で回ってきたら私も答えられる自信はない。

 しかし、よく飛鳥は参考書を読みながら平然と答えたな。一応優しいパスにはしたつもりだけど。サッカーだけに。

「では、美里さんから、再開します……。テーマは、海です……」

 綾北先生の合図で、二回戦が始まる。

「湾フロパイン♪ 海と言ったら水着」

「水着と言ったら夏」

「夏と言ったらかき氷」

「かき氷と言ったら冷たい」

 おっと、ここで形容詞なのか花音。冷たいで連想するのって何だ?

「冷たいと言ったら……飛鳥!」

 咄嗟に出たのは次の人の名前だった。

 当の飛鳥は自分が冷たいと言われたことに気付かずリズム良く続ける。

「飛鳥と言ったら……。は?」

 リズムが止まり、参考書に向けられていた視線が優香に突き刺さる。

 うん、ごめん。私が悪うございます。

「すみません、私のパスミスです」

 慌ててみんなに謝る優香。

 すると、菜月と花音が優しくフォローしてくれた。

「いやいや、優香だけのせいじゃないよ」

「私も、冷たいじゃない方が良かったですよね?」

 ああ、何て温かいクラスメイトなんだ。

「ってかアンタさ、ちゃんと参加しない?」

 その時、急に日奈子が立ち上がって声を荒らげた。そのまま飛鳥の胸ぐらを掴み、参考書を奪い取る。

「ここは学校なの、分かる? 勉強だけやってればいいとか思ってんなら、それとんだ勘違いだから」

 日奈子が参考書を床に投げ捨てる。

 それにカチンと来たのか、飛鳥は睨みつけて言い返す。

「うるさいわね。あなたみたいな野蛮人は、せいぜい仲間と群れていなさい」

 これはまずい。教室の空気が一気に悪くなる。

「野蛮人って何? この座敷わらしが」

「あら? 座敷わらしは大事にした方がいいわよ。繁栄をもたらす存在なのだから」

「はぁ? アタシはアンタが地味で根暗だって言ってんの。日本語分かりますか? ドゥーユーアンダースタンド?」

「馬鹿にしないで。私は日本語も英語も得意よ。意味が分かった上で皮肉を言っているだけ。あなたが望むなら英語で会話してもいいけれど、あなたは猿語くらいしか喋れないでしょう?」

「誰が猿だ! 調子乗ってんなよ」

 日奈子と飛鳥はお互いにヒートアップし、言い争いがどんどんとエスカレートしていく。

「二人ともやめなよ」

「止めた方がいいっすよね」

「綾北先生、どうするんですか?」

「無理です、綾北には……」

「仲裁するだけ時間と労力の無駄です」

 周りから様々な声が上がり始める。

 暴力沙汰になる前に、誰かが止めなければ。全員分かってはいるが積極的に行動を起こす者はいない。止めたいけど勇気が出ないのか、余計なトラブルに巻き込まれたくないのか。

 どちらにしろ、このまま放置は出来ない。

 見兼ねた優香は、すっと立ち上がって参考書を拾った。そして、二人の間にそれを突き出した。

「飛鳥、大学に行きたいなら問題行動を起こすべきじゃないよ。ゲームだって一応授業なんだから、参考書を読んでたらそれは責められるって。でも、日菜子もちょっとやり過ぎだったかな。さすがに本を床に捨てるのはダメだよ」

 きっぱりと告げると、二人が優香の方に視線を向けた。

「ゴメン優香、アタシむかつくと歯止め効かなくなっちゃうんだよね。みんなもゴメン」

 日菜子は頭を掻いて苦笑し、椅子に腰掛ける。

「ほら、飛鳥も謝らないと」

 優香は飛鳥の背中を触り、謝罪を促す。しかし、飛鳥は無言で優香から参考書を回収すると椅子に座ってしまった。

 うーん、どうしたものかなぁ。

「ごめんね。元はと言えば私が変なこと言ったからだし、こうなったのは全部私のせい。綾北先生、早く続きやりましょう」

 手をパンと叩き、みんなの気持ちを切り替えさせる優香。

「優香さん、ありがとうございます……」

 綾北先生は深々と頭を下げると、「それでは、優香さんから、再開します……」と三回戦を始めた。


 その後は飛鳥も真面目に参加し、滞りなくゲームは終わった。

 そしていよいよ放課後。優香は菜月とアイコンタクトを取ると、飛鳥に声を掛けた。

「飛鳥、それじゃあ行こっか」

「え? ああ、ランチね」

 何だろう今の間。

「まさかとは思うけど、約束忘れてたとか言わないよね?」

 念のため確認してみる。

「もちろん忘れていたわ。下らない約束に脳のリソースを使うのは無駄だもの」

 反省する様子もなく言い切る飛鳥。

 そんな当然のように言わないでよ。私だってちょっとは傷つくんだぞ。

「ひどいよ飛鳥〜! って、そんなこと話してる暇があったら早く行かないと。行きたいお店、お昼になると混んじゃうから」

「それはまずいわね。たかが昼食で並ぶなんて、時間をドブに捨てるようなものだわ」

 混雑時の行列すら嫌うなんて、そこまで時間が大事なのか。

 確かに、優香もわざわざ人気店に行って行列に並ぶようなことはしない。それなら近くの空いている店に入る。何ならチェーン店でも構わない。

 しかし、お昼時のピークタイムに多少待たされるのは致し方ないのではないだろうか。

 優香は飛鳥を連れて地下鉄に乗り、新豊洲しんとよす駅で降りる。

「豊洲市場?」

 建物を見上げる飛鳥に、優香はこくりと頷く。

「うん。ここに美味しい海鮮丼のお店があるんだけど、一人だと入りにくくて」

「へぇ、少し驚いたわ。宮ヶ瀬さんみたいな人は、てっきり横文字だらけの洒落た店に行くものだと思っていたわ」

「昨日の自己紹介、聞いてなかったの? 私の好きな食べ物はお寿司だよ。あと、洋食はあんまり好きじゃないんだ」

「そうなのね。まあ、日本人らしくていいと思うけれど?」

 褒めてくれるなんて珍しい。

 時刻はまもなく正午。少し早足で豊洲市場の水産すいさん仲卸なかおろし売場棟うりばとう三階の飲食フロアに向かい、目当てのお店に入る。カウンター席十一席のうち右端の三席が空いていたので、一番端に飛鳥、隣に優香が座る。

「さすがは豊洲市場、どれも新鮮な魚を使っているようね」

 メニューの写真を見た飛鳥が呟く。

「私はまぐろ四点丼にしようっと。飛鳥はどれにするの?」

「そうね……。この函館丼かしら」

 飛鳥が指差した函館丼は、まぐろ、うに、サーモン、いくらが乗ったオーソドックスな海鮮丼だ。迷った時はこれを選べば間違いないだろう。

 ちなみに優香が選んだまぐろ四点丼は、赤身、中トロ、なかおち、ネギトロとたっぷりまぐろを楽しめる丼である。

「ご注文お決まりですか?」

「まぐろ四点丼と函館丼をお願いします」

 店員に頼み、料理が来るまでしばらく待機。

 すると、優香の隣の空いた席に制服姿の女子高生が座った。

「あれっ、優香? それに飛鳥も。もしかして二人も海鮮丼食べに来たの? こんな偶然ってあるんだね」

 計画通り、自然を装って菜月が店に入ってきたのだ。

「菜月!? 誰かと思ってびっくりしたよ〜」

 優香も驚いた仕草をして、あくまで偶然ですよアピールをする。

「二人はここにはよく来るの?」

「ううん、今日が初めてだよ。ずっと来たかったんだけど、一人で行く勇気が無くて。それで飛鳥を誘って一緒に来たんだ」

「そうなんだ。二人は何を頼んだの?」

「私がまぐろ四点丼で、飛鳥が函館丼だよ」

 菜月はメニューを見て、ふむふむと頷く。

「それじゃあ、私もまぐろ丼にしようかな」

「菜月もまぐろ好きなの?」

「うん。魚の中では結構上位かも」

 最近の若者はサーモン派が多い中、まぐろ派の仲間がこんな近くにいたとは。

 注文を終えた菜月は、様子を窺いつつ飛鳥に話しかける。

「ねえ飛鳥? 私たちクラスメイトだし、学校で全く話さないっていうのは色々と困ることもあると思うんだよね。だから、友達じゃなくていいからさ、普通に会話してほしいなって思うんだけど、どうかな?」

 物腰柔らかく、刺激しないように。菜月は慎重に言葉を選んで伝えた。

 しかし、飛鳥は鋭い視線を菜月に向けて言う。

「もちろん、必要最低限の会話はするわ。委員会決めの時だって、私はずっと黙っていた訳じゃないでしょう? ただ、私が答える必要が無いと判断したらその時は無視する。何か問題あるかしら?」

「それは、その……。問題は無いかもしれないけどさ、円滑なクラス運営の為にはある程度の会話は必要だと思うんだよね」

「クラス運営。なるほど、あなたは他人の人間関係にまで踏み込もうとしている訳ね。でも、それってあなたがすることかしら? どちらかと言えば綾北先生の仕事だと思うのだけれど」

 正論に対して正論を返す飛鳥に、菜月は何も言えなくなる。

 菜月だってクラスみんなのことを考えているのだ。そこまで冷たくしなくてもいいのに。

「お待たせしました。まぐろ四点丼と函館丼です」

 優香と飛鳥の前に丼が並べられる。その後すぐに菜月のまぐろ丼もテーブルに置かれた。

「うわぁ美味しそう! 飛鳥、菜月、早く食べよう」

 優香は箸を手に持ち、「いただきます」と両手を合わせた。

 ご飯と赤身を箸で持ち上げ、一口食べる。すると、新鮮なまぐろの旨味が口いっぱいに広がった。脂の乗りも程よく、ご飯との相性も抜群だ。

「うん、すっごく美味しい!」

「ええ。確かに美味しいわ」

「やっぱりまぐろって良いね」

 優香は飛鳥や菜月と顔を見合わせ、顔を綻ばせる。

 先程までの険悪なムードが嘘のようにほんわかとした空気に包まれる。食べ物は偉大だ。

 今なら飛鳥の態度も軟化しているだろうか。ダメ元で試しに訊いてみる。

「ねえ飛鳥? さっきの話だけど、せめて菜月とは普通に会話したら? 他のクラスメイトは追い追い必要になった時で良いと思うから」

 飛鳥はサーモンを口に運び、飲み込んでから答える。

「宮ヶ瀬さんには説明したと思うけれど、私は一人で生きていく、友達は不要なの」

「でも、私とはお話ししてくれるよね? それってやっぱり友達が欲しいんじゃ……」

「そんなことない!」

 突然、飛鳥が大声を上げた。

 店中の視線が飛鳥に集まる。

「すみません、何でもないです。お騒がせしました」

 菜月は周りの客に謝罪し、再び飛鳥の方を見る。

「ごめん、私たちしつこかった?」

 申し訳なさそうに言う菜月に、飛鳥は席を立って口を開く。

「ごめんなさい。今日はもう帰らせてもらうわ」

 踵を返し、店を出ていく飛鳥。

「優香には悪いことしちゃったね。大丈夫?」

 心配する菜月に、優香は微笑みを浮かべる。

「うん、私は平気だよ。それより、飛鳥を追いかけないと」

 スクールバッグからスマホを取り出し、店員を呼ぶ。

「すみません。お会計三人分お願いします」

 端末にスマホをかざし、ピピッと支払いを済ませる。

「それ私の奢りだから。あと、残ってるやつも食べちゃっていいよ。それじゃあまた明日、学校でね!」

「えっ、あ、うん。じゃあね」

 優香はひらひらと手を振りながら店を出て、飛鳥の後を追う。

 一人残された菜月は、優香の丼の中トロを食べ、ぽつりと呟いた。

「優香は、私じゃなくて飛鳥を選ぶんだ……」

 その表情は悲しさなのか嫉妬なのか、少し曇っていた。


「飛鳥〜! ちょっと待って!」

 豊洲市場の外の歩道で、ようやく飛鳥に追いついた。

 膝に手をついて息を切らす優香に、飛鳥が視線を落とす。

「さっきは取り乱して悪かったわ。それと、海鮮丼は本当に美味しかった。感謝するわ」

「ううん、美味しかったなら良かった」

「で、まだ私に何か用?」

 首を傾げる飛鳥。

 優香は息を整え、真剣な表情で告げる。

「……私、飛鳥のこと放っておけないよ。このままじゃ、きっと飛鳥は孤立しちゃう。飛鳥は本当にそれでいいの?」

「だから、一人で生きていくって決めたと言っているでしょう?」

「分かってるよ。でも、飛鳥は少し淋しそう。あえて友達を作らないようにしてるみたい。もしかして、小五の時の出来事が原因だったりする?」

 優香の問いかけに、飛鳥が目を見開く。

「ちょっとあなた、どうしてそれを知っているの……⁉︎」

「やっぱり、それが原因なんだね。何かに悩んでるなら、話くらい聞くよ」

 優しく笑いかけると、飛鳥は目を逸らして小さな声で言う。

「こんな話、誰にもするつもりはないわ」

「誰にも聞かれたくないなら、私の家においで」

「ちょっと、宮ヶ瀬さん。何をするつもり?」

 優香は強引に飛鳥の腕を引っ張り、通りかかったタクシーを止める。

「私は一人暮らしだから、絶対に誰にも聞かれないよ」

「別に私は相談する気も無いのだけれど……」

 ぐだぐだとごねる飛鳥を後部座席の奥に押し込み、運転手に行き先を伝える。

「ベイサイドガーデン有明ありあけの住宅棟までお願いします」

 バタンとドアが閉まり、タクシーが走り出す。

「ねえ、お金は大丈夫なの? こんな使い方をしていたら三万円なんてあっという間に無くなるわよ?」

「もう、飛鳥ったら。人の心配してる場合じゃないでしょ? 家に着いたら、ゆっくり聞いてあげるから」

 タクシーは橋を渡って交差点を左折すると、タワーマンションの玄関前に停まった。

『ご乗車ありがとうございました。運賃は七百四十円です』

 機械音声が流れる。

 優香はスマホで支払いを済ませ、車を降りる。

「ありがとうございました!」

「ど、どうも」

 優香に続いてタクシーを降りた飛鳥は、目の前に建つマンションを見上げる。

「宮ヶ瀬さん、まさかここに住んでいるの?」

「そうだよ。とりあえず中に入ろう?」

 飛鳥は呆気にとられたまま優香の後ろをついていく。

 エレベーターで二十三階へ上がり二三〇五室の前で立ち止まると、優香は電子錠にスマホをかざした。ピピッ、ガチャン。これでロックは解除された。

 優香は扉を開け、飛鳥を家に招き入れる。

「ただいま〜」

「お邪魔します」

 飛鳥は緊張しているのか、優香しかいないのに急に敬語になる。

「そこ座ってて。今お茶入れるから」

「ええ、分かったわ」

 優香は飛鳥をリビングのソファに座らせ、キッチンに向かう。冷蔵庫から二リットルペットボトルの緑茶を取り出し、ガラス製のコップ二つに注いだ。

「安いお茶だけど、一応大手スーパーで買ったやつだから安心して」

「ありがとう。別に疑ってはいないわ」

 飛鳥は優香からお茶を受け取るとそれを一口啜り、ふーっと息を吐いた。

「ねえ、宮ヶ瀬さん。この部屋、隠しカメラとか盗聴器とか無いわよね?」

 いきなりの飛鳥の質問に、優香はリビングを見回して答える。

「私は仕掛けてないよ。知らない間に設置されてたら怖いけど」

「そう。本人が仕掛けていないなら問題ないわ」

 小五の時の出来事はそこまで誰かに聞かれたらまずい話なのだろうか?

 ちゃんと話を聞く為にソファに腰掛けようとしたその時、飛鳥が急に立ち上がって強烈なストマックブローを繰り出してきた。

「おっと……!」

 優香は身体を上手く捻りその攻撃を躱す。

「チッ、避けられた」

「どうしたの飛鳥? 危ないよ」

「うるわいわね」

 振るわれる拳を右に左に回避しながら、リビングを一周する。

 元の位置まで戻ってきたところで、さすがに当たらなさすぎると思っただろう。飛鳥が問いかける。

「宮ヶ瀬さん、何か習っていたようね?」

 あんなパンチをまともに食らったら動けなくなりそうなので、つい全部躱してしまった。

 優香はわざとらしく可愛子ぶって答える。

「え〜? 私、暴力は嫌いだよ? だって怖いもん」

「あなた、そんなキャラじゃないでしょう? 真面目に答えないと、本気で殴るわよ」

 うーん、演技しても無駄か。

「護身術代わりに色々習ってはいたけど、暴力が嫌いなのは本当だよ。だから、回避だけ得意になっちゃって」

 飛鳥にじっと鋭い視線で睨みつけられる。

 さすがにもう嘘はついていない。包み隠さず話したかと言われるとそれは返答に困るが。

「……まあ、今はそれを信じることにするわ。最初のはあからさまに虚偽発言だったもの」

「そんなに変な答えだった?」

「ええ。だって宮ヶ瀬さん、殴り合い寸前の喧嘩の仲裁に入ったでしょう? それなのに暴力が怖いなんてあり得ないじゃない」

 言われてみればそうだ。優香は午前中、飛鳥と日奈子の喧嘩を止めた。その時の状況は、暴力が怖いと感じる人は絶対に関わりたくないであろうものだった。

「あのまま殴り合いが始まっちゃったら、もう誰にも止められなさそうだったから。仕方なくだよ」

「殴り合いになったら、私が勝ってそれで終わりよ」

 飛鳥はさらっと怖いことを言うと、ソファに座ってお茶を飲んだ。

「さて、予定なら鳩尾を一発殴って帰るつもりだったけれど、仕方がないから宮ヶ瀬さんの望みを叶えてあげるわ。黒歴史、聞きたいんでしょう?」

 また怖いことを言う。

「うん、何があったのか聞かせて」

 優香もソファに腰掛け、お茶で喉を潤す。

「これは、私が小学五年生だった頃の話よ。って、何故かあなたも知っていたようだけれどね」

 ぎくっ。その衝撃でお茶が気管に入り、ゴホゴホとむせる。

「そこは気にしないで。続けて」

 優香が笑顔でごまかすと、飛鳥はそのまま話を進める。

「当時、私の個人評価はAランクだった。もちろん家族全員がA。将来はSランクに上がれるものと思って、Cランクの同級生を馬鹿にしていたわ。でもそんなある日、事件は起こった。Sランクの六年の男子が、同級生のCランクの女子をいじめているのを見てしまったの。しかもその女子は目が不自由で、逃げることも出来ずに一方的にやられていた。私には関係の無いことだし、無視しようかとも思ったわ。でも、その光景はあまりに痛々しくて、黙っていられなかった。私は、Sランクの男子を殴り飛ばしたの」

「飛鳥は、友達を守ろうとしたんだね」

「別にお互いに友達だなんて思っていなかったけれど、よく介助してあげていたわ。その時はそれで終わって、守れて良かったって安心したのだけど、次の日に状況が一変した。私へのいじめが始まったのよ」

「Sランクの先輩を殴ったから?」

「ええ多分。気が付けば個人評価もCに降格していて、馬鹿にしていた同級生にも笑われる始末。両親にも姉にも見放されて、それから私はずっと一人。中学生になった頃には、一人で生きることに慣れていたわ」

「そうだったんだ、それは大変だったね……」

 飛鳥の話に、ぎゅっと胸が締め付けられる。

 一人で生きていくと決めたなんて、そんなの嘘じゃないか。飛鳥はずっと、誰かに手を差し伸べてほしかった。助けてほしかったんだ。それなのに、誰にも頼れずに一人で抱え込んで、一体どれほどの辛い思いをしてきたのだろう。

「宮ヶ瀬さん、笑いたければ笑っていいのよ。Cランクに落ちてもなおAランクのプライドを捨てられない哀れな人だって」

 自虐気味に言う飛鳥。

「そんな……そんなことする訳ないよ!」

 優香は首を横に振り、飛鳥の身体を抱きしめた。

「ちょ、突然何するの……?」

 動揺する飛鳥の耳元で、優香はそっと囁きかける。

「今までずっと、一人で頑張って来たんだね。でも、もう大丈夫だよ。これからは、私が飛鳥を助けてあげる」

 すると、飛鳥はそんなの無理だといった口調で返す。

「助ける? Cランクのあなたに何が出来るって言うの?」

「何だって出来るよ。友達作りの手伝いも、受験勉強のアドバイスも、Sランクになる方法を教えることも」

 しばらくの沈黙の後、飛鳥がゆっくりと口を開く。

「宮ヶ瀬さんのイメージ、昨日と今日で百八十度変わったわ。昨日は利用しやすそうな今時の女子高生と思って接近したけれど、あなたには何か裏の顔があるようね」

「裏の顔? 私はただの、どこにでもいる普通の女子高生だよ?」

「全く、嘘ばっかりね」

「ふふふっ。暴けるものなら暴いてみれば?」

 優香は飛鳥から離れるとソファに座り直し、意味深な言葉と共に微笑みを浮かべた。


 のんびりしているうちに、時刻は夕方の四時を回っていた。

「いつの間にか、もうこんな時間だったのね。少し長居しすぎたわ。私はもう帰らないと」

「うん。それじゃあまた明日ね!」

 飛鳥を玄関先まで見送った優香は、リビングに戻るや否やブレザーとスカートを脱いだ。

「はぁ、やっとリラックス出来るよ〜」

 ソファにどすっと座り、背もたれに身体を預ける。

 その時、ピンポーンとインターホンが鳴った。

「もう、休みたいんだけどなぁ」

 不満を漏らしつつ立ち上がり、玄関へ向かう。

 扉を開けると、そこには帰ったはずの飛鳥の姿があった。

「あれ、飛鳥? もしかして忘れ物?」

 首を傾げる優香に、飛鳥は「違うわ」と答える。

「宮ヶ瀬さんに一つ、伝え忘れたことがあったの」

「伝え忘れたこと?」

「ええ。今日のランチに来たクラスメイト、あの子に私の名前を教えたでしょう? 私の許可無く勝手に名前を広めないで。それと、今日のランチが宮ヶ瀬さん達が仕組んだものだってことはバレバレよ」

 隠し通せたかと思っていたけど、最初から気付かれていたのか。

「ごめんね。菜月に頼まれちゃって、断れなくて」

「やっぱり、おかしいと思ったのよ。急にグイグイ誘って来たんだもの」

「あはは、そうだよね……。とにかく、もう変な誘いはしないから」

「お願いね」

 言いたいことを言ってすっきりしたのか、飛鳥はほっと息を吐く。

「じゃ、私はこれで本当に帰るわ。油断した隙を突けば裏の顔を見られると思ったけれど、随分とガードが固いわね。まあ、下のガードは薄くなっていたようだけれど」

 飛鳥はYシャツ一枚の優香の身体を上から下まで眺め、踵を返す。

「あっ、飛鳥のバカ!」

 優香は勢いよく扉を閉め、顔を赤くしてうずくまった。

 油断させる為に意図的に戻ってきたことにも腹立つが、何より飛鳥に無防備な恰好を見られたことが死ぬほど恥ずかしかった。絶対これからイジられるじゃん。

「うぅ、なんか余計に暑くなってきた……」

 リビングに戻ると、優香はYシャツすらも脱ぎ捨てて下着姿でソファに横になった。

「でも、もうどうでもいいや。味方に取り込めたし、支配下にあれば問題ないもんね」

 呟いて目を閉じた優香は、疲れが溜まっていたのかそのまま七時頃まで眠ってしまった。

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