自主企画【カクヨム版解説編集所】による解説&あとがき

作品解説・杜松の実さん

 著者である崇期さんは、この著書のことを「幻想エッセイ風小説です」とキャッチコピー欄に書いている。「エッセイ風」と謳われている通りに、この作品は、一人の女性が突如として与えられた長期連休を利用して、「ゴートラスタ島」に旅行した経験を、この女性の視点から紡がれている。

 エッセイ風の小説であるから、当然フィクションだと言う事なのだろう。しかし、この作品は、「幻想」エッセイ風小説なのだ。この作品は、エッセイ風の幻想小説と言い換えていいだろうか。幻想小説とは、私の主観的な分類では、神秘的で実際にはあり得ないことを描く作品で、そういった作品は、ストーリーやオチ、展開などで読者を楽しませるという目的ではなく、作者の思想を婉曲的に反映させる手段として小説を書いている、と捉えている。

 この作品の中で、実際には起こり得ない、非現実的な事象は起きていない。女性が一人で海外旅行に行き、そこで過ごしただけで幻想と言えるようなことは無いのである。そうなると、この作品はエッセイ風の幻想小説とは言えない。やはり「幻想エッセイ」風小説なのだろう。

 幻想エッセイ。幻想の旅行記。幻想は、実際にはあり得ないことを現実に起きたかのように想像することを意味する言葉である。主人公の女性は学生のころからパニック障害を持ち、それを徐々に克服させることによって、ようやく最近になって旅行に行けるようになった。作中で海外旅行に行けるようになったことを「奇蹟だ」と表現している。だから、起こり得なかった、あるいは起きるとは想像さえしていなかった、女性が一人で海外旅行に行く、という行為は、幻想という言葉で表現に値する、という意味なのかもしれない。

 幻想エッセイの、幻想性についてはもう一つの候補がある。この話の主人公は四十一二歳、吝嗇家――意味についてはあとで言及する――で、幻想文学が好き――というよりもYの書いた幻想的な作品がどうしても気になる――な女性である。これら個人を表す特徴は、著者である崇期さんと共通なものである。カクヨムのプロフィール欄には40代女性、吝嗇傾向にあると書いてある。書かれる作品は、コメディタッチのものや、ユーモア作品、詞や詩が多いが、それらはショートショートと呼ばれる数百から数千字の極めて短編なものがほとんどである。崇期さんの書かれた作品の中では長いものと言える、一万字近くまで書かれた四作品のうち、ひとつがこの『ゴートラスタ島で、三日月を伸ばしたくて』、『八九間を走る馬』はタグに幻想小説と入っており、それから『月が輝かない夜に』も私の主観では幻想小説に分類してもよいと思える作品である。作品の傾向から見ても、崇期さんにとって幻想小説は、大事なものとしてカテゴライズされているように見える。

 以上のことだけを見ても、主人公の女性は崇期さん自身を強く投影された人物だと言える。極めつけは、作中にある「私だって、自分でよかったとか自分が好きだとかは一度も思ったことはない。」という一文。崇期さん書かれていたエッセイのタイトルが『自分の人生をいいね、と思ったことはないけれど』だったことを鑑みれば、決定的である。

 二〇二〇年、そして二〇二一年三月現在、新型コロナウイルスの流行に伴い、国際旅行は行うことができない現状にある。それは日本国民すべてに該当し、もちろん崇期さんもだ。崇期さんは自身の旅行を、自由に外出できない鬱憤を、小説の中の『私』に託したのではないだろうか。だから、幻想エッセイなのではないだろうか。


 一人の女性が、海や夕日がきれいな「ゴートラスタ島」にひとり旅に出る。そこで彼女は、方々へ出歩いて観光にいそしむのではなく、おもに海辺のカフェテラスで読書をしている。読んでいるのは、Yという作家の作品。『三日月を伸ばしたくて』、『ホタルガの咎殃きゅうおう』、『苦しみの苦しくない時間』の三作は、その内容までも明確に記されていて、彼女はこれらの物語とともに自分の人生を回顧している。

 『ホタルガの咎殃』。わたしはここで初めて咎殃という言葉を知った。意味はわざわいや災難、である。この言葉は広辞苑や各種国語辞典には載っていなかった。大修館書店の漢語林を引いてようやく見つけた。「ホタルガのわざわい」となれば、ホタルガに降りかかった災いであるのか、ホタルガのもたらす災いか、の二通りの読み方がある。

 『ホタルガの咎殃』の中で、ホタルガは不倫をしている女性のもとに「反省せよ」という手紙とともに死骸となって送られる。死骸は自然の土に帰ることなく、ごみ箱に捨てられ、女性はそこに同情している。となれば、ホタルガに降りかかった災難だろうか。その意味合いもあるのかもしれないが、題名として用いられるほど強い主張ではないように思う。ホタルガは作中で、あくまでキーになるものであって、中心的なものではない。中心的な要素は、二人の不倫関係だ。であるのに、題名としてホタルガに降りかかった災いを添えることはしない筈である。

 ならば、『ホタルガの咎殃』はホタルガのもたらす災いと訳した方が適切であろうか。では、ホタルガは主人公の女性や、その相手の男性にどんな災いをもたらしたと言えるだろう。結果的には、ホタルガの手紙は二人の間にいかなる作用をもたらしたとも見受けることができない。二人はホタルガと関係なく自然消滅し、関係が消えるとホタルガの手紙も届かなくなる。

 崇期さんはどうしてホタルガを選んだのだろう。ホタルガは、蛍に似た見た目からその命名がなされ、住宅街や森林など、どこにでもいる虫らしい。そのことは作中でも言及されている。

 咎殃、という言葉に、とがめるという意味は含まれないが、漢字としてはとがめる、が含まれている。そこに、「反省せよ」の手紙が添えられている。殃は一字で、災いという意味を持っている。

 住宅街にもいる虫、咎める、災い、これらを纏めて「不倫関係を、世間という外側どこにでもいる虫の視点から、咎められる、という災い」と意訳することはできないだろうか。

 Yの作品は「抑圧」をテーマにしている。『ホタルガの咎殃』での抑圧は、不倫は悪だ、という抑圧と、別れたくても別れる事が出来ない、という二つの抑圧がテーマだと言う事はよく分かる。

 不倫は悪だ。社会に備え付けられた善悪という圧。主人公の女性が持っている、周りから見られれば、不倫は咎められる行為だと自認している恐怖感が、このホタルガの手紙に表れているように私は感じた。

 補足しておくと、この殃の字、辞書で解字を調べると右のつくり「央」は首枷をはめられた人の象徴、左の偏「がつ」は死にも使われている通り人の死体の象徴である。ここにもホタルガの死骸との親和性が感じられる。


 他二作『三日月を伸ばしたくて』『苦しみの苦しくない時間』はどちらも幻想小説である。作中で幻想小説は、現実のスペア、代替品であると書かれている。これが崇期さんの持論であるのか、それともこの作品の中ではそのような世界観に収めているのか、は定かでないが、少なくとも上記二作はどちらも現実のスペアとして書かれた作品だと言っていい。

 スペアは下位互換という意味ではない。スペアにはスペアなりの、つまり幻想小説には幻想小説なりの魅力があるのは確かだ。

 そして『苦しみの苦しくない時間』は男女の性行為のスペアとして、女性と幽霊とも覚束ない男との恋愛を描いた。

 『三日月を伸ばしたくて』は、三日月を伸ばして人を吊り上げて殺す話だが、殺人のスペアではない。これは、他者のアイディアで救われる体験のスペアだと言えよう。『三日月を伸ばしたくて』の中では、趣味仲間に伸ばす方法や、吊り上げる方法を、だまして考案させる。一方、この『ゴートラスタ島で、三日月を伸ばしたくて』の中での現実では、彼女一人では到達できない、


闕乏けつぼうを堂々と示し、埋めることなくのこしていく無欲さ。頼りなげな感情とポリシー的抑圧。くつろげない世界で寛ぐというひねくれ精神」


を書いたYの小説を頼りに、彼女は生きていく。

 彼女はYの小説のことを「手作り昆虫図鑑風オリジナル現実世界」と表現している。「手作り昆虫図鑑」は『三日月を伸ばしたくて』に出て来る、趣味仲間が作った主人公の願いを叶えるアイディアの書かれた本であるから、Yの作品は彼女の願いを叶えるアイディアの詰まったものたちだと言い変えられる。

 そしてあとにつづく「オリジナル現実世界」。Yの書くものには幻想小説が多い。幻想小説は現実のスペアであった。現実と幻想の転換、代替されるものと代替するものの転換が起きたということなのだろうか。

 それはおそらく違う。やはり、幻想小説は現実のスペアでしかない。『三日月を伸ばしたくて』では、主人公の女性は「手作り昆虫図鑑」を使って望みを叶えている。しかし、『ゴートラスタ島で、三日月を伸ばしたくて』の彼女は、Yの書く小説の中の世界を楽しむに過ぎず、その世界に入り込むことも、その世界を現実で実践することもできない。つまり、彼女の望みはYの物語では叶えることはできない。それでも、読むことで救われることはできる。

 「オリジナル現実世界」、オリジナルは独創的な、や創造という意味で、現実を修飾すると矛盾が生じるが、それをあえて行っている。Yによって創られた世界である小説が、現実世界の代替として彼女を救う、ということを示唆しているように思えた。


 主人公は自身のことを吝嗇家で、この旅のことを吝嗇な冒険と書いている。崇期さん自身のプロフィールには「地味で庶民派で吝嗇傾向にある、割と図太い作風です。」と書かれている。主人公の性質に崇期さんの強い投影があるのは先で言及した通りだ。

 崇期さんの中で、この「吝嗇」という言葉は、なにか特別な意味合いがあるのではないだろうか。吝嗇とは、お金を使うことを惜しむこと、けち、という意味がある。吝嗇家はけちな人だ。

 ここで吝嗇な冒険とは、さまざまな場所を練り歩いたり、観光したりしない旅のことを指しているのか。確かに彼女の旅行は、ホテルと海岸沿いのカフェ、それから市場見学、夕日鑑賞しかしていない、さびしいものかもしれない。が、それはお金を惜しむ性格から来ているのではなく、パニック障害を患っていた経験からくるものだった。それに、吝嗇な旅ではなく、吝嗇な冒険、と書かれている。これは病気を克服、あるいは抱えながらも、奇蹟にも思われる一人での海外旅行をしたことを冒険と称している。彼女が真にけちな人間であれば、ふいの長期休暇に海外旅行を選択するとは思えない。

 崇期さんのプロフィールにある、「吝嗇傾向」な作風というのも、けちな作風と訳すことはできない。

 ここに吝嗇には、けちやお金を惜しむ以外の意味があることを示している。では、それは何だろうか。以下、作中からの引用。


「自由な思いつきも弾けた楽しみも一つもない旅のなにが楽しいのか、と誰かは言うかもしれない。まさしく私はそういう旅しかしなかったのだから。」

「物語の中の、一貫して薄弱な現実、足りない中身──。私のおもしろみに欠けた旅に対しても、人々は、きっとこんな意見だと思う。」


 崇期さんの書く「吝嗇」には、「足りない」や、「さびしい」、「薄弱」、「おもしろみに欠けた」といった意味も含まれているのではないだろうか。

 作中では、幻想小説のことを一般的なエンタメ文芸と、次のように比べている。一般文芸の名著は「豪奢だった。濃厚な味がして、読んだ誰もがため息をつくだけのものが溢れている」とし、Yの書く幻想小説は「さっぱりした味」としている。Yの作品は、吝嗇な物語と形容していいのではないか。以下、引用。


「おそらく、幻想小説を本物の幻想小説として出したものはよかったが、現実のスペアとしてしまったものは、あくまでスペアの域に留まってしまうのだろう。それはガラス窓に映った虚像、左右逆さまの偽物だ。魅力がないわけではない。立ち止まって、そんな虚像に見入ってしまう者もいる。。」

は杜松の実による後付け。この「私」には主人公の女性だけでなく、崇期さん自身も含まれているように思われる。


 一見、負の要素である「吝嗇」を、崇期さんは魅力的なものだと捉えている。だから作中に出て来る小説を、吝嗇な(さっぱりした、薄弱な)小説にし、主人公を吝嗇家(さびしい、おもしろみのない人物)にし、吝嗇な冒険(ものたりない旅)をさせ、自身の作風を「吝嗇傾向にある」と表現したのではないか。


 最後に、題名『ゴートラスタ島で、三日月を伸ばしたくて』について言及しておく。舞台である「ゴートラスタ島」は、ネットで検索をかけた限りでは存在しない島のようだ。ここにも幻想エッセイのエッセンスが用意されていたようである。

 何をもとにした島名かはわからない。全くのでたらめで音韻が心地よくてこの名にしたのか、あるいは何等らかの意図があってこの名にしたのかは分からない。Yのエッセイに登場した島だというから、Yのモデル――が存在するのなら――が関係しているのかもしれない。

 作中作品『三日月を伸ばしたくて』では、「もう一度、今度は自分のアイディアで三日月を伸ばせないだろうかと、変な欲望に浸る老婆となった主人公」とある。一度目は、他人のアイディアで以て月を伸ばすことができ、人を殺すことが出来た。老婆になった今は、なぜ伸ばしたいのか。再び殺したい人間でも現れたのか。

 「ゴートラスタ島で、三日月を伸ばしたくて」は主人公の胸中の旨と断言できる。彼女は殺人がしたいのではない。三日月を伸ばす、は単なる比喩でしかない。例えばおもしろみのない生活を、性格を変えたいという欲望を叶える、ことの比喩が三日月を伸ばすだとしよう。そうなると、「ゴートラスタ島で、三日月を伸ばしたくて」は、この一人旅で、自分を変えたい、あるいは旅の間だけでも、羽を伸ばして非日常に浸りたいという欲望を表しているのではないか。老婆の三日月を再び伸ばしたいという欲望も、非日常を求む、あるいは変化を求めているところから来ているのではないだろうか。

 しかし、彼女はこの旅行中、とくにアクシデントもなく、読書をして過ごしてしまった。終いには自宅に帰りたいと強く願っている。「自分のアイディアで三日月を伸ばすのは無理だから、あなたの小説をこれからも楽しむ。」と書いてあるのは、自分自身の力で変わることは無理だという意味だと私は思った。

 そして、Yの小説を読んで変わる、という意味ではない。変わらないままで、楽しんでいく、という意味だと思う。


 崇期さんは、この小説を通して、欠点、短所、不得意なことを抱えたまま生きていくことを、肯定し後押ししようとしてくれている。

 私はそう受け取った。


        二〇二一年三月   杜松の実

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