三日月を伸ばしたくて
海はホテルから徒歩で十五分ほどだった。海岸付近は思った以上に発展していて、ちょうどよさげなカフェテラスがあり、なにか別の用事を思いつくまではそこに入り浸ることにした。三食ここでもいいと思ったが、営業時間が不明だ。
グラスに入ったミルクたっぷりのコーヒーを注文した。人は多いのに辺りは広い範囲に亘ってとても静かで、文庫本を持っていることを思い出させたいみたいだった。
例の小説家の、ゴートラスタ島滞在記が載った本は引っ越しの際におそらく売ってしまったのだろう──私は、フィクションは後生大事にするがエッセイは手放しがちだ──真っ先に探した本だったが見つからず、持ってきたのは同じ著者の小説。Yという、ぱっと一冊売れただけの若い作家だ。私より十も年下。文学界にさほどくわしくない私には知名度がよくわからない賞をいくつか受賞している。
本当はそれほど好きな作風でもないのに、つい気になって何冊も読んでしまっているのは、あるとても奇妙な話を偶然読んで、半ば取り憑かれてしまったのだろうと思う。魅力というのは厄介だ。恋愛もそうかもしれない。好きだという錯覚がずっと続き、ほかの作はそれほどおもしろくないな、と脳がはっきり言っているのに本を買い続けてしまう。
ヒット作をヒットする前に読んだという、人生初の経験をさせてくれた本でもある。Yの今のところただ一つの名著(こんなこと、私が言う義理じゃないだろうが)、短編集『三日月を伸ばしたくて』。
恋愛に傷ついたというより失敗したという思いを強く抱いてしまった女が、相手の男に夜道を独りとぼとぼ家に帰る傾向があることを突き止め、三日月の切っ先をなんとか地上へ伸ばして、男の衣服を引っかけ釣りあげてやろうと考える。男が高所恐怖症だったことから選ばれた悪魔の思いつきでもあった。しかし、自分の頭ではどうにも月を伸ばす方法が思い浮かばず、趣味の集まりで知り合ったアイディアマンを騙して代わりに考案させた方法で殺人を実行する……というお話だった。
とても細かい違和感が散りばめられた、絵本のような詩のような不思議な話だった。最初に読んだとき、こういう物語をずっと読みたかったんだ! という粗放な錯覚が早くも湧きでた。収録の六話すべてが同じ色合いだったからたちの悪さがある。文章の中の引っかかりに溢れる言葉使いを、しばらくの間、日常で頭の中で何度も真似して使うはめになった。
女友達の失恋話にも「好きな部分」がある主人公。「フルーツの断面」について語るコック見習いの兄と、「行方不明の包丁」の話ばかりする母親との噛み合わない会話。トイレに入ったときだけ聞こえる「隣人の笑い声」。夜道を独りとぼとぼ帰る「傾向のある男」。僕なら走光性を利用する、と言って、主人公に「手作りの昆虫図鑑」を、殺人に利用されるとも知らずプレゼントしてしまう天才的趣味仲間。空に釣りあげれば街にはいなくなってしまうから「成立するという殺人」。紛れもないブームになった。
傍らに生きた海がいるのに。眩しい休日があるのに。何度も読んだ本のページをめくる。コーヒーのグラスとともに汗をかく。意味不明なドラマが胸に広がる──。
闇に沈む通りを深海魚のごとく這う人々。そこから愛した男を取りあげ、成功した金魚すくい風殺人。月が満ち、切っ先がなくなったことが原因か、数日後、男の姿が空から消える。月の表面の模様は罪深い男が着ていた服だという物語が街に広まる。もう一度、今度は自分のアイディアで三日月を伸ばせないだろうかと、変な欲望に浸る老婆となった主人公……。
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