ホタルガの咎殃

 ホテルの部屋に戻って、上着と靴下だけ脱いでベッドに寝転がった。


 二十代の頃、はじめての一人旅で東京へ行き、そのときも初日にスケジュールを詰め込んで、無理が祟って夜ホテルでダウンしたことがある。本当に、あのときはルームサービスでお粥を頼もうかと真剣に思った。


 落ち着け、まだまだ時間はいっぱいある。


 浜辺にも行くだけ行った。誰もが褒めそやす海だ。しかしこちらは人がまばらで散歩向きとも思えず、すぐに引きあげた。夕日がすばらしいということだから、また後で来られるようであれば来よう、と思った。ほとんどテラスで読書をして市場をうろうろしただけなのに頭の中がどうしてか大混雑を起こしている。こういうとき体に起こる誤作動は人それぞれだろう。饒舌になったり、やけ食いに走ったり。家でじっとして動けなくなる人もいるのかも。私はだいたい、食欲がなくなる。新しい職場の一日目はお弁当の半分も食べられない。旅行に行っても緊張と興奮でお昼が食べられないことが多く、夕方や夜、突然空腹に見舞われしんどくなる。職場の先輩に男性を紹介してもらったときは最悪だった。なぜか高級なホテルバイキングに行ってしまい、白いおしゃれな仕切り皿に「侘び寂び」が展開されることになった。料理を取りに行ってそんな状態でテーブルに戻ってどう言い訳したらいいのだろうと必死で考えた。「食欲がなくて」では心配をおかけする。「なんだか緊張して」……当時、三十五歳で似つかわしいセリフとは思えなかった。


 その男性がまた口が達者で洒脱な話ができる人だったらしく、私が持ってきた皿を見るなり「ミニマリズムですか?」といきなり高度なウィットを飛ばした。


「…………!?」と返しに詰まったこと(私はカタカナ用語に極端に弱かった)、ろくに食べていないのに三千円以上払ったこと、男性も私も感想に対して口を割らず、「で、どうだったの?」と訊いてきた先輩も一向になにも掴めないまま終わってしまったこと。十分な思い出だ。


 

 しかし、ゴートラスタ島で初めて過ごす夜は気分がすぐに落ち着いてきた。立てた左膝の上に乗せた素足にひんやりとした風が当たるのを感じたとき、「間怠っこい春の夜」という、時間が妙に引き伸ばされているかのような、世界がめずらしく示してくれた親心のような空気の和みを感じて、頭の中のごちゃごちゃが一気に溶けていった。


 ベッドから起きあがると、手帳に日記代わりのメモを取り、Yの小説を取る。寝よう、という時間まで読むことにする。



 短編『ホタルガの咎殃きゅうおう』は多分、恋愛小説だった。「三日月〜」に溢れていた幻想的で危うい雰囲気は微塵もない、現代小説だ。


 不倫をしている主人公の佳奈子。相手の達彦とは惰性となっていたが、達彦はそれに気づいていない。世の不倫とは逆に達彦の方がのめり込み、わがままでしかないような要求が徐々に激しくなる。

 

 冒頭も、世間話もそこそこに、自宅のようなノリで佳奈子の家の浴室へ勝手に向かいお湯を張りはじめる達彦に、(やっぱり、会ってすぐ、それか……)とうんざりしている佳奈子。


 そんな佳奈子の家の郵便受けに妙な手紙が届くようになる。切手のない、直接投函されたもので、それも不気味だったが「反省せよ」の言葉と一緒にホタルガの死骸が入っていた。

 

 ホタルガというがいることをはじめて知る佳奈子と達彦。自分たちの関係を知る者からの忠告だと震え、これを機にとうと考える佳奈子と、「ただのいたずらだ、おれとは無関係だ」と取り合わない達彦。

 

 手紙は頻繁に姿を現し、毎回必ずホタルガが入っている。こんなことがなければ土の上で朽ちることができるのに、自然から分断された家のごみ箱に亡骸を落とされてしまうホタルガに同情が湧いてくる。犯人はホタルガをどこかで手に入れている。佳奈子は図書館の昆虫図鑑で調べ、幼虫がサカキを食草としていることを知り、近所でサカキを探しはじめる。


 結局、なにも掴めないまま終わる。欲望の格差がどうしようもなくなり、達彦は別の女性に乗り替えてしまう。ホタルガの手紙は届かなくなる。数年後のとある九月に、佳奈子ははじめて生きているホタルガを見る。民家の壁に止まっていたそれは、近づくと、まるで滑り落ちたように地面に移動し、動かなくなる。「変な虫だ」と思う。それから、毎年秋には頻繁に見かけるようになる。こんなにどこにでもいる虫だったのかと佳奈子は驚く──。

 



 私もホタルガは見たことも聞いたこともなかった。インターネットで調べてみると、見た目が蛍そのものな感じがして、なんだか笑った。そういえばはねの色・模様が「地図っぽい」と思った蛾に「チズモンアオシャク」という名前がついていることを知ったときは「考えることは皆同じだな」とおかしかった。


 この小説は別に、ホタルガに注目してほしくて書いたのではないだろう。どこにでもいる蛾、と書いてあるし。最初に読んだときは「暗い話だな」という感想だった気がするが、改めて読むとやはり「不思議なお話」と思う。Yの小説は「抑圧」がテーマとして底を流れているらしかった。なのに、暴力的に怒涛にせきが切れることがなく、じわじわと薄弱な本音が洩れでて、それをごまかすように余計な回り道で遊び、現実をうやむやに濁してしまう。世界にのこしていくのはぼんやりとした陰影だけ──失敗した染色アートのよう──という作風が、なんだか悲しくておかしい。私はそう思い、読んでいる。

 


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