約束された後悔
兎にも角にも用事はこれで済んだ。俺がここにいる理由はもう無い。早くスプルを見つけに行くため外に出なくてはと、飲みかけの薄荷茶を行儀悪く急いで飲み干した。
「では俺はこれで」
「あ~、お兄ちゃん。私のこと忘れてるでしょ!」
階段をどたどたと駆け下りながらリナは俺のことを睨みつけた。俺はハッとさせられた。しまった、完全に彼女との約束を失念してしまっていた。当たり前だが彼女の顔を見ても相当に怒っていることが分かった。
「もうせっかく私がプレゼントしようと思ったのに。そんなんじゃ、もうあげない!」
「ごめんね、リナ。君との大切な約束を忘れてしまって」
頭を下げ、精一杯の誠意を見せることでリナの許しを乞う。
「リナ、私が悪いんです。私が彼に言う必要のない話までしてしまったせいで……」
「シスターが謝ることじゃないですよ。これは俺の責任です」
このやり取りを見てリナは益々臍を曲げてしまったようで、頬を思いきり膨らませた。
「もう二人とも嫌い!」
この後リナを説得して、機嫌を直してもらうのに暫くの時間を要した。
「はいこれ」
最終的にはリナからプレゼントを頂けることになり、俺は有り難くそれを受け取った。
「これは……」
「大切にしてね!」
◆
俺は修道院を後にしてから日が暮れるまでの時間まで、ずっとスプルを探していた。されど一向に見つかる気配はなかった。気づけば疲労が蓄積し足が棒のようになっていた。ベットに倒れ込むようにして目が覚めたときにはもう既に朝日が昇っていた。一瞬会議の時間に間に合っているか不安に駆られたが、早起きの習慣のおかげでいつもの時間に起きることが出来た。体の疲れは溜まったままだった。
「いい天気ですね、
「ええ」
彼らの声を聞いて唯でさえ重たかった頭の重量が幾分か増えたように感じる。とはいえ、ここまで耐えて進んだ商談をご破算にしてしまうのも避けなくてはならない。
「厳正なる審議の結果ですね、国軍当局の見解と致しましては」
だからこそ、本来であれば慎重に行くべきなんだろう。イレギュラーどころか僅かな異論すらも通らないはずのこの場で、俺がやらなくてはならないこと。それは本当に黙って聞くことだろうか。彼女との約束に胸を張って応えられたと言えるようにしなくてはならないんじゃないか、と。昨日のシスターとの会話とリナの約束がそう思い出させてくれた。この目の前の二人よりも先にしていた約束を守らなくてはならない。
「申し訳ありませんが、こちらの要求を変えます」
「は?」
これには嫌らしい笑みを貼り付けていた二人も虚を付かれたように立ち尽くす他無いようだった。
「な、何をおっしゃるかと思えば。面白い御冗談をおっしゃいますね。我々がその類のことを好まないことは前にも」
「いえ、本気です。真に私が要求するのは…………停戦の延長です」
――この結論に至った経緯はこの国を訪れる前にまで遡る。
朽ちゆく村に残る唯一の村民である女狩人ナヴィエとの最後の会話。俺がスプルの救命など諸々彼女にお世話になった礼として持ちかけた提案を断られた代わりにあることを言われた。
「分かった。では、こういうのはどうだ? 私は長らくこの地に住んできた者としてやはりここが戦火に覆われていく様を見たくはない。幸い現在は停戦状態が続いているが、いつこの緊張が破られるか分かったものではない。そこでだ。お前は武器商人としてあの国を訪れると聞いたが、停戦を少しでもいいから長引かせてはくれないか? 飽くまで可能であれば、やってほしいというだけの話だがな」
一介の武器商人にそんなことが可能では無いことなど戦争にそこまで詳しくない彼女でも分かっていただろう。敢えて無理難題を吹っ掛けることで遠回しにこれ以上の礼はいらないと彼女なりに伝えたかったのもしれない。それでも俺はこれを守らなくてはと感じられずにはいられなかった。
当然、完全に忘れていた訳では無い。敵国と戦力を同等にすることで拮抗状態を維持できると考え、当初の目的を変更する必要がないと考えていただけだ。けれども、これでは副次的に停戦を長引かせただけであり再戦を全くしないという保証はどこにも無かった。それ故に俺は直接停戦の延長を申し出るという暴挙に出た――。
「停戦の延長……一体何を考えているのか解りかねますが、本当にそれでよろしいので?」
「……もう決めたことですから」
ただ純粋に困惑している中佐と大尉に対して俺は決意を口にした。二人は互いに顔を見合わせ暫く逡巡した後、中佐が口を開いた。
「十年間の停戦延長を上に申し出て、その旨を記載した契約書を明日郵送するというのはどうでしょう」
「……承知しました」
勿論これによってあの村が救われる未来になる訳ではないし、戦争だって終わらない。それは誰しもが分かっている。彼らが部屋を後にするまでに流れた音は人々の雑踏ぐらいのものだった。
◆
「どうしますか、中佐」
「どうするもこうするもありませんよ。今まで通りの計画を我々は遂行するまでです。ただ彼があんなことを言い出すのだけは唯一予想外でしたが、まあいいでしょう。予定は未定であり、計画に修正はつきものですから」
「では、契約書の件は」
「無論のこと、反故に。所詮は口約束ですし、そもそも停戦協定などは既に無用の長物なんですからね」
「ええ、全くです。ただ私には両国、いや引いては世界全体がこれほどまでにあの若者に執着する理由が皆目見当がつきません。素性を見ても学院を退学し除籍処分までされている。まるで落ちこぼれではありませんか」
「逆ですよ、大尉」
「逆?」
「彼は優秀すぎたんです。世界からその存在を疎まれるぐらいにね」
◆
その夜、俺は寝付けないままの夜を過ごしていた。眠気が来ないのではない。寧ろ眠たく眠たくてしょうがないぐらいだ。それなのに瞼を思いっきり瞑っても一向に睡魔が現れない。スプルが見つからないという不安もそうだが、それとは別に何故か胸騒ぎがするのだ。得体の知れない怪物の話を聞いた夜のような恐ろしさが身を包んでいる。そして、こういう時に限ってそれは的中するものだった。
聞こえてはならないはずの鍵が外から施錠される音が耳朶を打った。当然フロントから渡された鍵は部屋の中にある。咄嗟に俺は臨戦態勢に入った。流石にこんな状況になれば嫌でも意識は覚醒していた。今だけは寝付きが悪かったことに感謝しなくてはいけない。暗がりの中、下手に動いて物音を立てれば相手に起きている事がバレてしまう。寝ていると思わせて逆にその隙をついて反撃する作戦にした。
幾らそっと歩こうとも全く音を立てずにこちらに近づくのは不可能だ。姿は視認できないが、音が聞こえていれば十分だった。一歩ずつ近づいていくのに比例して俺の心臓の鼓動も早くなる。急に音が止み、とうとう目の前に立ったことを察した。
「うおあっ」
俺が無言で飛びかかったのと暗闇の中の敵が間の抜けた言葉を発するのはほぼ同時だった。相手は寝ていると思っていた標的が急に動き出したことに困惑しているのか行動が遅れた。俺は素早く背後に回り込み首締めの姿勢に入る。
「誰の差し金だ」
俺は腕の力を強めながら問う。されど返ってくるのは呻き声だけで俺の質問に答えようとしない。
俺が痺れを切らして絞め落とそうとした時、後頭部に強い衝撃が走った。体は一瞬にして糸の切れた操り人形のように倒れ込む。薄れゆく意識の中で俺はそのもう一人の存在に気付けなかったことを悔やんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます