少女

 軍人らが部屋から出てから、堰を切ったかのごとく疲れが全身から湧き出してきた。自分でも気づかぬうちに体は強張り、無駄に体力を消費していた。ほんの僅かな時間が無限にも感じられた。話が俺の希望に沿う形で纏まるかという不安もあるが、明日また同じ相手と似たやり取りを繰り返すことそのものに気が滅入ってしまう。


 あんなに魅力的に感じていた水煙草すら、今は吸う気になれなかった。まだ昼の入りかけなものだから酒を嗜むのも気が進まない。だけれど、ここにいたまま何もしなければ蟠った感情の渦に飲まれてしまいそうだった。コートを羽織り、再度寒空の中へと繰り出す。お腹は空いているはずなのに食欲が湧かないという奇妙な感覚のまま、ふらふらと街中を歩く。依然として人々の顔は暗澹としており、幸せで快適な都市生活とやらからは掛け離れている気がしてならない。気づけば目の前にはあの定食屋の看板があった。どうやら潜在意識下でもこの店を気に入っていたようで、自然と足を運んでしまったらしい。


「お、さっきぶりだね」


 中に入るや否や、気さくに店主が話しかけくれる。緊張したやり取りの反動で余計に温かみを感じた。ここにはこれからも何度かお世話になりそうだなと考えていると、衝撃の言葉を彼は口にした。


「そういえばね、君がきてくれるちょっと前に珍しいお客さんが来てくれたんだよ。綺麗な白い毛の冬狼スノルフさん」


「え」


 冬狼は生息域の違いから人の縄張りに紛れ込むことは滅多になく、況してやこんな壁に囲まれた国の中心部になんているはずがない。考えられる可能性はただ一つだけだ。


(スプルがここに来た……?)


 有り得ない話では無いとはいえ、偶然にしては出来すぎているような気がする。


「その話もうちょっと詳しく聞いても?」


「ああ、勿論。すごくお腹空かしてみたいだったから、お肉をあげたんだよ。そしたらもう一心不乱に食べていてね。けれど何処か上の空みたいな感じでもあったかな。何か考え事をしながら食べていたような……まあ、これは僕の憶測に過ぎないんだけどね」


「そうですか……」


 まず感じたのは申し訳なさと不甲斐なさだった。ほぼ間違いなくその冬狼はスプルのことだ。俺はすぐに帰れると高を括り、連れて行くのが面倒だからという理由で戦車の中にあいつを置いてきてしまった。結果として腹を空かせたあいつにこうして街中まで来させてしまった。予想できた未来、というよりかは目を背けてきた予定調和。こうなると分かっていたけど、自分の選択を後悔したくなかったから無視しようとした可能性が現実化した。


「もう一つお伺いしたいことがあるんですけどいいですか?」


 この人になら自分の心の内を打ち明けてもいいと思えた。事情を察してくれたのか、店長は小さくけれど確かに頷いてくれる。


「恩人、それも命を助けてくれた大切な人に酷いことをしてしまった時、あなたならどうしますか……?」


 もしかすると彼には俺の考えていることがお見通しなのかもしれない。俺が何を言いたいのかも、どんな答えを求めているのかも。


「必死になって謝るだけだね。相手が許してくれるかなとか考えちゃいけない。とにかく誠心誠意謝る。その気持ちは多かれ少なかれ相手にだって伝わるもんさね。そしてその後に感謝するの。謝ったのと同じ分、いやそれ以上のがいい」


 店長は上を向き、ここにはない何かに思いを馳せているようだった。


「くれぐれも時間が立ってから謝らないのも大事だね。大抵のことは時間が解決していくというけれど、それはその問題が風化していくからなんだ。人間関係だって何もなければ風化するだけ。いずれは錆びて壊れちまう。そうならないためになるべく早く、ね」


 物悲しそうに目を細めながら、彼は自分自身に言い聞かせている風に見えた。その横顔は俺に一つの決心を抱かせる。やはり答えは決まっていたのだ。


 ◆


 目下の課題であった空腹は解決したとはいえ、あの男を見つけないことにはここへ出向いた目的が達成されない。ここに来て手掛かりらしきものが見つかったのだ。私は柄にもなく期待に胸を膨らましている。


「あ、ワンちゃん!」


 私が通り過ぎた路地のところから話しかけられた。姿は影に隠れていて見えないが、声から察するに幼い女の子だと思われる。無視していくこともできたが、なにか目撃情報を聞くことができるかもしれないと私はそちらへ歩を進めることにした。皆私を奇異の目で見るも好意的に接してくれた試しがない。更に有益な情報を齎してくれるのは店長ぐらいだった。


「可愛い~! ねぇねぇ、撫でてもいーい?」


 私が鳴いて返事をする前に暗がりから手がにゅっと伸びてきた。無遠慮にワシャワシャと私の頭を撫でてくる。折角の美しい毛並みが台無しになってしまった。それでも不思議と嫌な感じはしない。温かみを帯びた手にどうにも絆されて抵抗する気が削がれてしまう。


「どこから来たの? 飼い主さんは? どんな食べ物が好き? 私はねー」


 その少女は質問攻めにされた挙げ句に勝手に自分の話を展開する。私は辟易しながらも彼女の全貌をその目に捉えた。お世辞にも綺麗とは呼べない継ぎ接ぎまみれ服に手入れのされていない茶髪、足に至ってはほぼ素足と呼んでも差し支えないほどにぼろぼろの靴を履いていた。赤みがかった瞳とそばかすが特徴的な少女は、それでも元気溌剌と笑っている。


「あ、いけない。今日はシスターにお使いを頼まれてたんだった。じゃあね、ワンちゃん!」


 まさに嵐のような少女だった。あの太陽の笑みに元気づけられてしまったようだ。


 ◆


 スプルが店に戻ってくる可能性もあると考えたが、居ても立っても居られなくなり俺は店を飛び出した。雑踏の中では普段は見えていたものも見えなくなる。スプルヘの気持ちも先程抱いた決意すら掻き消してしまおうとする人の奔流に抗う。その中に、誰よりも目立たない格好をしているはずなのに目を引かれてしまう少女が一人。


「うーん、取れない~。うーん!」


 精一杯背と手を伸ばしながら、棚の上にある商品を取ろうとしている。どう頑張っても取れないのは傍から見ても明らかだ。彼女がいるのはこじんまりとした街の一角にある雑貨店で、街を行き交う人々はそちらを見向きもしない。意図して無視しているというよりかは、路傍の石がごとく気に留めることがないといった感じだ。居た堪れなくなって俺はそっと彼女の元へと行き、視線の先にあった箱入りの牛乳を取ってやる。


「はい、どうぞ」


「ありがとう!」


 少女は快活にそして屈託なく笑った。自分にもここまで純粋な頃があったのかと思うと、急に郷愁の念を覚えた。けれどそれは――。


「ちょっと待っててね、優しいお兄ちゃん!」


 そう言うと彼女は会計の方へと走っていってしまう。幼気いたいけな少女の頼みを無視してこのまま立ち去ることは忍びなかったので、俺は仕方なく店先からスプルの姿を探すことにした。分かりきったことではあるがこの往来であいつの姿を見つけるのは、干し草の中から針を探すような行為だ。


「あのね、私お兄ちゃんに恩返ししようと思って。それでね、なんでかっていうとね。シスターが『なんじの欲する所をなんちゃら』って言ってたからなの!」


「もしかしたら『汝の欲する所を人に施せ』かな……?」


「そう、それ!」


 古めかしい教訓、シスター、そして何より少女が着ている見窄みすぼらしい服。彼女の置かれている境遇を察した俺ははっとした。少女の天真爛漫さと対照的に映る残酷な現実が俺に押し寄せてきた。彼女は俺にお礼をするために『しゅーどーいん』とやらまで付いてきて欲しいらしく、しきりに俺の手を引っ張っている。俺は致し方なく微笑むことしかできなかったが、果たして俺は上手く笑えていただろうか。

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