冬狼と油粉捏

 回想もほどほどにして私はあの男の匂いを探してみることにしたが、如何せん人がこんなに多くいる所に来たのは初めてだ。森でははっきりと掴めていたのに、多種多様な臭いが入り混じり、とてもではないがただ一つの匂いを追跡するのは困難を極めた。長い長い道で人間たちが四方八方に動く様は虫そのものだった。組織だった社会があるのは私たちと同じだが、何よりも量が段違いだ。数十匹でも少ないぐらいの数がひしめきうごめき独特の流れを生み出している。そう、流れだ。ある種、川に流されている感覚に近い。今、私は人という名の濁流に溺れかけているのだ。


 私を乗せてきた巨体が走り出してしまってから、もう随分と長い時間が経過している。腹にはまだ余裕があるが、どうにもこの世界は私の性に合っていないので早く抜け出したい。ここがどこなのかも分からないが、何となくあいつが居ることは感じていた。主でもなければ、友でもない。増してや、家族なんて。それでも私はあいつの影を追う。ふと、そこまで考えて残してきた家族や仲間たちのことを思い起こしてしまう。先程終わらせたばかりだというのに。昔に思いを馳せるのは私の悪い癖だ。猪は確かにたおれたけれども、皆揃って私が死んだと考えているだろう。狩りに出掛けたまま帰らぬものがどうなったかなど、子どもでも分かる。死体が見つかればいい方で、行方知れずになるのが殆どだ。だとするならば私もそれに倣って、一度死んだ自覚を持つべきなのかもしれない。


 この場所からはあまり見えないが、日は昇りつつある。群衆が道を占拠する前に手掛かりを掴んでおきたかった。元はと言えばあいつが勝手に私を置いていかなければこんな手間をかける必要もなかった。だけれども、先に浮かんだのは怒りではなく不安……と呼ぶべきだろうか。あいつにとって私がその程度の存在なのではないかという疑念。同行させる価値もないただ行きずりの関係にしか思っていなかったとしたら。冷える朝だというのに踏みしめる地面は容赦なく私から体温を奪っていく。


 ◆


 カウンター席からはよく厨房の様子が覗けた。手際よく何かを刻む音だけが背景音楽となっている店内は驚くほどに殺風景で、内装だけで言えば牢獄と見紛うのも無理はなかった。閑古鳥が鳴いているとは正にこのことだと感じるぐらいに人がいない。かといって、採算が取れているのか訊くのは気が引ける。


「あはは、静かで食いやすいでしょ」

 

 そんな俺の考えを察したのか、店主は自嘲した。知らぬ間に顔に出ていたのかもしれない。ええ、そうですねと肯定するのも何か違う気がして俺は押し黙ることしかできない。少しばかし気まずい沈黙が続き、堪らなくなって俺は切り出した。


「どうして、このお店をやろうと思ったんですか?」


「うーん、そうだな。なかなか答えにくいことを質問してくれるね、君は」


 店長は逡巡した様子を見せるが、やはり彼は微笑んだ。


「自分がおかしくならないようにするため、かな」


 予想とは全く異なる答えが返ってきた。人を笑顔にするためとか金のためといった,言ってしまえば在り来たりな回答ではなく。どういう訳か、その笑みは含みがあったような気がした。


「停戦中とはいえ、戦争は戦争だろう? ここら辺は物資にそこまで困らない代わりに人が皆生きてない。ただ死んでいないだけといった感じさ。いつ徴兵されるかも分からないし、明日突然空から爆弾が降ってくるかもしれん。そんな恐怖の中、人は生き延びようとする。そりゃ気だって触れちまう。錆びた玩具おもちゃのネジを無理やり回して動かそうたって上手くいくはずねぇ。それには潤滑油がいる。人にとってのそれは人間同士の交流だね。所詮、社会的動物は社会の中でしかまともに生きられない」


 店長は野菜を切り終えた後、鍋に具材を入れて水を張った。その水は震えて波紋を作り出していた。


「それなら、もっと外装も派手にして客引きをすればいいのでは――」


 人とのコミュニケーションが目的だというのなら、あの地味な外装では全く目標が達成できていないように思えてならない。


「ははは……あのね、旅人さん。何事にも限度ってものがあるんだよ。油は多すぎても余計な負荷がかかってしまうし、最悪変なところに油が入って故障してしまう。だから俺にはこれぐらいが丁度いいんだ。こんな所に来てくれる君みたいな物好きなお客さんだけでね」


 店長はそう言いながらレードルで鍋の中身を掻き混ぜて、別の口で炒めていた肉を投入する。そこから火を強めて煮立たせていく。ここまでの一連の流れを俺と会話しながら非常に手際よく彼はこなしている。素人の俺が言うのもあれだが、料理人としての腕は相当なものだろう。程無くして煮汁が沸き、この料理の肝となる油粉捏カレールウをそこに加えた。油粉捏は動物性の脂に小麦粉とカレー色の元となるターメリックや、香りの王様であるカルダモンなどの各種スパイスを合わせたカレー粉を加熱しながら練るようにして混ぜるとできる。香りの爆発とでも表現すればいいだろうか。厨房から漂う馥郁ふくいくたる香りが摂食中枢を刺激してくる。そして、カレー発祥の地で作られているという米という穀物を塩茹でにし、水気を切ってからカレー汁を掛けることで完成する。米はジソウを作った時に訪れた極東の国で見たものよりかは一粒一粒が幾分長細かった。


「お待ちどおさま。出来立てのカレーだよ」


 カレーがよそられた皿が俺の前へ静かに置かれる。賄いとして作られたためか、具材が大きめに切られ食べ応えがありそうだ。一緒に付けられたスプーンで一口分だけ口に運ぶ。


「熱っ!」


 あまりに美味しそうなので息も吹きかけずに食べてしまったことが災いし、口の中をちょっと火傷してしまった。それでも味と鼻から抜けていく芳香は予想を越えて俺を満足させるものだった。汁は辛めに味付けられているがその奥にほんのりと優しい甘さを感じた。それによって味に立体感を齎し、深いコクを生み出している。けれど入れすぎては逆にカレー本来の旨味を破壊してしまう。この丁度いい塩梅で入れられた隠し味は見事に作用していた。


「これは、砂糖……」


「よく気づいたね。そう、隠し味にちょっぴり入れさせてもらったよ」


 俺は動揺を隠せなかった。何故なら砂糖は軍人が手軽に栄養補給できる栄養食の材料として使われるため、一般人からすれば貴重品の部類に入るはずだからだ。それほど高価なものを素性も不明な旅人の俺のために使ってくれた。されど店長は案ずるなと言わんばかりに首を横に振りながら優しく広角を上げるだけだった。


 昼食代としてはやや多めの額を渡されたため、支払いには全く困らなかった。それどころか、店長は明らかに相場より安い値段を提示してきたのでこちらが値上げを申し出るくらいだった。流石にあれほどの物を頂いておきながらどんなに高く見積もってもほぼ利益が出ないような値段では申し訳が立たなくなってしまう。なんとか値上げ交渉を成功させて――それでも砂糖が使われていると思えば相当安いが――俺は店を後にした。


 それからどこにも立ち寄ることなくホテルの自室に戻り、ベッドに腰掛けた。壁に掛けられている時計を一瞥して、もうすぐ予定の時間が迫っていることを確認した。


 旅生活が長いため、腕時計の類は持っていない。日が出る時間に勝手に目が覚めて、日が沈めば自然と床に就く。時計が無い方が人間規則正しく生きられるという話もあるし、何より時間に囚われるような生活は昔から性に合っていなかった。とはいえ、こと商談においては時間にルーズであることは御法度だ。扱う品物によっては一分一秒を争うような世界だ。こちらが客であるならまだしも、今回はあちらが金を払ってくれるお客様なのだ。


 万全の準備をしてはいるが、最後にもう一度商品の確認をとスーツケースに手を伸ばしたその時、扉が三度叩かれた。

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