気づき、気づいて、傷ついて。

 荒くなる呼吸に付随して体が上下に揺れていた。今しがた歩いていたばかりなのに肺から空気が逃げていく。視界は揺らぎ、傾き、ブレている。木を挟んで対峙する巨牙猪ファングは別の要因で鼻息を荒くしていた。その目に映るのは煮えたぎるような憎悪と狂気。それとは対象的に私の意識は寒空のごとく落ち着いていた。激情的になっている他者を見ると、興が冷めたかのように自分を俯瞰できるのだ。それでもまだ逃げる選択肢は出ない。背中を見せたら負けというこの状況にはうってつけではあるが、我ながら呆れた闘争本能だと思う。体中の筋肉という筋肉が戦端が開かれる時を今か今かと待っている。


 先に動いたのは猪の方であった。彼我の距離は一瞬にして縮められ、こちら目掛けて自慢の牙を突き刺さんとしていた。ぎりぎりまで引き付けておいてから最小限のステップで横に避ける。猪はそのまま私の横を通り過ぎた後に脚でブレーキを掛け、綺麗にターンして見せる。今考えればこんなやつ真の実力を以てすれば倒せると思っていたのが間違いだった。妙な戦いの高揚感から相手の技量を見誤ってしまうなんて、なんという失態だ。この時は逃げなければという思考が頭の片隅にはあったが、それが全面的に脳を支配するためには何らかのトリガーが必要だった。そう、トリガーが。


 緊張と緊張の合間、ほんの少しの隙間だったと思う。たったそれだけの気の緩みに付け入るように飛び込んできた巨牙猪に反応できなかった。試行回数を増やすということはそれだけ可能性を増やすということにもなる。こうなることは予想がついたはずなのに、どうして。凄まじい衝撃によって私の体は弧を描くようにして飛翔し、やがて雪と接触して止まる。ぶつかったはずの部分の感覚が曖昧になり、ただ温かさを感じるのみ。それが血だと気づくまでには時間は掛からなかった。どろどろと流れ出していくのは、自分自身の生そのものだった。何度もこうやって傷ついている者たちの姿は見てきたが、自分の番がようやく回ってきたようだ。遅かれ早かれ、自然界に生きる生き物は似たような死に様を晒すのだ。今更足掻いたところでどうしようもない。あいつに食われるのを待とうと思った。


 雪にせったまま死を待つ私の耳は猪の背後から聞こえる雑音を捉えた。多少の乱れはあるが一定のリズムを保ったまま、何かが通り過ぎていこうとしていた。どういう訳か、私はその音に釣られてしまった。体をゆっくりと起こして、自分で驚くぐらいに足が自然と動いた。予備動作がほぼ無い私の動きに猪は反応が遅れる。その間に私はその音へと駆けた。ちょうど真正面への無謀な突貫に思えるかもしれないが、私の体は酷く理性的に動いている。虚を突かれたまま、立ち尽くしている猪にお見舞いしてやるのだ、至高の一撃を。


 スピードを殺さずに飛びかかるようにして、ご自慢の牙に向かってこちらの歯を突き立てる。牙の主は思い出したかのように動き出すが、時すでに遅しだ。突撃の勢いのままに思い切り力を掛けていく。口の中に鉄の匂いが広がるが、瑣末事さまつじだった。そんなもの気にならないくらい私の意識は研ぎ澄まされていたのだ。当然のように腹の痛みなども消し飛んでいた。


 本当ならば一目散に音の方へと向かうべきだが、当時の私にはそれ以上に一矢向いてやるという気持ちが優先されてしまったのだ。振り回されながらも必死に喰らいついていく。歯がぎちぎちと嫌な音を立て始めるがそれも気にしない。


 決死の噛み付きが功を奏したのか、あれほどまでに巨大だった牙が半ば当たりから折れて地面に落ちた。一度ひびが入ってからは、それまでの硬さが嘘のように呆気なく崩壊していくばかりだった。私はそれを横目に見ながら駆けることをやめなかった。これが今の自分にできる精一杯の反撃だと悟っていたからだ。欲張ればそれ即ち死だということも流石に理解していた。


 戦闘の興奮が落ち着いて来ると同時に痛みがぶり返してくる。奴から貰った傷は想定以上に私の体を蝕んでいた。血が滴る度に自分の命が削れていく、そんな印象を受けた。急いで向かわなくては行けないと思い、脚に力を込める。私はこの時今までに見たどんな生き物よりも速く動いていると感じていた。無論、あの巨牙猪よりも。流れ出る汗すらも置いていくぐらいに。


 いつまで立っても音は一向に近づいてこない。そしてどうしてこんなにも息苦しいんだろう。森がいつも以上に広く感じる。雪を踏みつける足取りは軽いようで重い。対照的に奴の足音は近づいてくる。猛烈な速度で、小さい木々なんかは薙ぎ倒しながら、鬼気迫る勢いで。かすりでもしたら全てが終わりだ。


 やがて視界の先にある木々が減っていく。これまで音の鳴る方へと直向きに走ってきたが遂にその正体が目に見える所まで来ることができた。白銀の世界を掻き分けるようにして進むその威容に私は今置かれている状況も忘れて見入ってしまった。


 ◆


 都市部の喧騒はいつまでも慣れない。人工的な音が鳥のさえずりなど簡単に消してしまう。つくづく居心地の悪いよどみきった空気が俺の肺を埋めている。外であるというのに閉塞感を禁じ得ない。こんなところ、出来ることなら早く抜け出してしまいたかった。石畳の上を歩きながらそう思った。


 会談の時間まではかなり余裕があるので、ゆっくりと店を選ぶことができそうだった。どころかそれでも近場の方が何かとありがたいので、ホテル周りを散策することにした。洒落た装飾がガラス張りの壁から伺えるカフェや明らかに一般市民は客層として考えていない高級感溢れるレストランなど目を引くものは多々あった。しかしながら、どの店もそそられるような魅力は無かった。


 丁度そのような店同士の合間、それでいて窮屈そうというよりかは堂々とした立ち振る舞いを感じる建物があった。年季のある煉瓦造りの建物はおおよそ空き家のようにも見えなくないが、唯一設けられている扉にある看板に印字された『定食屋:営業中』の文字が、辛うじて飲食できるところだと示していた。更に他とは一線を画すようなスパイスの効いた香りが扉の先から漏れ出ている。迷わず俺はその扉を開けた。


 中は外観以上に無骨で、人の気配もほとんど無いことも相俟あいまって本当に先ほどまでいた都会なのかと疑ってしまうほどだった。もしかしたらあの扉は異世界に繋がっていたのかもしれないなんて考えてしまうくらいの世間離れした光景。窓も必要最低限しかなく、それでもいて照明らしきものも見当たらない。自然光が浮かび上がらせるのはこれまたこじんまりとしたカウンター席と申し訳程度のテーブル席。宴会はおろか、数人で訪れるのも場合によってははばかられるだろう。儲けを出す意欲があまりにも感じられない雰囲気が俺には心地良かった。


 厨房の奥から出てきたのは、好々爺然とした白髪の良く似合う店主だった。前掛けエプロンを着用してにこにこした顔でこちらへと歩いてくる。仏頂面で寡黙な人を想像していたので、僅かながら面食らってしまった。


「こちらへどうぞ」


 優しく彼は手でカウンター席を指し示した。その所作一つ一つが丁寧で飾り気のない気品を感じさせた。彼の動きに感化されて俺もゆっくりと椅子を引き、そっと席に着く。一枚板でできたウッドテーブルは手触りからして上質であった。美しい木目が店内全体に彩りをそっと与えている。決して力強く主張するのではなく、ただそこに佇むだけで部屋と均衡を取っている。


「さて、旅人さん。一体何か食べたいものはあるかい」


 メニュー表らしきものも一切渡されぬまま、店主から注文を訊かれた。人のいい笑顔を浮かべたままの彼は頬杖を突きながらこちらの答えを待っている。俺はこの店に入ったきっかけを思い出した。


「ええっと、ずっと後ろから香っている料理が気になりまして……」


 彼は一旦俺の答えにきょとんとした後にまた破顔した。


「ああ、それはきっと『カレー』だね。賄いように作っておいたんだけどそれでもいいの?」


 カレー。古くは東の遠い地域発祥の香辛料を混ぜ合わせて作られる料理の一つ。肉や野菜など様々なものと一緒に煮込むことで旨味を出し深いコクを作りだす。貿易を通じてこちらの国々まで伝わり今では数えきれないほどのアレンジや派生があり、家庭料理の定番にもなっている。という知識はあるものの。その実食べたことはあまり無い。この放浪生活でそんな贅沢な調理法ができるほどスパイスは手に入らないし、家族と生活していた頃もそれほど裕福な家庭では無かったので滅多に食べる機会に恵まれなかったのだ。


 だからこそ、俺の返事は決まっていた。

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