出逢いと出会い

 気づけば真っ暗な世界に私はいた。ここは一体どこなのだ? そもそも体全体が何かに包まれていて動かしにくいし、変な臭いもする。それを自覚した途端、臭いはどんどんと強くなりやがてそれは不快へと変貌した。状況が飲み込めずにいると、今度は空間全体が何やら動き出した。生命の危機を感じて必死に藻掻いてみる。前脚を使って自分を覆う闇を掻き出しながら上へ上へと昇る。そのうちに淡い光が漏れ出している場所を見つけて、そこを目掛けて一直線に進んでいく。


 頭が出た先に見えた景色は今までの私の記憶には無いものばかりで埋め尽くされていた。石を積み上げたかのような高い建物が幾つも連なり、人間どもがそれらの隙間を縫うようにして忙しなく行き来していたのだ。頼りない細い木の先端には火が灯っているが、どういうわけか燃え広がる気配は無い。そもそもこれらの風景がとんでもない速度で後ろに流れているのだ。


 下を見遣るとそこには大量のクズ野菜や卵の殻など色んなゴミで溢れかえっている。中にはまだ食べられそうな肉などもあり、人間の醜悪さを体現したかのようなこの腐海にますます不快感を募らせる羽目になった。やがて私ごと動いていたゴミの塊は止まった。これ幸いとばかりに身を乗り出して地上へと降り立つ。人々はこちらを一瞥したかと思うとすぐに視線をずらして、各々が別方向へと歩みを進めていく。振り返るとそこには巨大な鋼鉄の塊が鎮座していた。あいつが操るものよりかは小さいが、それでも今までこの巨体に乗っていたと思うと僅かばかしの恐怖を感じた。そして鋼鉄の塊から降りたのは私だけではなかった。妙に清潔感の強調された浅葱色あさぎいろの服を着た男が、それとは対象的にやつれた顔をしながら出てきた。こちらの存在に気づくや否や、眉を顰めて舌打ちをした。


「ったく、何だよ。薄汚ねぇ野良犬風情が。そんな顔したって、てめえなんかにやる残飯はねえっての」


 何を言っているかは分からないが、それでも何となくのニュアンスを感じ取ることはできた。野生の勘というやつだろうか。いつしか人間がこちらへ抱く嫌悪感に敏感になってしまったのだ。男は目いっぱいにゴミが詰められた袋を先程まで私がいたところに投げるという作業を繰り返し始めた。


 人間様というのはいつもそうだ。己のことばかりを考えているくせに、我々の領域にもずかずか土足で踏み入ってくる。だからこそ、こちらも人間から奪えるものはすべて奪ってきたし、仲間を守るためだったら危害を加えることだって厭わなかった。いつだって、人間は私の敵だったのだ。そう、あの猪に襲われた夜までは。


 ◆


 存分に水煙草を楽しんだ後は簡単にシャワーだけを浴びて、床に就くことにした。ただでさえ疲れやすい旅先の初日に様々なことが重なり、自分でも気が付かぬうちに限界を迎えてしまったようだ。


 就寝の準備を整えてベッドに倒れ込むがどうにも落ち着かない。いつもあるはずの『何か』が足りず、不安が沸々と内側から込み上げてくる。わずかに逡巡し、ふと脳裏に浮かんだのは冬狼スプルだった。何時しか当たり前になっていたあいつの存在の大きさに気づく。流石に仕事にまで随伴させるわけにも行かないからと勝手に置いて来てしまったが、本当に良かったのだろうか。今頃は目が覚めて俺を探しているかもしれないし、もしかしたら――色んな可能性を思案してはきっと大丈夫だという根拠の無い自信で不安の溝を埋めるしかなかった。布団に包まる俺は隣に空いた一匹分のスペース以上の空虚に苛まれて、眠れぬままだった。


 あの大雪の日、俺はスプルのために命を賭けた。でも、俺と出会ってなければそもそもあんな傷を負うことだってなかったのだ。あいつ自身、俺のことをどう思っているか分からない節があり、それだけにこちらが一方的に仲間だと思っていないか心配なのだ。もしかしたら餌を与えてくれる以上の価値を俺に感じていない、もしくは求めていないのかもしれない。それがたまらなく怖かった。そう考え始めると、あのとき俺を助けたのも打算的な思惑があったのではないかと自問してしまう。そんなことはない、と声高らかに言いたいが否定しきれない自分がいるのもまた事実。そして何より、仲間だ仲間だ、と何度も言いながらその仲間を完全には信じられていない自分自身が情けない。ああ、今夜は寝付けなさそうだ。


 ◆


 あの日、私たちはいつも通り狩りに勤しんでいた。一匹ずつそれぞれに決まった役職があり、各自がしっかりと役割を全うすることで成功率を高めている。当時の私はそのグループの中でも年長ということもあって敵の注意を引き付けるおとりだった。当然群を抜いて危険な役で、まず真っ先にやられるのはこの囮だ。


 まだ慣れていない若輩たちに方法を教えるという名目で、棲家からそう遠くない森にて今回の狩りは行われた。それ故に安心もとい油断していた。どうせ野兎か、出たとしてもせいぜい狐ぐらいだろう、と。


 皆で隊列を組んで周囲を隈なく見張りながら歩く。しかしその足取りはどこか悪い意味で軽く、全体的に弛緩した空気が漂っている。結局のところ、見張りは振りだけで何ら実用的な効果など齎していなかったように思う。今にもじゃれだしそうな雰囲気の中で、矢庭やにわに『それ』は現れた。先頭を歩く私の耳に甲高い声が入った頃には仲間の体は宙を舞い、颶風ぐふうが駆け抜けていた。実際に私が見たのは木に叩きつけられて動かなくなっている仲間、いや仲間だったものだ。背筋から発せられた危険信号は、尻尾にまで到達してびりびりと私を震えさせる。ただならぬ覇気を纏った巨牙猪ファングだった。


 どうしてこんな我々の棲まう場所近くにこいつはいたのか。その答えは高速回転する頭脳の中で自ずと導かれていた。


(昨日攫った子猪の親か……!)


 仲間たちと共に親猪がいない隙を狙って、巣に入り込んでいたことを思い出した。子猪が想像以上に抵抗して手こずったものだから、そこら中が毛まみれになっていたはずだ。親も誰が犯人かはすぐに分かっただろう。あとは足跡なんかを辿ってここまで来た、といったところだろうか。子を喪った親の怒りは計り知れないものだ。自分の命すら平気で投げうって捨て身の一撃を繰り出す。たとえ刺し違えてでも子の弔い合戦をする。故に手強い上にしぶといのだ。恐怖などのあらゆる本能が怒りという理性によって塗り潰されてしまう。たがなんてものはそこにはない。


 雄叫びを上げてこちらへと猛突進する巨牙猪に仲間の体は成すすべなく吹き飛ばされていく。一人、また一人と吹き飛ばされて最終的には私独りになってしまった。返り討ちにするどころか、逃げることすらままならなかったのだ。確実に全員の息の根を止めてやるという意志をその血走った目から感じた。正しく一騎打ち。私はいつもの癖で一度舌なめずりをして気持ちを落ち着かせる。張り詰めた空気は今にも途切れそうだった。


 ◆


 次の日はうまく眠れなかったので、目覚めも良いものではなかった。寝不足のせいか、脳を真綿で締められているような頭痛すらしてくる。それでも俺は洗面所に向かって顔を洗うことにした。適度に冷やされた水が俺の顔に当たり、様々な汚れを落としてくれる。心にこびりついた汚れも何もかも。


 飯は普段からそんなに調達できないこともあり、互いに二、三日は抜きになることも茶飯事だったのでそこまで心配していない。ただその後の食い意地には目を張るものがあるのが怖いだけで。ただ気がかりなのはスプルが大人しく戦車の中に留まっているかだ。あいつに限ってそんなことはないだろうという謎の確信が俺の中にはあった。あいつらなら俺だけがうまい飯にありつくことをよしとせず、俺の居場所をご自慢の鼻を以てして全力で探そうとするだろう。


 そこだけ見れば美しき主従関係と言えるかもしれないが、生憎俺たちはそんなもの持ち合わせていないのだ。そう考えると真剣にあいつのことを心配するのもちょっと馬鹿らしくなってしまうような気がした。それでもとっとと用事を済ませて早く戦車に戻ろうと心に決めた。詰めるところはまだあるものの、それほど長い時間はかからないだろうと踏んでいる。それに、あのような暗殺未遂があった国に長居したくないというのも本音だった。頑なにこのホテルで会談させようとするのも引っかかる。


 朝食がトレーに載せられて運ばれてくる予定だったが、やはりあの件のせいでこちらからお断りする形となった。毒をいちいち調べるのも面倒であったし、外食をすればいい話だ。ロビーで幾らかの資金を受け取り、俺は街へと繰り出した。

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