湯殿に溶けゆく心と体
風呂。それは人類が生み出した叡智の結晶であり、最高のリラクゼーションの一つ。摂氏四十度強に温めた湯が張られただけの空間が何故そこまでの快楽を生み出すのか、俺は今日までの十九年間でその答えを見つけることができていない。ただ分かるのはそういった悩みまでも溶かしてしまうほどの魔力が風呂にはあるということだ。
狩人の小屋に招かれて十数分が経過したころ、俺は既に風呂が温まっているという彼女の言葉に驚いていた。湯を沸かすような行動はこの小屋に来てから一回も見られなかったし、増してや予め沸かしていたとも考えづらかったからだ。確かに都市によっては温水を出す装置なるものが発達しているらしいが、ここはそんな便利なものは無いはず。あくまで手動で火を起こしてその維持にも努めなければならない。つまりこれから湯を沸かすものだとばかり思っていたのだ。
「炉の裏を見てみろ」
彼女は少し声のトーンを高くしながらそう話した。言われた通りに裏を見てみると壁まで別の筒が伸びているのが分かった。金属製なのは煙突と変わらないが、幾分か細い。
「それは熱が伝わる通路だ。中に古代文字で『火』を伝えろという指示が書き込まれている。炉内の熱がそこから移動して奥にある貯水槽にまで繋がって熱を届けているのだ。あとは浴室の中にあるレバーを引けばお湯が出る仕組みだ」
「古代文字は独学で学んだのか」
「ああ、生活に使える手頃なものをいくつか覚えている」
錬金術を習得する上で絶対に外せない古代文字は四大元素を人間の意思で動かすために開発された画期的な発明であった。試行錯誤を繰り返すことで、如何に少ない文字数で効率よくエネルギーを伝えることができるかが今も研究されている。俺のような錬金術師だけではなく、一般の人にも基礎的な古代文字は広く普及しているのだ。とはいえ、自分で使いこなすにはそれ相応の学習が必要となり、使い方を間違えれば大変危険な代物だ。だからこそ錬金術師アカデミーなどの高等教育機関の存在もあるが、入学も進級も古代文字の基礎の比にならない難易度だ。――それこそ、とんでもない才能でもない限りは。そこまで思い出して俺は嫌な記憶が蘇り、頭を振った。
再度彼女に礼を言って、浴室の隣に設けられているという脱衣室の扉を開ける。室内が暑くて既に脱いで手に掛けていたコートを畳んで脱衣籠に入れる。続いて中に着込んでいた服たちを入れて素っ裸になる。その時、ポケットから真鍮製のロケットペンダントが落ちて開き、中に入っている写真が目に入る。暫く見つめた後に、俺は脱衣籠の服と服の間へとそれを入れた。
素肌を通して感じる空気というのはまた別格だ。その空間で裸になるということは即ち丸腰になるということであり、信頼していることの証拠である。こちらを襲う隙など今までにも沢山あったが、いずれもそのような素振りを見せなかった。油断させている可能性も捨てきれないが、連れの命を助けてくれた恩もあるので疑いの目をいつまでも向けることは良心が
更に摺りガラス窓のついた浴室への扉を開けると、陽の光を取り込む大きな窓がまず目に入った。木の匂いは一層濃くなり、円形の浴槽が部屋の半分近くを占めている。壁に備え付けられているランプは一切の光を灯すことなく、自然光だけの優しさが漂っていた。
やすりで丁寧に磨かれたレバーを引いてみると蛇口から一気にお湯が流れ出した。陽光に照らされて黄金と見紛うばかりの液体が浴槽に注がれていく。試しに指先で触れてみると、俺の好みである少し熱いと感じるぐらいの温度。正直、溜まりきるのが待ちきれないがここは正念場だ。我ながら大人げなく興奮しているが、空腹が一番のスパイスというように人間は抑圧された欲に勝てない。
湯がいい感じに溜まったのを確認してから俺はレバーを元の位置に戻した。これでいざ入浴、という訳にもいかない。しっかりとここでこの湯を使って体を清めるのだ。床に置かれていた桶を手に取って輝くスープを
満を持して準備が整った俺はその一歩を踏み出した。これから俺はこの湯と一体化することになるのだ。寒さとは別の震えが起こり、期待が最高潮に達しているのを身をもって感じた。
「あ」
声が漏れるのを止めることすら出来なかった。その一言にどれだけの意思が込められていたのかを自分のことながら俺は推し量れなかった。これまでの日々が凝縮されて湯に触れている指先から零れていくようだった。体だけでなく心まで
「おーい、ここに着替え置いておくからな。あと洗ってもいいか、この服?」
ドア越しに響く彼女の声に俺は間の抜けた声で、頼むとしか返事できなかった。しかし、今の俺はそれも仕方ないと自分に言い訳してしまう状態になっていた。
「
彼女のガラス越しの影が消えていくのを見送りながら、俺は再び湯に意識を戻すのだった。これ以上体温は上がらないと思っていたが、どうやらまだ余地があったらしい。
◆
至福のひとときを過ごせた俺は、湯冷めする前に彼女の用意してくれた服に着替える。バスタオルを縫い合わせて作られた手製のバスローブだった。恍惚とした気分で居間への扉を開けて、身に余るもてなしに感謝してもしきれないと伝えようとした矢先のこと。俺の視線はある一点に釘付けになってしまっていた。自分の家でもないのに偉そうに尻尾を自分の体に巻き付けながら寝ている一匹の獣がそこにはいた。白い毛並みに凛々しい目つき、そしてその
「スプル、お前どうやってここまで来た?」
「お前の衣服を洗うために外に出ていた時にな、遠くから走ってきたんだ。外に置いておくのもあれだから、中に入れたがなにか不味かったか」
「いや、そういう訳ではないんだが……」
スプルの代わりに女狩人がこれまでの経緯を話してくれたのだが、俺の疑問は解消されないままでいた。まず傷が開いたりしていないか心配だったが、
「別にお前を置いていった訳ではないし、ちゃんと飯も作ってやるつもりだったぞ」
スプルはそっぽを向いて、そこから動こうとしない。不機嫌なように見えるが、そんなに飯が待ちきれなかったのだろうか。そんな食いしん坊では無かった気もするが、別にここから一緒に帰ればいい。いくつか食べ頃な干し肉のストックができているので、ちょうど消費したかったのだ。もしスプルが居残ろうとしたならば抱きかかえてでも戦車に帰る決意を固めて、扉を開けた。
飛び込んできたのは絶対的な寒冷。比喩ではなく、文字通り身の毛がよだつ感覚があった。春に差し掛かっているとはいえ、まだまだ雪解けには早いこの頃である。それに加えて既に日は落ち、お馴染みの放射冷却が猛威を振るっていた。雪は降っていないものの、冷たく乾いた風が鋭く俺の肌を刺してくる。俺にできるのは歩み出すことではなく、一歩引いてから扉を閉めることだった。
「そんな恰好で外に出るつもりか。そして、まだお前の服は乾いていない」
子供を
「な、何か手伝うことはあるか?」
気恥ずかしくなった俺にとっては、その言葉を喉から捻り出すのが限界だった。そして彼女からは火の番をするよう命じられた。スプルは相変わらず食う専門として睡眠に徹し、英気を養っていた。何とも殊勝な心掛けである。
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