極寒の白眩み
「え……」
眼前に倒れているのは間違いなく二匹の獣だった。最後の力を絞り切って果てている
(こいつを、見捨てる……?)
現実的で最善で残酷な選択肢だ。百人いれば百人が選ぶであろう当たり前の結論でもあるのだろう。俺自身もこんな寒空の下で誰にも看取られずに朽ちたくはない。けれど。
(そんなことできるかよ)
寒さで意識が飛びかけようとも、吹雪の強さが増してきてもそれは変わらない。忘れかけていた『情』という物を呼び起こさせてくれたのはスプルだった。特別長い時間を共にした訳ではないにしろ、間違いなくそこには絆が生まれていたのだ。互いに助け合いながら命を賭けて狩猟してきた。はいそうですかさようなら、で忘れられるほど浅い日々でもなかった。俺はゆっくりとスプルの体を持ち上げて、随分と重くなった鎧と抱えている重さを感じながら歩み始めた。
揺れ動く視界の中で記憶だけを頼りに森を進んでいく。辛うじて残っていた足跡は雪で潰されて消えてしまっていた。予想以上の大熊の善戦に加えて、スプルの負傷。あの時、何かが違っていればスプルはこうならなかったかもしれないと思うと胸が締め付けられる。道中、指の隙間から滴り落ちていく血を見て、慌てて手の位置を変えることが何度もあった。命が零れていくような気がして、たまらなくなる。自分の罪がはっきりと視覚的に立ち現れて、何よりも重く重く俺の心に突き刺さっていく。
いっそのこと、このまま横になって眠ってしまおうかと考えたりもした。見捨てるのではなく共に死ぬのも悪くないと。しかしその案は本能と理性の両方が否定したのだ。本能は生存しろと俺に語り掛け、理性は今までのスプルや家族との記憶を思い出せと言ってきた。でも本心は違う。心の奥底に在る『
吹雪が一瞬止んで視界が確保されたと思ったら全速力で駆けて、また白眩みが来たら立ち止まるを繰り返していく。終わりが見えない帰り道は永遠のようだった。進めば進むほど遠のくような錯覚に襲われそうになるも、ちらっと視界の先に見えたものを俺は見逃さなかった。不格好で図体だけはでかいポンコツ、紛うことなき俺の戦車だった。全身から活力が沸き上がってきた。あれだけ雪に押しつぶされかけていた心が刹那にして蘇った。目を下にやるとスプルが浅い呼吸をしている。取り返しのつかないことになると思い、急いで戦車に近づいていく。片手でスプルのぐったりとした体を支えながら、もう片方の手で戦車をよじ登っていく。ハッチを開けて、ようやく雪地獄からの生還を果たすことに成功した。
しかしながら、それを喜んでいる暇はない。取り敢えずベッドにスプルを寝かせて、俺は戦車の中を探し回った。どこかに行商人に押し売りされた救急セットがあったはずだ。簡易的な治療は施せるはずだ。
(簡易的な治療…………? 待てよ)
そこまで考えて、俺は足を止めてしまった。では本格的な治療は一体だれがやるのかという疑問が沸き上がったからだ。自然治癒に任せてよいのか、そしてどれぐらいで何を証拠に治ったといえるのか、一般常識的な医学の知識しか持ち合わせていない俺には判断できないだろう。それでも今は優先しなくてはならないのは探し物を見つけることだ、と考えを改める。
埃を被った救急セットが部屋の隅に無造作に置かれていた。蓋を開けてみると包帯やら用途の分からない塗り薬やらが詰め込まれていた。一度も開けたことが無いので、どのようなものが入っているのかも初めて知ったほどだが、汚れた様子も無いのでそのまま使うことにした。
スプルは低くか細い唸りを上げて、体は小刻みに震えている。ベッドに腹から流れ出る血が滲んでいるが、知ったことではない。俺はテトラロニアをその辺に脱ぎ捨てて、急ぎベッドの方へと駆け寄った。まずはスプルの口に包帯を巻いて、興奮状態のスプルが何かに噛みつくことを防ぐ。強くしすぎないように気を付けながら包帯で作った輪を前から通し、顎の下で交差させてから後頭部に持っていき縛っていく。次にアルコールで消毒したガーゼを当てて圧迫止血をする。ビクンと体が跳ねるが、幸いスプルはそれ以上藻掻くことはなく大人しくしている。
「いい子だ。もう少し耐えてくれよ……」
スプルに言い聞かせる為なのか、はたまた自分の願いなのか。どちらとも取れる言葉を零しながら俺は処置を続けた。妙に軽く感じるスプルの体を持ち上げながら、丁寧に伸縮包帯を巻き付ける。浅い呼吸を繰り返す冬狼は初めて出会った時よりも弱弱しかった。最後に腰の上で余った包帯を縛って一応は完了だ。少し巻きつけ過ぎたような気もしなくもないが、安心したように目を閉じているスプルの姿を見る限り大丈夫そうだ。
とはいっても、これはあくまで応急処置に過ぎない。スプルの自然治癒に任せてもよいが、満足に食料もないこの環境では心許ない。かといって、獣医などがそう都合よく見つかる様な場所でもない。停戦中の国家間に設けられた緩衝地帯に位置するこの森には誰も住み着いていないだろう。
風が強くなり、装甲の薄い戦車を容赦なく叩いてくる。雨風を最低限凌げるとはいえ、熱をそのまま通してくるこのオンボロは頼りなく揺れる。戦車を走らせようとも思ったが、下手に動いて進路を見失いたくない。一応この方向に進めば国に辿り着くはずなのだ、少なくも地図の上では。それでも距離はまだまだあり、この戦車の全力をもってしても数日はかかる計算になってしまう。
本来は冬狼など拾う予定はなかった。食料だって少ないながら持つはずだった。けれどスプルと共に生活するようになってからは狩りをしなければ食い繋げないほどになってしまった。奴は恣意的でせっかく別の寝床を用意したのに俺のベッドに潜り込んでくるし、作りかけの飯を勝手に持って行ってしまったりする。不便で、快適とはとても呼べないような生活だ。そしてそんな生活を俺はどこか楽しんでいることに気づいた。
あいつのせいで死にかけて、あいつのおかげで生きようと思えた。
気づけば俺を睡魔が襲っていた。大熊との闘いや吹雪の中の帰宅を経て、身も心も使い果たしてしまったのかもしれない。明日のことは明日考えよう、自分にしては珍しく随分と暢気な考えが頭に浮かぶぐらいには。俺はベッドに頭だけを預けて突っ伏すようにして俺は眠りについた。
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