第2話恐怖で慄く系男子


教室を出て、急いで一番近くのトイレに向かう。


一番近くのトイレは旧校舎地帯に面している、とは言え水回りは比較的新しめに改装されているので…


「扉こそボロっちい木製なのに開けた先は綺麗なトイレ…いつ見てもチグハグだよな」


木造の軋む扉を開くが、太陽も沈みかけで日が入らず、トイレの中は真っ暗、さすがに暗いので壁伝いに電気のスイッチを探す。

にしてもこの時間帯の学校のトイレってやっぱり気味が悪いな…


電気をつけると、そこそこ古めかしい小便器が数台と3つ横並びで個室の扉がはっきりと視認できた。


夏のジメッとした湿気と相反し、トイレはひんやりとした空気が漂っている。


切り拓いて整地したらしい山の斜面側である東校舎の一階奥のトイレなだけあって、兎に角日が入りにくい。

夕暮れ時ともなると、電気無しではそりゃもう一寸先はなんとやらである。


「あれ、個室が全部閉まってる…?」


この雰囲気がちょっと苦手だったのでちゃんと覚えている訳ではないが、ここのトイレは確か内側から鍵をかけない限り扉は開きっぱなしになる構造だった気がするんだけど。


…さっさと用を済ませて帰るか。


虫の知らせ、というやつだったのだろうか。

何か嫌な予感が頭をよぎった、その瞬間───



『赤い紙と青い紙、どちらがいい?』



かすれた老人のような声が、電気をつけてもなお薄暗い男子トイレに重く響き渡る。


窓なんて開いてないのに、うすら寒い風が背中を駆け巡ったような気がした。

何故か心底冷えきり鳥肌が全身を走り抜け、さっきまで覚えていた筈の尿意も吹っ飛ぶ。


全身の筋肉が隈無く強張って両足が子鹿のように震える。さっきまで丁度いいと感じていた筈の気温は肌寒さを感じるほどに冷え切っているように感じた。


震える足をぎゅっと抑え、力がうまく入らずに震える声で尋ねる。


「イ、イタズラ…?」

『赤い紙と青い紙、どちらがいい?』


背筋が凍る感覚と段々速く煩くなる心音、よく分からない迫力で呼吸が詰まって息苦しい、これで悪戯だったら役者は天才だ。


っっッ〜!勘弁してくれ…


情けないことに恐怖で情緒がおかしくなって涙が出そうだ。


『赤い紙と青い紙、どちらがいい?』


壊れたラジオの様に質問が繰り返される、その度に俺の心臓はどんどん跳ね上がっていく。


聞こえるのは荒い息づかいに反して感情のかの字も感じさせない年老いた声色。


ガラリと空気が変わった。

重苦しい空気感、生まれて初めて重圧感というかプレッシャーというものを感じた気がする。


『赤い紙と青い紙、どちらがいい?』


信じられないけど多分…これはこの学校の七不思議のひとつ、赤紙青紙ってやつじゃないだろうか。


どこのトイレに出るのかは忘れてたが男子トイレに現れる化け物で赤い紙と青い紙のどちらかを選ぶように迫ってくる、でもどちらを選んでもろくな目に遭わないし、どちらも選ばなくても同じくひどい目にあわされるという。


そういう話を怖い話好きのやつがクラスで吹聴して回っているのを聞き耳立てて聞いたが、どっちを選んでも死ぬらしい。


解決法も対処法も聞いたことがないって言ってたな、使えねえなアイツと現実逃避しようとしてみるが……ダメだ普通に怖い、無理だ。


『答えろ、どちらがいい?!』

「ひっ…」


とんでもない声圧で問いかけられ恐怖で思わず悲鳴が込み上げた。


底なしの恐怖が俺を現実に引き戻してくる。


時間帯、雰囲気、場所。


どこを取ってもまさに何・か・出・そ・う・って感じ、というかまさに今出てる。


………


……逃げよう。


まだ用は足してなかったのが幸いしてズボンのチャックは降ろしてはいない、つまり逃げようと思えば逃げられる体制。


腿を抓って痛みで無理やり両足の震えをかき消す、痛みを感じないくらいにはアドレナリンが出てるんだろう、もしくはビビってるかだが…多分後者。


(だからって固まってたって仕方ねえだろ…っ!)


なけなしの勇気を持って心の中で覚悟を決める。

目を閉じて大きく息を吸って吐く、震えが少しだけ収まった気がした。


トイレの安っぽい芳香剤が今日はやけに鼻につく。

緊張と恐怖で心臓が脈打つのが分かるほど強く早くなっていく。空気を吐き出すと比喩でなく心臓が飛び出てくるんじゃないかと思うほど心音が煩い……よし。


「…ッ!」


無意識に言葉ですらない呼吸のような何かが口から零れ出た。

体を出入りの扉側に回転させ、目の前の壁の凸に立てかけてあったカバンをそのまま掴み、トイレから飛び出し玄関へ全力でダッシュする。


飛び出ても一切後ろは振り返らずに腕と足を動かすことだけに集中…ッ!

俺が逃げ出した直後、個室トイレの扉が力任せにドンッ!と勢いよくぶつかる音が、暗がりになって気味の悪い校舎に重く響き渡った。


『逃すものかァァァ!!!!』


不快な声色の凄まじい咆哮が後ろから響く、冗談抜きで捕まったら殺されると思うほどの迫力があるんですけど…ッ!!?


後ろから聞こえる激しい息づかいが搔き消えるほど自分の心音と呼吸音と何より風を切る音が煩い。

呼吸が普段より何倍も荒くなって、酸素の足らなくなり息苦しさと一緒に肺に痛みを覚えるが、そんなのは無視して全力で廊下を駆け抜けて行く。


(今人生で一番速く走ってる自信あるわっッ!!)


視界がチカチカと白み始めスッと頭が寒くなる、明らか酸素不足だ。

酸欠気味の脳みそに鞭打って出口までの距離を再確認、トイレから玄関までは多分50m程の直線、なら後20mもないだろッ、って…?!


突如固いものに足を弾かれる感触と、それに遅れて謎の浮遊感。


「…は?」


疑問詞が口から自然と漏れた。

急に襲ってきた浮遊感に頭の中が真っ白に染まり帰って思考が停止していくのを感じる、しかし現実逃避してもスローモーションでゆっくりと目の前に迫る床。


(コ・ケ・、た・?

待て、こんな所で…っ!!?)


その嫌な現実を理解するまでに一瞬にも満たない、そしてただ感覚的に長い時間が過ぎる。


現実逃避なのか脳の片隅で、走馬灯の瞬間は世界がゆっくりになるという情報が横切った。


スローモーションの最中に脳内では疑問詞が絶えず湧いては消える、床が顔面すれすれまで近づいたところで、ようやく脳が情報から状況を逆算し現状を理解した。



防火シャッターの床・側・の・金・属・部・分・、普段意識せずとも絶対コケないようなところで足を持って行かれ勢いよくスっ転んだのか…っ?!



「っぐッ!?」


着地はかろうじて手が出たが全力ダッシュによる慣性を受けた勢いは完全に殺しきれず、ゴロゴロと体が転がって景色が万華鏡みたいに二転三転してようやく動きが止まる。


「っっ〜〜!!」


肘や手首を強く打ち付けて腕が痺れた、それだけじゃなくて全身至る所をぶつけたからか凄い痛い。


ッ逃げないと!

痛みで怯んだその一瞬の空白、逃げるために立ち上がろうとするが、体がなぜか動かない。


後ろから聞こえていた足音がゆっくりとした、のそっ、のそっという音に変わった。足音との距離は、もはやない。



筋肉が痙攣する首で、恐る恐る、後ろを振り向いた。



目の前には鎌を持った二足歩行のナ・ニ・カ・、獣のようなヒト型だった。

体は毛だらけで部分的に身体を覆っている包帯のようなものは所々赤黒く染まっていて、こちらを捉えている瞳はどす黒く濁って見える。


ふわりと、微かな鉄の匂いが鼻元を掠めた。

それが血の匂いと理解してしまった俺の本能が『早く逃げろ』とけたたましく警鐘を鳴らす。


薄暗い校舎をうっすらと照らす、非常脱出口の青緑色のライトが化け物の口元も照らし出す。

三日月のように裂けた口元から鋭い牙を見せびらかす、それら嗜虐を具現しているようにすら見える。


逸らしたいのに目が、視線が、全身が震え上がって動きがとれない。


「ひぃっ!」


自然と情けない声が漏れ出た、カチカチカチと硬いものが擦り合う異音、気が付くと震えで歯がかち合っていた。


『逃げるな、どちらか選べ』


理性も脳みそも『逃げろ』と言っているのに体が全然言うことを聞いてくれない。


怖い、怖い怖い怖い!!

自然と悲鳴を上げ、しかし目の前の恐怖の権化から目が離せない。生来備わった逃走本能で這うように後ろに下がる。硬く冷えた感触が背中を押しとどめる、非情なコンクリートの校舎が俺の退路を塞いでいた。


反射的に手に持っていた通学カバンを化け物に投げつける。しかし片手で軽くあしらわれ、僅かな抵抗は鞄から教科書や筆箱が廊下に散乱しただけに終わった。


ゆっくりと。

じり、じりと化け物が距離を詰めてくる。



『選べ、然もなくば……殺すッ!』



今こいつなんて言った?

殺、す…?


「ぁ、あぁ…!!!」


悲鳴にもならない様な声が漏れるだけで全く体が動かない、怖い。

目を逸らそうとしている筈なのに、視線が化け物に固定されているかのように固まってしまっている。


体も目も、まるで俺のものじゃなくなったみたいに自由が聞かない。

すぐに体が動かない理由に気付いた。

恐怖のあまり、全身が生まれたての動物みたいに痙攣していたからだ。


目の前のバケモノはその長いノズルから牙をむき出しにする。

その様子が俺にはまるで”にたり”と嗤って嗜虐を滾らせているように思えた。


『選べ、選べ!』

「あ、っ」


気付くともう既に、化け物は錆びきった薄汚い鎌を振りかざしていた。


汚れた毛むくじゃらの腕が振り下ろされ、次第に世界がスローになっていく。

急に楽しかったことや悲しかったこと、今日のこと昨日のこと去年とことと記憶がフラッシュバックしていく。


これが走馬灯、ってやつなんだろうと何処か他人事の様にそう思った。


(だめだ、死ぬ)


直感、俺はこれから先の”死”を悟った。

死ぬほど怖い筈なのに、どこか余裕を感じる様な心境。


完全にスローになった世界、走馬灯の横で『死の瞬間は脳内にエンドルフィンが溢れて死への恐怖を和らげる』という雑学が過った。


ごめん。父さん、母さん。

恐怖で固まっていた瞼が漸く閉じ始める。


『どちらも選ばないならば、両方くれぅぅぁァァッ!!?』


化け物が苦痛に怯む声によって、俺への死刑宣告は突如遮られた。



──バチ、バチィッ!!!



電気が弾ける様な音に続いて、閉じていたまぶた越しにでもわかる様な眩い光。

突如として真横から、バケモノ目掛けて紅い光の一閃を走らせ何かが飛来した。


驚いて閉じかけていた目を見開いた。


化け物の体に張り付いた2枚の札は薄らと紅いスパークが走らせると、直後爆発したかのように大閃光を発する。


「あ゛ぁぁぁぁァッ!!??!!!」

「………え?」


直後、化け物の不愉快な叫喚が閑散とした廊下に響き渡る。

薄目越しからでも伝わる激しい閃光と、雷の迸る音が廊下一帯を完全に支配。


状況の移り変わりの早さに理解が置いてきぼりになる。

雷光が収まったのを感じて薄眼を開けると、鎌を振り上げていたハズの化け物は、俺の目の前からその姿を消していた。


なんだ、何が起こった…っ!?


「はぁっ…はぁっ…」


浅い呼吸聞こえる札が飛んできた方角、つまり俺の真後ろ。

鬼が出るか蛇が出るか、先ほどと同じような心境で振り返る。


頭一つほど下に艶めく綺麗な黒髪、上は真っ白い白衣で腰より上で留められた鮮やかな緋色の袴のようなスカート。


一見それは神社で見るような巫女服のようにも見えるが、腰には明らかにミスマッチな茶皮製ベルトと同色の皮のポーチが巻かれている。

さらに本来ならくるぶしまで見えないほど長いはずのスカートは何故か膝上まで丈が明らかに改造されていて、すらっとした生脚が丸見えだった。


つまるところ、


「…み、こ?」

「ええ、素敵な巫女さんよ。

──ところで、逢魔ヶ刻に学校に一人っきり、しかもここは人祓の結界の中」



なぜか、その目はまるで仇・を・睨・ん・で・い・る・の様に鋭くて。



最小限の動きからスムーズな重心移動、それによって巫女が突如蹴りの姿勢をとった

降り抜かれた足はそのまま的確に俺の太ももを正確、一切の躊躇なく鋭い一撃が俺の太ももに突き刺さる。


「ァッッ…かッ!!?」


回避なんてできるはずがなく、気づけばあまりの痛さに床を転げ回っていた。


あまりの痛さに胃の中身がひっくり返りそうになるが、それ以上に身に覚えのない暴力に俺の理解力は完全に機能停止していた。


「まさか2匹目の妖怪がいるなんて思わなかったけど、どうやら相当の間抜け。

私の蹴り一発でそれだけ食らってるってことは本当に唯の木・っ・端・妖・怪・みたいね」

「よ、妖・怪・…っ、何の事だよ!?」


巫女は床で転がる俺を見下しながら、感情から怒りだけを絞り出したかのような表情でこちらを睨みつけると、腰から一枚、不思議な文様の描かれた札を取り出すと唐突に投げつける。


おおよそ薄い紙製とは思えないような、直線軌道かつ速度で飛来した札がそのまま俺の頭部に命中した。


「痛っ」


ペチリ、と軽く肌を叩くような音と共に額に軽い衝撃と痺れ、反射的に口にしたが別に大した痛みはないけども…札の所為で視界が半分以上急に塞がる。


「ん、ぇ?!」


何もかも理解が追いつかない。


軽くパニックになりながら張り付いたモノに目を凝らすと、やはり和紙のような材質らしい紙が顔に張り付いていた。

どういう原理なのかわからないが瞬間接着剤でくっ付いてるんじゃないかと思うほどに、一向に額から札が剥がれる気配がない。



何より、札を剥がそうにも体が全く動かないのだ。



「え、な…っ!?」

「この程度で拘束出来るなんて…やっぱり雑魚、か。

まあ正直そっちの方が符の消費が少なくて助かるんだけど」


なぜか体が金縛りにあったかのようにピクリとも動かない。

そして次第に額に感じる痺れは激しくなっていき、ついに軽い静電気を常に浴びているような痛みが奔り始めた。


「それじゃあ───さっさとブッ飛びなさい!」

「へ、待っ?!」


やたら物騒な掛け声に呼応して、顔面に貼り付いた札が突如赤色に眩く輝きだすと──


どこか間抜けな音と共に札から勢いよく大量の白煙が吹き出した。

顔面に貼り付けられた札から出てきた煙なんて、当然回避することなんて出来ず、俺の気道に変な匂いの白煙が入り込んでいく。


「コフッ…ゴッホっ!…ヴェっ…ッふぉっ………」

「……あれ?」


へ、変な薬品みたいな匂いがする…

鼻の奥に妙に生臭いが、どこか薬品みたいな感じの奇妙な臭いが染み付く。


気管に流れ込む大量の白煙が目にしみて、肺いっぱいに入り込んだせいで途轍もなく噎せる。


涙で歪んだ視界が次第にはっきりしだすが、未だに巫女は俺との間に一定の距離を保ち、未だに右手を腰に当て即座に動けるように中腰を維持し謎に膠着の状況が続く。


「え〜っ、っと、その」


しばらくすると謎の巫女服ははっと表情を変え、眉を顰めて数秒考え込んだような様子を見せると、蚊の羽音みたいな小さな声でどこか申し訳なさそうに呟いた。


「…もしかして、ひょっとしてよ?人間…だったりする?」

「………どっからどう見ても人間だろうが!!」


これは…流石にキレても許されるだろう。


掠れた風が窓揺らしカラスが1匹、外で「かあ」と鳴いた。



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詰まる所、状況を整理すると、えっと……なんか『見ず知らず巫女がヒトを妖怪と間違えてきて攻撃してきた』か。

もしや厨二病モドキか電波系のヤバい人、とは言えないよな…


信じられないけど、あの化物を追い払ったときに使ったのは…どう見ても『魔法』とか『呪い』とか、そういうゲームとかでお馴染みの非現実的なものにしか思えない。


『手の込んだドッキリ』、と言い切れたら楽だが、残念ながら俺は主観客観的に見てもどこにでもいる只の男子高校生だし、何よりだ。


あんなリアルな化物とこんなタイトな巫女服は放送コード的にゴールデンに出てきちゃダメだろ、子供ギャン泣きするぞ。


とりあえずいつまでも巫女服呼ばわりもあれだし…仮称:電波女としよう。

うん、ぴったり。


…怒りが頂点まで達して呆れに変わったんだろうか、冷静に分析こそしているが何だか悲しくなってきた。

最早一周回って泣きそう、というか変な臭いの煙がタダでさえ目に沁みて本当に涙が出てきてる。




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