7ー2
とたんに、人骨は足から白い砂になって、風の中に消えた。頭蓋骨が消えていく時、何故かその顔が微笑んで見えたような気がした。
ただの骨なのに。
「……っ……」
ノクティは後ずさった格好から、へたりと仰向けに倒れた。
視界がぼやける。暗い雲が薄汚れた空を移動するのが見えた。たった数分の出来事だったのに、身体は疲弊しきっていた。
『貴方の会いたかった、お母様ですよ』
あの骸骨がお母さんのわけがない。
自分は何もしていない。何も見ていない。
「……っ!」
ノクティは身体を起こした。
確かめずにはいられなかった。それが道理に反することだと、重々承知している。
でも、この街に身内は自分しかいない。誰も怒る人はいない。子どものしたことだと、許してくれるかもしれない。
ノクティは墓石の下の土を手で掘っていた。
葬儀の時、彼は涙をこらえて見ていた。ここに母親の遺体が入った棺が埋められるのを。焼死した人間はとても子どもの見られるようなものではないと、遺体の顔は見せてもらえなかった。その代わりにノクティは、棺を目に焼き付けようとしたのだ。
土はまだ柔らかく掘りやすかったが、彼の小さな手は痛みを感じていた。それでも一心不乱に掘った。時間がかかろうと掘った。
やがて固いものにぶち当たる。棺だ。
棺の上に載っていた土を全て払いのけ、棺の蓋に手をかけた。唾を飲み込み、ゆっくりと蓋をずらす。
――中には何もなかった。
「そんなっ……本当に…………」
本当に、さっきの骨はお母さんだったの?
お母さんに酷いことを言ってしまった。
骨は砂になってしまった。
なら今、お母さんは何処にいるの?
ノクティは震えながら両手の平を見た。土だけでなく傷も付いてボロボロだ。
そこでようやく気付いた。自分の目がおかしいことに。
手が真っ白だ。土もやたら黒い。暗くなってきたからではない。この時間はまだ、夕日の光が残っているはず。こんなに手が白いはずはない。ノクティは辺りを見回した。
「えっ……」
夕日、いや、あれは夕日なのだろうか。白く光っていて、まるで朝日のよう。遠くの木々も燃えて炭になってしまったみたいだ。油断すると、物と空間との境目がつかなくなってしまう。
世界から白と黒以外の色が無くなってしまったようだった。
男の言葉が思い出される。
『おや、貴方に素質はなかったようですね。なりそこないの息子を持って、お母様も可哀相だ……』
自分は確かに思った。このまま世界が真っ暗になって終わってしまえばいいのにと。
これは、自分への罰なのだと悟った。
絶望の中、墓石を見た。
名前が刻まれているのに、ここには父親も母親もいない。何のための墓なのだろうか。
ボクはお母さんを二度も殺してしまったんだ――
「うわぁああああああああっ」
彼の慟哭は、モノクロの世界に虚しく木霊した。
ノクティが母親の骨を墓から出現させた様子を、遠くから見ている子どもがいた。ノクティの同級生の一人だった。
彼は恐怖のあまり、しばらくその場を動けないでいた。そうこうするうちに、友人が墓を掘り起こす場面も見てしまう。その場から逃げだそうとようやく立ち上がれたのは、友人が手の平を見つめた後で叫んだ時だった。
ノクティは、夜になっても墓石の前で放心していた。どうせ世界が白黒になってしまったのなら、夜になっても同じだと考えていた。
浅はかだった。世界は自分の知っている港町ではなくなっていた。
自分の身体さえも溶けて見失ってしまうような漆黒。
道も分からず、ノクティは這いつくばって墓地を出た。途中、他の家の墓石に何度かつまずきそうになった。
何とか街の灯りのような白を見つけて、その一点だけを目指して這った。手足に何が触れようが汚れようが、お構いなしに灯りを目指した。
全く目が見えないのとは違う。見えているのに、見えない恐怖。知っている街なのに、街が、世界が、自分を拒んでいる。
自分は何て愚かな人間だったのだろうか。今のままでは生きる価値がない。全てを忘れ去り、気持ちを切り替えて、自分はこの街で暮らしていけるのだろうか。自分を預かってくれている家族と、これからどう接していけばいいのだろう。分からない。
誰か、ボクを許して――
泥だらけになりながら、聴覚や嗅覚も頼りに、ようやく街に着いた。人家の灯りは、おかしくなってしまった自分の目にも、街の風景を想起させる灯火となってくれた。
家の外に人がいる。しかも一人じゃない、何人も。帰りの遅い自分のことを待っていてくれたのかもしれない。こんな自分でも、この街の人々は出迎えてくれるんだ。墓を荒らしてしまったと本当のことを言って、街の人に謝ろうと思った。もう何一つ願わない。だから許してほしい、と――
「あの子、妙な黒魔術に手を染めちゃったらしいの」
「ご両親のことは気の毒だったけど、もうあの子は人間じゃない」
「私たちも骨にされちゃうのかね」
「やだ怖い……早く施設の人が引き取ってくれないかしら」
「墓まで掘り起こして、どうかしてる」
「気持ち悪い」
真っ黒で、彼らがどんな顔をしているのかは分からなかった。だがそのせいで余計に、言葉がノクティの感情に深く突き刺さった。
異質な力を手にしてしまった自分にもう居場所はない――
全てを闇の中で悟ったノクティは、踵を返し、そのまま街を飛び出した。
家族も家も居場所もない。自分にはもう何もない。もうどうなってもいい。
無我夢中で真っ暗闇を走り続けた。靴が脱げようと、転ぼうと、手足に傷を作ろうと。体力が尽きるまで、脇目もふらずに走り続けた。
ノクティが気付くと、知らない荒野に仰向けに倒れていた。
何処をどう走ってきたのか、どれくらい走ってきたのかも分からなかった。身体が動かない。そんな彼を覗き込む者たちがいた。当時、その辺りを拠点にしていた旅の団体だった。彼らは自分たちのことを『請負人』だと名乗った。依頼主から報酬を受け取り、文字通り何でも請け負うことを生業としているらしい。彼らは言った。
「このままここで野垂れ死ぬか、私たちと一緒に来るか」
彼らは普段から身寄りのない者を同胞として勧誘する団体だった。ノクティは彼らに拾われることとなった。
ノクティは彼らと数年を共にした。彼らは暢気な港町の連中とは違い、裏の世界にもパイプがあった。もちろん黒魔術をかじっている者もいた。ノクティの話を聞いて彼をネクロマンサーだと呼称したのも彼らの一人だった。
ノクティは彼らから最低限の勉学を教わり、体術を身に付けた。彼らがノクティの新しい家族であり、居場所になった。不幸な生い立ちの人間も多かったので、彼らと暮らしながら人のために働くと、ノクティはだんだん救われていくような気持ちになった。
ある日、彼らの一人がノクティの耳にピアスの穴を空けてくれた。故郷の全てを無くしてしまっていたノクティだったが、ピアスだけは無くすまいと、火事の後から持ち歩くようにしていたのだ。言ってしまえば、ノクティの持ち物は父親のピアスだけだった。
それがきっかけだったのだろう。ノクティは彼らから独立することを決めた。
父親の遺体をこの手で探し出したかった。蘇らすためではなく、丁寧に手で肉体ごと掘り返し、あるべき場所に返すために。そしてその後で、ネクロマンシーの力を無くそうと考えたのだ。力を失ったとして、視力が元に戻るとは限らない。目を戻すことが目的じゃない。それがせめてもの母親の弔いであると信じたかった。
彼らの中には強い思想で旅立つ人が今までにも何人もいたので、ノクティを止める人はいなかった。
ノクティは彼らの仕事を真似し、代行業者だと名乗ることにした。母親が自分の代わりに命を張ってくれたように、自分が代行することで救われるものがあるのならと。
失う怖さを知っているので、ものは極力持たない。執着しない。家を持たず、行く先々で、自分なりに人に貢献していく。
旅立ちの日、モノクロの世界を色づかせるほどの、眩しい太陽がノクティを照らしていた。
ノクティ=レイズスが、寂れた村で色素の薄い少女と出会ったのは、それから何年も後のことだ。
油断すると周囲に溶け込んでしまうくらい薄い。
彼女も赤ん坊の頃に父親を亡くし、母と子二人きりで生きてきて、やがて悲惨なことに母親とも死別してしまったらしい。彼女は母親を生き返らせたいと言った。
彼女は自らの救いに、ネクロマンシーなんて残酷なものに頼ろうとしていた。一歩間違えば穴にすぐ落ちてしまいそうな状態だった。
昔の自分に、彼女を重ねた。
出会うきっかけとなったのは向こうからにせよ、救いたいと思った。
味方になりたいと思った。
もっともっと、世界の色を見せたいと思った。
白と黒しか見えなくなってしまった、この自分が。
オレが。
目の前でオレの話を聞く、彼女を――
「ねぇ……ノクティ」
ノクティは、ようやく口を開いた色素の薄い少女の顔を見上げた。彼女は言う。
「……やっぱり、ランプくらいは持ち歩くようにした方がいいと思うよ」
「えっ……」
「ね?」
彼女はいつも通りの、感情の読みとりにくい顔で首を傾けていた。
「ルリア……お前、オレの話、ちゃんと聞いてたのかよ…………つっ……」
ノクティはこの時、目元を隠して苦笑するしかなかった。
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