4‐1

 荒野の真ん中で、ノクティはようやく足を止めた。辺りには枯れ木が片手で数えるほど立っているだけだ。

 一度にここまでの距離を走るのは、ルリアにとって未経験のことだった。彼に引っ張られる形で駆け続けたが、後半はほぼ引きずられていた。

 彼が何処を目指して走っているのか分からなかった。でも、ルリアに不安は少しもなかった。

「ここまで来れば安心だろ」

 ノクティに腕を解放され、ルリアはその場にへたり込んだ。胸に手を当て、呼吸を整える。

「はぁ……疲……れた」

「わりぃな、勢いで飛び出しちまって」

「……ん、いい」

 ルリアは俯いた。叔母は今頃どうしているだろう。まだ骨のネズミたちと格闘しているのだろうか。それともネズミを振り払い、自分たちを探しているだろうか。金切り声を上げて村中を探している姿は容易に想像できた。

 見つかったら次はどんな罰が待っているだろう。あの倉庫よりも、もっと酷い所に閉じこめられるのではないか。もう二度と、外に出してはもらえないかもしれない。それ以前に自分の人権はないかもしれない。

「……あっ……」

 考えれば考えるほど、自分が真っ暗な穴に落ちていく。震えが止まらなかった。


「お嬢ちゃん!」


「っ!」

 ノクティの呼び声で、暗い妄想の壁が破れる。ルリアが見上げると、ノクティが腰に手を当てて見下ろしていた。

「またそうやってまん丸になってるな。小動物みたいで可愛いと思ってやってるだろ」

「なっ……」

 ルリアの心に、カッと怒りの火が灯る。

 私の気持ちも知らないくせに。

 そう言うつもりで口を開こうとした、が。

「その顔でいい」

「え……」

「もう、あの家は出てきたんだ。あそこでのことを今更、振り返るのは止めな止めな」

 言いながら、ひらひらと手を振る。

「あ……」

 ルリアは、そういうことか、と腑に落ちたと同時に怒りも消火していた。この人はどうして自分の考えていることが分かるのだろう、と思った。

「お嬢ちゃんの自由は始まったばかりなんだから」

「……ん」

「ま、でも気になってたと思うんで一つ話しておくと、村を出た辺りで、ネズミたちは土に還ってもらった。一匹残らず消えてるから、今頃お嬢ちゃんの伯母さんは、夢でも見てたのかなって呆けてると思うよ。怪我させるようなこともしていないはず」

「……そう」

 少なからずホッとしている自分がいることに、ルリアは驚いていた。あれだけ忌み嫌っていた対象だったが。自由の身を手に入れるためにとった自分の行動で、彼女に何かあったのでは気分が悪い。無事であるならそれでいい。

 彼女の反応に彼も安心したのか、

「……それで、さ」

と、ノクティが切り出す。

「何?」

「一応、お嬢ちゃんを家から連れ出すっていう仕事は終わったわけだけど……」

「……ん。本当にありがとう……。それで、必要な知識って?」

 頭を下げてから首を傾げるルリアに、彼は手を振った。

「いや、お礼を急かしているわけでも、知識をすぐにでも借りたいわけじゃなくてさ」

「……ん」

「お嬢ちゃんの仕事を終える前に、頼みごとと言うか」

「え?」

「ハトレア地方に来たのは今回が初めてで、その、お嬢ちゃんに道案内を……してもらいたいんだけど」

「えぇ?」

 声を上げてから、ルリアは辺りを見回した。

 闇。

 ようやく冷静に周囲を見ることができた。月明かりがあるからまだしも、暗い。村からここまで離れるとこんなにも暗いのか、とルリアは思った。ここまでと言っても、家のあった所からどのくらいの所にいるのか分かっていないのだが。

 ルリアはノクティに向き直った。

「……何処か、行こうとしていた所があったんじゃないの?」

「ない」

「えっ」

「さっきも言ったけど、勢いだったもので」

「……考えがあって、逃げさせてくれたんじゃないの?」

「いや? 何も考えてない」

「……じゃあ、地図か何かは?」

「ない」

「……」

 あのタイミングで伯母が戻ってきたのは予想外のことだったので、文句は言えない。

「それからさ、こういうのは早めに言っておいた方がいいと思うんで、言っておくんだが……」

 彼がもったいぶるので、ルリアは不審に思いながら見上げた。

「まだ何かあるの?」

「オレは、暗いのが苦手だ」

「……」

「……」

 きょとんとなるルリア。

「……え?」

「暗いところが苦手なんだ」

 そう繰り返すノクティは、ひょうひょうとしている。

「とてもそうには見えないんだけど……」

「申し訳ないけど、お嬢ちゃんの家も暗くてしんどかった」

「灯りになるようなもの、持ってないの?」

「ない。そもそも、苦手だから夜は極力、外を動きたくない」

「それじゃあ、こんな所で止まってる場合じゃないじゃん」

「そっ。だからお嬢ちゃんに道案内をしてもらいたいって言ってんの」

 ノクティはルリアに右手を差し出した。

「……何これ」

 目の前に出された彼の手を一瞥してから、再び彼を見上げる。彼は歯を見せて笑顔を作っていた。

「手を引いてくれないかなって」

 ルリアは露骨に怪訝な顔を作っている。

「……何で」

「決まってるだろ、暗いのが苦手だからさっ」

「……手を引く必要、ある?」

「あるさ! 暗い場所を一人で歩きたくない!」

「……絶対、ヤダ」

 力のこもった断定だった。

「つれないなぁ。どうして?」

「……ここまで走ってこられたのに、今更、手を引く意味が分からない」

「だから勢いだったんだってぇ」

「……裏がありそう」

「子どもは恋愛対象外って言ったろ」

「……その発言が怖い」

 いよいよ少女は視線を合わせてくれなくなってしまった。

「暗いのが苦手って言ってんのになぁ」

 ノクティは口を尖らせながら頭を掻いた。彼女が信じてくれないのなら仕方がない。今夜は乗り切るしかない。

 漆黒でしかない周囲にノクティが視線を巡らせていると、ルリアが立ち上がった。彼女は目を細めている。それはノクティに呆れたからではなく、少しでも遠くが見えないかと凝らすためだった。

「よく見れば、家の明かりが見えないわけじゃないんだね」

「そう? よく分かんねぇや」

 ノクティはわざとらしく額に右手を当てて遠くを見ている。そんな彼を、ルリアはじとりと見る。

「目が悪いの?」

「……暗いのが苦手って言ったろ」

「そういう問題なのかな……」

 腑に落ちないルリアだったが、自分より視力が劣っているならしょうがない。

 彼女は夜空を見上げた。少しの間そうしていたかと思うと今度は、改めて周囲の観察をする。

 そして、ある一点を指さした。

「……たぶん、あっちに、街がある」

「分かるのか!?」

 ノクティは彼女が指さす方向よりも、彼女の自信あり気な顔を見た。

「……ん。地図は面白くなくてあんまり見たことがなかったけど、ランキッド大陸とハトレア地方の地図は見たことある。私が見た時から変わってなければ、あっちにある」

「地図が分かったって、東西南北は分からないだろ?」

「星を見れば分かる」

「星?」

「星の本は何冊か読んだから、今の季節に見える星は全部分かってる。今、見えている星に、日付と時間を合わせて考えれば、東西南北も分かる」

 雲もないことが幸いした。

「すげぇ……そんなこと、本当にできるのかよ」

「……できた」

 自信はなかった。ただ、やってみたことはあった。

 毎夜、あの倉庫にいる間は簡潔に言って、やることがなかった。昼間は伯母から仕事を強いられて余裕がなかったが、夜は時間があった。やがてその時間を、空想に使うようになった。空想が彼女の娯楽になった。

 ある時、自分の家から見えた星空を頼りに、東西南北を調べてみようと思った。こっちの壁は北、そっちの壁は南。無機質だった倉庫の壁にまるで名前が付いたようで、愛着が沸いた。合っているかどうかを調べる術は無かったが、きっとそうだと、自分なりの確信があった。

 しばらく経って、次は家の東西南北とハトレア地方の地図を照らし合わせた。自分の家が地図のどの辺りにあるのかを想像した。この壁のずっと先にはあの街、この壁の先にはあの街がある。そう考えたらわくわくした。一生のうちに一度くらい、行くチャンスがあるといいなと思った。

 そんな娯楽の一端が、役に立つなんて。

「すげぇよ、お嬢ちゃん!」

 代行業者の男がはしゃいでいるのを見て、ルリアはそっと頬を染めた。

 自分の知識が、人の役に立っている。

 ただただ嬉しかった。

「頭に地図が入っているわけだろ? 便利だなぁ」

「……そもそも、何で地図を持ってないの?」

「何でかねぇ。でも困ってないし」

「困ってるじゃん、今」

「あ、そっか」

 ハハハと笑うノクティの顔は、やはり全く困っていなそうだ。

「灯りも地図も持ってない……それでよく仕事ができるね。そもそも荷物も少ないし」

「まー何とかね。やってるうちに、どんな人が代行を頼みたいか分かってきてさ。今日みたいに行き当たりばったりで引き受けることも多いし」

「……へぇ」

「あと、相棒が伝達係を引き受けてくれることもあってね」

「……相棒?」

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