私と読者と仲間たちという哲学

亜未田久志

私と読者と仲間たち


 私? 私に読者も仲間もいないよ。いるのは「同志」だけさ。

 分かるかなぁ。この気持ち。同じ小説を愛する者として私達は存在している訳さ。

「でも、こういうお題が出たんだから、それに沿って書かないと」

 アシスタント君。君は何も分かってない。

 そんな生半可な覚悟じゃこの業界やっていけないよ。お題を出されたら、捻くれたものを、お出ししてやるくらいの気持ちでいかないと。

「はぁ……そういうモノですか?」

 そうだとも。だから私は同志について語ろうと思う。偉大なるお歴々。師匠達の事をね。

「え? 師匠? 同志じゃなくて?」

 そうさ、同志たちは皆、私の心の師匠なのさ。

「そんな、さっきから言ってる事がめちゃくちゃですよ!」

 そうとも、私の思考回路はまともじゃない。まともな思考回路をしていたら小説を書こうだなんて思わない。

「それは暴論ですよ」

 そうかな? 考えてもみなよアシスタント君。文豪と呼ばれる方々はこぞって変人だったそうじゃないか。私もそれに倣っただけさ。

「それは倣うとは言いません! ただのわがままです!」

 アシスタント君もうるさいねぇ。もっと頭を柔らかくしたまえよ。そうゼリーのようにぷるぷるとね。

「先生の言う事は何一つ理解出来ません! いいから小説を書いて下さい! お題は『私と読者と仲間たち』です」

 ふむ、それなんだがねアシスタント君。私とは何を指しているのだろう?

「は? そりゃ先生でしょう」

 そうかな。「読者」は勿論、小説を読んでくれた読者の事だろう、それはいい。けど仲間とはなんだ。孤独な執筆活動において、仲間などいるのか? 「私」とは本当に作家の事なのだろうか?

「仲間……ならここに一人、いるじゃないですか」

 アシスタント君はアシスタント君だよ。それ以上でもそれ以下でもない。

「…………そうですか」

 少し残念そうだね君。まあいい。じゃあ仮にこの「私」を作家だと仮定しよう。では「読者」とは、その小説家の書いた作品を読んでいるものの事か?

「当たり前でしょう」

 だが他の作家の作品を読んでいても読者は読者だろう?

「ああもう、そうやってすぐ逃げ道を探そうとする!」

 落ち着きたまえアシスタント君、これは必要な思考のステップだ。

 次に「仲間たち」だ。「読者」は単数形なのに「仲間たち」は複数形だ。

「読者だって不特定多数を指すものでしょうに」

 そうかな? 私は「読者たち」というべきだと思うね。もっと言うなら「読者様たち」とね。

「そりゃまた先生からして思えぬほど自分を下げますね」

 自分を下げたんじゃない、読者を上げたんだ。当たり前の事だろう? お客様は神様です。

「そんなの死語ですよ」

 そうかな。その精神は受け継がれている気がするけど。

「それよりどうするんです。全然、課題をこなせてませんよ」

 いや、もうすぐ終わる。私とは誰かという哲学さえ解ければ――

「もういいです。僕が書きます。先生より拙いでしょうが、間に合わなくなるよりマシです」

 間に合った!

「は?」

 今の会話を口述筆記で打ち込んでいた。

 これで作品は完成だ。

「……は? いやいや、ただの会話じゃないですか。オチは」

 ないよ、そんなもの。

「だからアンタは嫌いだ」

 私は大好きだよアシスタント君。

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