【後幕】畔 蓮葉 VS 八百万 浪馬 其の四
「《
照れくさそうな洋に対し、烏京の視線はなお氷点下だった。
「貴様の馬鹿が妹に移った──そういうことか?」
「勝てるって算段があるなら、別にいいじゃねえか」
「──あれはただの綱渡りだ。
貴様の無様な姿が、それを証明している」
「くそっ、おまえもさっさと忘れやがれ」
「犯さずともよい危険を犯す──これが甘さでなくて、何だ?
──《最高傑作》としての優位は、今宵限りで消えた」
「そうか? オレの感想は逆だな。
浪馬相手に横綱相撲で勝って、怪我一つない。
オレの失敗は、まだ蓮葉を過小評価してたことだ。
こいつの実力は底知れない……笑った後は特にな」
傍らにしゃがみ、猫のようにすり寄る少女の頭に、洋は軽く触れた。二人の会話は聞こえているはずだが、気にする素振りもない。
「──その笑いこそが、甘さなのだ」
そんな蓮葉に目をくれず、烏京が断じた。
「立ち上がりの悪さは、達人同士では命取りになる。
最強の切り札も、切れなければ無意味──
出し惜しみする内に《初見殺し》で終わらせれば事足りる。
気付いた者は必ずいるだろう──俺以外にもな」
その一人が文殊だと、言外に告げている。
浪馬と蓮葉の試合は決着が着き、再戦はない。
今さら文殊が気付いたところで意味はないが、別の意味はある。
最初から浪馬と組んでいれば、結果は違ったのではないか。浪馬に足りない戦略を文殊が補い、ともに戦えば、《天覧試合》で巻き返せるのではないか。
盤面を
それを文殊に与えてしまったのではないか──烏京の言わんとするところは、その懸念だ。
「……願ったりじゃねえか」
洋は、芒洋と照らし出される地下道の先を眺めた。
「
族の精鋭つっても、オレらから見りゃ
どんな名人だろうと、飛車角落ちじゃ勝負にならねえ。
オレもコマを落としたつもりだが、どうしても地力の違いが出る。
負け続きで手駒はどんどん減って、あいつのチームは解散した。
才能はあるのにもったいねえ……ずっとそう思ってたんだ」
「浪馬だってそうだ。
とんでもない才能の原石だが、てんで磨きが足りてない。
馬鹿は嫌いじゃないが、このレベルの闘いじゃ弱みになる。
信頼できる軍師がつけば、伸びしろは計り知れねえ。
運命的ってか、ベストマッチだな。あの二人は」
「──敵に塩を送る気か」
烏京の声は、幾分常温に近づいている。
「《神風》ってのは最強の称号だぜ?
相手の足引っ張って勝っても、意味ねえだろ」
「──友が敵になってもか?」
「
これがオレらの正しい関係なんだよ」
そう
「おまえだってそうだろ、烏京?
蓮葉の弱みを見つけて、やる気になってんのが丸わかりだぜ」
「──当然だ
言ったはず──畔との勝負を捨ててはいないと」
呼応するように、烏京の眼光が鋭さを増した。
烏京と蓮葉。同盟関係の二人だが、試合はまだ行われていない。
雌虎と呼び、半ば敵わぬと認める《最高傑作》に対し、一縷の勝機を見出したのだろう。仲間であり敵、烏京もまた好敵手の一人だ。本来、気付いた弱みを教える必要もないが、あえて口にしたのは同盟の義理を果たしてのことか。あるいは改善が見込めぬと踏んだのか。
「ま、いずれ
おまえと蓮葉の試合、今から楽しみにしてんぜ」
「俺も楽しみだ──貴様が再び泣き叫ぶ日がな」
「てめー、オレの弱みも握ったと思ってんな?」
睨み合い、そして歩き出す二人。
深夜にあるまじき騒々しさを引き連れ、洋と烏京、そして蓮葉は《そねちか》を後にした。最後に浪馬と文殊を一瞥し、忍野と八海に手を上げて。
「アー、そうだ。まとめてホテルに運んでくレ。
後はコッチで片付けるからヨ」
浪馬が作業員と交渉している。壊れたバイクの処遇についてだ。スクラップに等しい状態だが、「捨てろ」と言わないところに文殊は救われた思いがした。暴走族にとってバイクは相棒だ。
「やっと落ち着いたか」
「オレは最初からレーセーだっての」
目覚めるや勝利宣言し、八海をくどき、たつきと罵り合い、蓮葉に忘れられた浪馬だが、その自覚は皆無らしい。
「……おまえ、本気で勝った思てるんか?」
「何言ッてやがる。当然じャねーか」
即答する浪馬だが、文殊は信じていない。
起き抜けに煙草を吸った際の言葉と顔。あれは敗北を噛み締めたものだった。
浪馬は嘘をつけない男だ。正直ではなく単純、嘘が下手と言ってもいい。
今も嘘はついていない。「勝った」と信じこんでいるだけだ。
そうでもしなければ、平静でいられない。その気持ちはわかる。初の敗北はそれだけ重い。九州最強と謳われた男ならなおのことだ。
だが──否定しなければならない。
自分だけは、浪馬に現実を突きつける必要がある。この先も。
「おまえがどう思おうが、試合は相手の勝ちや」
淡々とした言葉に、浪馬の顔が赤味を増した。
何か言いかけ、呑み込み、歯噛みする。何かを握り潰すように固めた拳を、もう一つの手で抑え込む。
「けど……ええ勝負やった。
あんな
おまえは大したヤツや。来てよかったわ。
おまえがアホでなかったら、ほんまに勝ててたかもしれん」
浪馬の拳が、音もなく緩む。
「……一言余計なんだヨ、クソが」
「余計やない。大事な話や。
あそこで慎重に詰めてたら、逆転されんかった。
バイクに乗られた後もパニックに付け込まれた。
それにおまえの《
オレと組むなら、指示は聞いてもらうで」
二度瞬きして、浪馬は文殊を見つめた。
視線に背を向け、文殊は自分のバイクに跨る。
ドルン!とエンジンに火を入れ、暖機しながら振り向いた。
「族には戻らん……けど、組んだるわ。
残りの連中にはオレが勝たしたる。
特に魚々島には、絶対な」
立ち尽くすピンク髪に、金髪が後部席を叩く。
「何ボサッとしてんねん。さっさと乗れやアホ」
満面の笑みが、浪馬に広がる。
「やっぱり、オレの勝ちじャねーかヨ」
「わたくし、今日こそ尊死するかと思いました。
八海がおもむろに語り始めた時、忍野は心の耳栓を取り出した。空木の人間とて不死ではないからだ。
「浪馬さまを気付けられる洋さまをご覧になりました?
まるで眠り姫を救う王子さまでしたわ。
あれは特別な気持ちの現れに他なりません。
浪馬さまも心色めいて、『兄』と呼ぶ声も上ずって聞こえました。
洋さまと蓮葉さま、これって『兄妹丼』の展開でしょうか?」
「ああでも、浪馬さまは文殊さまも鉄板です。
煙草を渡すならシガレットキスが、個人的には良だったんですけど。
最後はバイクの二人乗りでホテルに直行……続きは薄い本でお願いします!」
「洋さま以外スルーな蓮葉さまも、ついにたつきさまと。
蓮葉さま攻めは完全に予想外でした。キマシタワー!」
「とにかく今夜は栄養過多でした。
心の海に赤潮が発生しそうです」
「でもやっぱり、この恋曼荼羅の中心は洋さまです。
烏京さまとも仲睦まじく、もはや夫婦のよう。
お兄さまもうかうかしていると、正妻の座を取られますよ。
あの方、とんでもない人たらしなんですから!」
「よきに計らえ」「何ですか、もう!」
「宮山。その衣装、どこで着替えるつもりだ?」
一人帰りかけたたつきを呼び止めたのは、荒楠に乗った雁那である。
「コンビニのトイレとか探すけど」
「上に私たちの車がある。そこで着替えるか?」
「えっ、いいの?」
「ああ。何ならシャワーも使っていい」
「シャワーついてんの?」
「キャンピングカーだからな」
「車で暮らしてるんだ」
「こいつの図体では、目立って仕方がないからな」
「あー、そうかもね。正直助かる。
排気ガスの匂いが気になってたから」
「地下であれだけ走り回ればな」
「ホントよね!
あのバカ、
「まあそう言ってやるな。私についてこい」
「ありがとー!」
新たな輝きを得た八海の瞳を、忍野は虚無の思いで黙殺した。
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