【後幕】畔 蓮葉 VS 八百万 浪馬 其の三



「……『知らない』って、どういう意味よ?」

 まだ排気ガスの匂いが残る地下道の空気を、たつきの詰問が叩く。  

 言葉こそ同じだが、蚊の鳴くような蓮葉に対し、たつきのそれは蝉の声だ。甲高かんだかいがよく通り、低い屋根に反響する。その場の全員が注目するほどに。

「あー、なんだ。多分……もう忘れてる」

 凍りつく蓮葉に助け舟を出す洋を、たつきはまじまじと見つめた。「信じられない」の文字が、その顔にはっきりと板書されている。

「さっきのキスを?」

「もしかしたら、戦ったこともな」

「そんな都合よく記憶が飛ぶもんなの?」

「そういう病気……いや体質か……?

 とにかく『忘れやすい』んだよ、うちの妹は」

 洋の言葉にごまかしがないと知り、たつきは真顔になった。

「ちゃんと日常生活できんの、それ」

「何でもかんでも忘れちまうわけじゃない。

 嫌なこととか、面倒なことは忘れやすいみてえだ」

「何それ。そんな都合のいい記憶喪失ある?」

 洋は言葉に詰まった。

 蓮葉と暮らし始めて、そろそろ一月になる。

 当初は借りた猫のようだった少女も、近頃はテレビのバラエティに齧りつき、スイーツのおねだりをするようになった。発信機GPS付きだが一人での外出も許可した。語彙が増え、喜怒哀楽も幾分豊かになったと思う。

 そして頻繁な健忘についても、ある程度は理解が進んだ。

 例えば性的なコンテンツ。深夜番組で時折見かける性交場面ベッドシーンや下ネタは、例外なく記憶から消える。暴力的な表現も同様だ。過激な映画やゲームが年齢制限レーティングを受けるように、蓮葉の脳内にも独自の規制があるらしい。今闘った浪馬についても、キスは愚か、本人や戦いそのものを忘れている可能性がある。

 入浴後の全裸など、何故忘れるのか謎の事案もあるが、周囲はともかく当人が困っている節はない。

 何故なら忘却の対象は、蓮葉にとって不必要なものに限られるからだ。

 「都合のいい」というたつきの指摘は、計らずも正鵠せいこくを射ている。

 洋も一度はこの健忘症を、畔の与えた異能の一つではと疑った。殺人は人の心を壊す。それを防ぐための仕組みなのだと。しかしすぐ仮説の矛盾に気がついた。畔や魚々島にとって、人殺しは生活の一部だ。そんな文化で育つ民族に、忘れる必要などないではないか。

 蓮葉の純粋さは疑いなく健忘の賜物だが、果たしてそれに何の意味があろうか。洋にも本当のところはわかっていない。

 ともあれ、仮にも敵である相手に、これ以上の説明は不要だろう。自分ならいざ知らず、妹の話ならなおさらだ。

「そこら辺は、俺にもよくわからねえんだよ。

 まあそういうもんだと思ってやってくれ」

「ふうん……

 でも忘れたからって、なかったことにはならないけど?」

「違いない」

 洋は苦笑した。まだ胸に残る、名状しがたいがその証拠だ。

 たつきはおとがいを上げ、再び蓮葉を見上げた。

「自己紹介がまだだったわね。

 わたしは宮山たつき。大蟲神社の《虫祓いの巫女》よ。

 あんたを倒すのはこのわたし。忘れないでよね」

 真っ向から叩きつけられた挑戦状に、蓮葉がうろたえる。威勢の良い小型犬に、大型犬がひるむ構図だった。青沼の講義での反応から、女性には心を開くかと思われたが、洋の想像より遥かに後ろ向きな反応だ。それでも男相手の永久凍土に比べれば、人間的な対応には違いない。

 妹の発する無言のSOSを、あえて洋は無視した。助け舟は何艘も出すものではない。教育には静観も必要である。

「あ……う……」

「何よ。名前くらい返したらどう?」

 言い淀む蓮葉の顔に、唐突に晴れ間が差した。

 手を伸ばし、たつきの小さな手を握りしめる。

「蓮葉……畔 蓮葉……よろしく」

「う、うん……うん?」

 戸惑うたつきを横目に、洋は心中でため息をつく。

 ──蓮葉のやつ、挑戦のとこだけ

 言えば面倒になる。この真実は胸に留めようと洋は思った。

「そういや、オレも名乗ってなかったな。

 もう知ってると思うが、魚々島 洋だ。そいつの兄貴で……」

「別に聞いてないけど」

 気さくに語りかけた顔で固まる洋を無視して、たつきは周囲を一瞥する。  

「わたし、畔に勝つためにこの試合に参加してんの。

 他の男どもは眼中にないから」


 それは、大気に亀裂が入るような、衝撃的な発言だった。

 この場に並び立つのは《神風》候補の面々だ。

 自他ともに闇の天才と認める、怪傑たちが揃う舞台である。

 その全てを愚弄するような傲岸不遜。唯我独尊。

 必死に浪馬を抑えていた文殊が、諦めかけたのもむべなるかな。

 

 しかし予想に反して、誰も動こうとはしなかった。

 たつきの口ぶりが、あまりにもだったのだ。

 殺気も覚悟も気負いもない。「コンビニ寄る?」程度の気安い雰囲気。

 それがかえって「まさか」と思わせた。

 あの畔と八百万の死闘を見た直後に、そんなことが言えるわけがない。

 きっと別の意味合いだろう──そんな深読みをさせるほどに。

 宮山たつきは、底なしの馬鹿者なのか。それとも底知れぬ実力者なのか。


「それでは皆さま、ご解散ください。

 この場はこれより、補修作業に入ります」

 忍野の宣言と同時に地下道の一角が開き、多勢の作業員が機材の搬入を始めた。《天覧試合》による破壊を想定し、準備していたのだろう。朝までに補修が済むとはさすがに思えないが、最速で作業を進める腹積もりは伺える。

 たつきの地雷発言を処理することなく、一同は三々五々、それぞれの塊になって帰り支度を始めた。


「ところで洋さま。蓮葉さまの治癒はよろしいのですか?」

 丸い背中にそう声をかけたのは、八海である。

 そう言えば浪馬とたつきに絡まれ、蓮葉の治療を忘れていた。本人は至って平気そうだが、どんな後遺症が出るかわからない。

「おい蓮葉。一応治してもらえよ」

 そう言った洋は目を丸くした。唇に手を当て近づく白衣の少女を、蓮葉が明らかに警戒している。仕舞いには猫のような敏捷さで、洋の背後に隠れてしまう。  

「おいおい、そんなにビビらなくても」

 浪馬同様、体に蟲を入れるのが怖いのか。それにしても反応が過剰すぎる。洋や浪馬が施術されているのは見たはずだが。

 一つ思い当たるとすれば、忍野と行った選抜戦だろうか。《白銀さま》の不死身を目の当たりにして、蓮葉は明らかに恐怖していた。トラウマになっても不思議はない。

 ──なんで、その記憶は残ってるんだ?

 奇妙に感じるが、考えて答えが出るわけでもない。

「ええと……どうしましょう。無理強いは致しませんが」

 洋は振り返り、改めて蓮葉の負傷度を見て取った。

 あれだけの激闘を経て、出血をともなう外傷は一つもない。浪馬もそうだが、恐るべき防御術とタフネスである。目に見える最大の損害は浪馬に断たせた黒髪で、それも房の一部に過ぎず、ヘアスタイルに目立った変化はない。

 一番の懸念は《誉石切ほまれのいしきり》による体内へのダメージだが、こればかりは洋には診断しようがない。何度か蓮葉に問うも、頑なに首を横に振るばかりで、最後は洋が折れた。我ながら甘いと思うが、畔の身体からだと《妙薬》を信じた形だ。

 

「──貴様の弱点は妹だな。

 問題は、弱点の方が強いということだ」

 背後で呟いたのは、覆帯に表情を隠した烏京だった。

「そりゃあ結構なこった」

「──どうかな。

 雌虎を倒せずとも──貴様を揺さぶることは出来る」

「悪かったな、ちくしょう」

「試合に遅れた件もそうだ──妹絡みだと貴様の脳は緩む。

 ──悪知恵だけが取り柄の分際でな」 

「間に合ったんだから、そこはもういいだろ。

 おかげで にも逢えたじゃねーか」

「──怪我の功名を威張るな」

 睨み合う二人だが、引いたのは洋の方だった。

「ま、おまえが言うように、確かに反省材料だ。

 畔の技を禁止できない以上、オレが慣れてくしかねえ。

 二度と『してやられた』とか言われねえようにな」

「──何の話をしている」

「はぁ? おまえが言ったんだろ。

 浪馬に加勢して、オレに駄目押ししたじゃねえか」

 烏京の双眸が、冷ややかに洋を見据えた。 

「──勘違いしているようだな。

 俺が指摘したのは、口吸いの件ではない」

「じゃあ何の話だよ」

「──八百万は敗北したが、ただ負けたわけではない。

 《最高傑作》の不敗神話を崩してのけた──そういうことだ」

 洋は沈黙した。

 烏京の言わんとするところを、ようやく悟ったのだ。

「今ごろ気が付いたか──貴様の弱点はやはり妹だな。

 《誉石切》からの詰めを誤らなければ、勝者は八百万だった。

 死合いに『もし』はない──だが、次に死合う者に道を拓く。

 ──《最高傑作》、されど《失敗作》。

 何人も敵わぬ怪物ではない──細くとも勝ち筋は在るとな」


「──特に、貴様と八百万が推す、あの金髪の男。

 奴は間違いなく、そう考えるだろう──

 奴が八百万と手を組むなら──盤面が変わるぞ」


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