【二幕】畔 蓮葉 VS 八百万 浪馬 其の七
それは、ひどく耳障りな笑い声だった。
狂乱と傲慢。挑発と威圧。相克する不協和音が地下空間にこだまし、逃げ場なく
止めどなく
「まるで人の皮を脱いだようだな」
雁那のつぶやきは、その場全員の代弁だった。
忍野と洋が視線を合わせる。言葉にせずとも伝わる。
この試合、真に危険なのはここからだ。
忍野の手が鯉口を切り、洋の手に《鮫貝》が滑り込む。
それにしても、と洋は苦笑いする。
蓮葉の苦境にあれだけ取り乱した自分が、今は浪馬を殺させぬことに心痛している。これぞシーソーゲームだ。立会う忍野の心労は如何ばかりか。
とくにこの一戦は、双方ともに耐久力が常軌を逸している。《鯰法》による不死身は全貌がつかめず、蓮葉に至っては人間ではない。この二人の生死の境を見極めるなど、神ならぬ者には不可能だろう。《鮫貝》の出番は、おそらくない。
洋に出来るとすれば、妹との絆を信じることだけだ。
「……殺すなよ、蓮葉」
兄の声が届いたか、ぴたりと哄笑が止まった。
されどその目は落ち窪んだまま、洋を見ようとしない。立ち籠める殺気のオブジェを従えたまま、浪馬に顔を向ける。
「──呑まれんなよ、浪馬!」
珍しく声を張り上げたのは、文殊だった。
試合前の嫌な予感は的中した。浪馬が追い詰めた少女は窮鼠ではない。規格外の怪物だったのだ。根拠はなくとも、総毛立つ肌がそれを確信させる。
本当は「逃げろ」と言いたい。だが、それは出来ない。
文殊に出来るとすれば、傍から悪友を応援するぐらいだ。
「あーン? わかってるッてーの」
こちらは、浪馬の返事があった。
「そっちこそ、ビビってンじゃねーゾ、文殊ゥ。
目玉の数じャあ、オレの方が有利だッつーの。
ドクガンリュー浪馬様の妖怪退治はこれからだゼ?」
文殊は驚いた。浪馬は本気だ。大真面目だ。
この期に及んで、恐怖どころか気後れ一つ覚えないとは。
馬鹿を通り越して、もはや英雄めいたクソ度胸である。
蓮葉の変貌に冷え切った体が、じわりと熱を取り戻した。
「……負けんやないぞっ!」
拳を握り、思わず叫んでいた。
「今度こそ、地獄に送ってやンぜッ!」
エンジンが吼え、浪馬のバイクが飛び出した。
蓮葉の立つ壁際まで、ざっと20メートル。
あまりの急加速に白黒の床が混ざり、石柱が吹き飛んでいく。
正面の小さなステージ上に蓮葉。そのすぐ後ろに壁。
チキンレースなら自爆必至だが、浪馬には通常運転。敵には空前の突撃だ。
右手に槍を構え、浪馬は蓮葉を見定めた。
女の真っ赤な瞳は焦点が合っていない。見えないか、ろくに見えていないか。
加えて武器もない。《化け烏》は、浪馬の遥か後方に置き去りのままだ。
視力も、盾となる大鋏もない状況で、機馬の槍を防ぐ手立てがあるものか。
ステージを間合いに捉え、浪馬は槍を突き入れた。
両手を必要とする《千本桜》は、機乗からは使えない。
放たれた突きは一撃だが、命知らずの加速を乗せた未曾有の代物だ。
対する蓮葉を目の当たりにして、浪馬は眉を上げた。
視線が明後日を向いている。視覚以前の問題だ。
まさかこの一撃を、見もせずに避けるつもりなのか。
槍を突く腕に力がこもる。
蓮葉の胸を貫いた──いや、ぶち抜こうとした、その瞬間。
身を捩って躱した蓮葉の腕が、槍を捕らえた。
伸び切った柄に肢体を這わせ、蛇のように絡みつくと、一瞬で伝い登る。
背後に降った女の体温に、浪馬は戦慄した。
だが、今は対処できない。手を打たねば壁に激突する。
空を切った槍穂が壁に届くと同時に、浪馬は《鯰法》を放った。
衝突必至だったバイクが急減速を見せ、ナチュラルに旋回する。
細長い長方形である《曽根崎地下通路》、その短辺である正面の壁から右に折れ、長辺にぶつかる寸前で再び右折。長い壁沿いに加速する──背後に蓮葉を乗せたまま。
その白い腕が、浪馬の顎の下を潜り、首筋に食い込んだ。
「──バイクに乗り移っての裸締め。
《化け烏》を捨てたのは──これが理由か」
「しかし果たして、《鯰法》に締めが通じるものか。
魚々島 洋、君はどう思う?」
烏京と雁那に水を向けられ、洋は鼻を鳴らした。
「今はおしゃべりする気分じゃねぇ。
だがまあ……たぶん通じないだろうな」
珍しく言葉少ない洋に、二人は含みある表情を交わした。
少なくともこの三人は、ある程度まで《鯰法》を理解している。
「確かに、ハサミと同じ原理で防げるか」
「──同じではない。
腕は解けていない──締めは成立している。
おそらくだが──《鯰法》では弱い力は流せない。」
「つまり、これで決まると?」
「痴れ言を──奴には得物がある。
それにあの場所は、奴の
如何に畔であれ──分が悪いはず」
「なるほど。魚々島の『通じない』は、そういうことか」
二人の議論の間にも、洋の目は二人を乗せるバイクを追い続ける。
蓮葉に首を締められながら、浪馬は考える。
密着から体当たりを放つ《
とはいえ、この程度はピンチの内に入らない。
頸動脈を締め上げる蓮葉の腕に、浪馬は《鯰法》を使った。
《鯰法》とは、要するに《力の伝導》である。
理屈は浪馬にもわからない。生まれもった才能だからだ。
外から受けた衝撃を、電流に対するアースのように逃がすことが出来る。
《
流された力は音を失い、勢いはゼロになる。バイク制御時は流す力を加減する。
ハサミを止めるのも原理は同じだ。
その形状から、ハサミによる攻撃は必ず肉体を挟む。同時に迫る二つの力を、《鯰法》で流して対の刃に送り込めば、労せずにハサミを弾ける。挟む力の逆利用と言えばわかりやすい。天敵とはよく言ったものだ。
そしてそれは、首絞めにも適用される。
首に絡めた腕の内側に《締める力》をぶつけ合わせ、緩んだ隙に一息つく。《鯰法》が使えるのは一瞬だが、繰り返すのは苦ではない。そして息継ぎが出来るなら、首絞めは脅威でも何でもない。
「どうせ
軽やかに槍を回すと、浪馬は穂先を自身に向けた。
間髪入れず突き入れる。狙いは巻きついた蓮葉の腕だ。仮に首に刺さっても《鯰法》で流せば、それで済む。
紫電の反応で腕を
浪馬の体越しに《誉石切》を喰らうのを警戒してだろうが、浪馬は滅多にその使い方をしない。流す対象がもし離れれば、自滅確定だからだ。
代わりにハンドルを切り、横に身を投げ出した。
《そねちか》の床が悲鳴を上げ、焼けたゴムの臭いが立ちこめる。
バイク後部を勢いよく滑らせるドリフト走行──両手を離して立っている蓮葉はひとたまりもない。
そう思った観衆の目が、あんぐりと見開かれた。
蓮葉が落ちない──姿勢を崩しさえしない。
両手を宙に突き出し、斜めに脚を伸ばしたポーズは水上スキーを彷彿とさせるが、このアトラクションにはロープもボードもない。それでいてボルトで固定したマネキンのような安定感。いや、それ以上だ。
その秘密は、超人的な体幹と足指の強さにある。
洋は思い出した。
蓮葉と出会ってまもない頃、買い出しに出た商業施設で、ともに誘拐犯を退治したことを。逃げる犯人の車の屋根に、蓮葉は平然と乗り続けた。指が自由になるグラディエーターサンダルを履き続けるのも、これが理由だ。
「ウォオおおおおォ──ッッ!!」
絶叫しながら、浪馬が続けざまにドリフトを敢行した。
並び立つ柱の間を縫うように蛇行し、バイクの尻を左右に、蓮葉ごと振り回す。後には煙幕を思わせる白煙がたなびき、さながらサーキットの様相を呈する。
それでも落ちない──張り付き続ける。
地下通路の長辺を走り切り、前方に短辺が見えて来る。浪馬は渾身のドリフトで旋回した。
同時に振り返りも見ず、横殴りに槍を振り回す。
背後の圧に押されたやけくその攻撃だが、誰が浪馬を責められようか。死神が背中から離れないのだ。平常心を保てる方がどうかしている。
そして──それを待ちかねていたように。
槍を掻い潜った蓮葉が、その柄を握りしめた。
ロープのように引き寄せるなり、再び浪馬の背中に密着する。
強く押し付けられた丸い膨らみを意識する前に、左右の腕を捕られた。
触れているのは、どちらも肘関節だ。
親指が肘の内側のくぼみを、他の指が前腕の付け根を抑える。
痛みはない。マッサージのように、優しく揉んでいるだけだ。
ただそれだけなのに、両腕の感覚がなくなった。
突如、バイクが速度を上げた。右手がアクセルを全開にしたのだ。
浪馬は愕然とした。
加速したのは自分ではない。
右手だ。右手が勝手に動いて、バイクを操縦している!
左手がひとりでに槍を捨て、クラッチを握った時、気が付いた。
槍とバイク──二つの武器を今、自分は奪われたのだと。
残された武器は、もはやない。
触れる程度の力に《鯰法》は使えない。
ブレーキは握れず、飛び降りることさえ許されない。たとえ意図せずとも、自身の両手がハンドルを握っている限りは。
「…………《小袖の手》」
人ならぬ者が、耳元でそう囁いた。
次々とシフトを上げ、浪馬の愛機は疾駆する。
走る処刑台と化したそれは、《曽根崎地下通路》104メートルで出せる最高速を振り絞った後、引き返した先のステージに突っ込んで宙を舞い──
地下全体を揺るがす、
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