【二幕】畔 蓮葉 VS 八百万 浪馬 其の五



 それは、不可思議な一撃だった。


 爆走するバイクから突きながら、音もなく。

 エンジンブレーキをかけたように、急減速し。

 不可視の波紋が地下通路全体に広がるような、奇妙な感覚があった。


 観衆全員が足裏に痺れを覚える中、抜け目なく足を浮かしたのは、宮山 たつき唯一人だ。

 ならば、もっとも至近にいた蓮葉はどうか。



 曇りなき双眸は、輝きを失くし色褪せ。

 滑り落ちた大鋏は、弔鐘ちょうしょうの音色で響き。

 最後は自らも、冷たい床に崩れ落ちる。


「八百万鯰法──《誉石切ほまれのいしきり》」


 弔辞を残して遠ざかる、機馬武者の黒い背中。

「──ッ! 蓮葉ァッ!!」 

 血相を変えた洋の叫びが、地下通路を震わせた。

 

 《神風天覧試合》立会人、空木 忍野は、人知れず怖気おぞけを抑える。

 《誉石切》──あの技の威力は、骨の髄に刻まれていた。

 二度と味わいたくない、思い出したくもない痛恨の記憶である。

 あれは二ヶ月ほど前、八百万 浪馬を選抜した際のことだ。

 道々のともがら屈指の大組織、八百万宗家の連絡を受け、忍野は福岡へ飛んだ。そこで一族代表に推された浪馬を紹介された。知己はなく初対面だった。

 髪を蛍光ピンクに染めた礼儀知らず。ヤンキー上がりの腕自慢。

 最初の印象はそんなところだ。

 正直、《神風》候補に相応しい人格も技量も感じなかった。何より、当人のやる気が伺えない。父親である当主に呼び出され、嫌々顔を出したのが、ありありと見て取れる。当主に念を押したが、代表は浪馬だと譲らない。

「腕が足りなければ殺していい」とまで言われ、忍野は承諾した。

 数日後、公園で一人になった浪馬に声をかけ、選抜が始まった。

 その夜の浪馬は、異常に荒れていた。

 バイクに跨ったまま、試合に臨んだのも驚いた。実戦経験豊富な忍野だが、この現代に騎馬武者、ましてを相手取ったことはない。

 とはいえ所詮は素人戦法。真の武をもってすれば、返り討ちは造作もない。

 その考えが甘かったことを、ほどなく忍野は思い知ることになる。

 浪馬の機馬戦術は我流だが、付け焼刃ではなかった。バイクを操りながら槍で戦うという超高等技術を、彼なりに追及し磨き上げている。我流故に動きこそ粗いが、八百万仕込みの槍術がそれを補い、逆に対戦者を惑わせる。

 見かけによらずプロ裸足の操縦技術は、騎乗にありがちな攻撃後の隙を作らず、狭い空間でも不自由なく戦うことを可能とする。

 鉄砲が広まるまで無敵を誇ったという、騎馬武者の脅威。

 それを凌駕する機馬武者を前に、忍野は防戦を余儀なくされた。

 樹木の裏に隠れ、浪馬をやり過ごそうとした時、それは起こった。

 血液が沸騰する感覚。臓腑が捻転する感触。激痛に蒸発する感情。

 何が起こったかもわからないまま、忍野は崩れ落ちた。

 《誉石切》。

 今ならわかる。これだ。自分はこれを喰らったのだ。

 《白銀しろがねさま》を身に宿し、不死身と謳われる忍野が、そのまま立ち上がることすら叶わず、勝負は決した。

 回復には二日を要した。相当数の《白銀さま》が、あの一撃で失われた。常人ならば三回死んでお釣りが来る。

 以来、忍野は浪馬に雑魚扱いされ、今に至る。

 忍野に異論はない。だからこそ、浪馬を《神風》候補に選んだのだ。この恐るべき才の持ち主を、《天覧試合》の檜舞台に上げるために。

 そして今、忍野の見出した若き怪傑は、最強の呼び声高い畔を相手取り、大金星を挙げようとしている。

 忍野は、蓮葉の元へと駆け出した。

 あの技の威力は知っている。蓮葉が息絶えていてもおかしくない。

 浪馬は《天覧試合》失格となるが、伝説に名を残すだろう。

 もし息があっても、蓮葉が立ち上がれなければ、浪馬の勝ちが確定する。

 どちらになるかは、忍野にもわからない。

 いずれにせよ、決着の時だ。立会人として見届けねばならない。


「石柱越しに威力を伝えた──だと?」

 烏京の声には、半信半疑の響きがある。

 しかし現象だけを見れば、解釈はそれしかない。

 石を打てば、確かに音や振動は通る。だが、それとこれでは話が別だ。こんな技が自在に使えるなら、防御も防具も無為と化す。鎧の上から生身を、車の外から乗員を打つことすら可能ではないか。

 そこまで考えて、烏京ははたと気がついた。

 これまで目にした浪馬の技の数々。そこから帰納される結論はただ一つ。

 間違いない──《鯰法》の正体とは、これだ。

「おい、魚々島──」

 しかし烏京の同盟相手は、それどころではなかった。

「蓮葉! 聞こえるか、蓮葉ァ!」

 床に膝をつき、必至でタイルを叩くさまは、完全に動転している。

 万事に鷹揚で揺るぎない、普段の洋からは信じがたい姿である。  

 否。信じがたいのは洋ではなく、この状況だ。

 烏京を含む観衆の誰一人として、こんな展開は予想していなかった。

 畔の《最高傑作》相手に、若輩の浪馬がどれだけ食い下がれるか。

 勝負の見どころは、せいぜいその一点だと思っていたのだ。

 しかし蓋を開けてみれば、八百万代表の軽薄な男もまた、怪物だった。

 不死身に等しい《鯰法》。槍衾やりぶすまを自在に築く《千本桜》。障害物越しに敵を破壊する《誉石切》。

 特に《誉石切》は初見殺しだ。対峙したのが烏京でも後れを取った可能性がある。浪馬をあなどっていた試合前の烏京なら、なおのことだ。

 畔 蓮葉は強かった。浪馬を何度も出し抜き、反撃を加えた。ただ、その全てを《鯰法》に阻まれ、必殺の《誉石切》は避けられなかった──それだけの話だ。

 その蓮葉は、倒れ伏したまま、微動だにしない。

 烏京の読みが正しければ、バイクと衝突した以上のダメージのはず。

 敗北は時間の問題だった。忍野次第では今すぐ終わっても不思議はない。

 烏京は、並び立つ候補たちに目を移した。

 悲痛な声で妹を呼ぶ洋以外は、完全に度肝を抜かれている。浪馬にくみする文殊でさえ、そうだ。仮面を被った荒楠の顔はいつも通り謎だが、その巨体は微かに震えている。

 いや。洋以外にもう一人、例外がいた。

 巫女装束に身を包む金髪の少女──宮山 たつきだけは平静を保っている。 

「──何を見ている?」

 烏京には珍しく、自ら声をかけたのは、その目が気になったからだ。

 すでに浪馬の分析に入った雁那に対し、たつきの視線は蓮葉から動かない。

 兄のような悲嘆もなく、淡々と眺めている。それが引っ掛かったのだ。

「べっつに……、って思っただけ」

「──どういう意味だ?」

 ふいに、洋の声が歓喜に彩られた。

 振り向いた烏京は、思わず息を呑んだ。

 蓮葉が、身を起こしたのだ。

 床に手をつき、生まれたての獣のように、ゆっくりと。

 床まで垂れた長髪は一部が千切れ、横顔が覗いている。

 月白つきしろの肌を涙が伝う。白い床に落ちる。雫は紅かった。血の涙だった。

「もういい、蓮葉! これ以上戦わなくていい。

 後はオレがやる……オレが《神風》になってやる!」  

 駆け寄った洋が、かつてない剣幕で言い放つ。

 同時に、忍野が二人の傍に立った。蓮葉の様子を見定める。

 身は起こしたものの、蓮葉の両手は床から離れない。細い肩は震え、《化け烏》は投げ出されたままだ。

 両目に出血が見られるが、吐血はない。内臓の損傷は深刻ではない。

 動けないのは骨格の歪みのためだ。

 忍野は経験から知っている。《誉石切》は内臓に加えて骨まで狂わせる。強い歪みの生じた関節は正常に稼働せず、足腰の立たない老人のような挙動を余儀なくされる。骨接ぎなどの専門医の手を借りなければ、簡単には戻らない。

 一方の浪馬は、すでに壁際で折り返し、バイクの上から虫の息の対戦者を見下ろす。アクセルミュージックを吹かしながら忍野の判定を待つ姿には、早くも勝者の風格が漂っている。

 忍野は逡巡した。

 もはや蓮葉は立てそうにない。浪馬は無傷で、《必至》の判定が妥当だ。

 洋も蓮葉の敗北を認めている。これ以上続ける必要はどこにもない。

 だが──蓮葉は畔の《最高傑作》である。

 その強さもまた、忍野はよく知っている。

 何より、蓮葉には意識がある。確認すべきは戦意の有無だ。

「お……に……ちゃん……」 

 少女がつぶやいた。血の混じったような声だった。

「見て……くれ……た……?」

「あ? ああ。見てたぞ、ずっと」

 狐に摘まれた気分で、とりあえずうなずく洋。

 妹が何を言いたいかわからない。意識が混濁しているのだろうか。

「よか……た……」

 真紅の筋が残る痛々しい顔で、蓮葉が笑う。

 ふいに、洋は理解した。

「おまえ、まさか……オレの真似を……」

 《開会の儀》に向かう道中、蓮葉に語ったことがある。

 蓮葉を勝たせるため、自分がサポートに回ると。

 蓮葉には「自分のために戦って」と言われたが、烏京戦では結局、相手の技を最大限に引き出すべく、試合を運んだ。

 それと同じことを蓮葉が浪馬にしていたなら、謎の甘さも説明がつく。

 洋が四肢を奪われたように、蓮葉も《誉石切》を受けたというのか。

 思わず、目がしらが熱くなった。

 お兄ちゃん、見てて。

 あのメッセージの意味に、今頃、気付かされるとは。

「……ありがとうな、蓮葉。

 おまえの犠牲、絶対に無駄にしねえ。

 あいつには必ず勝つ……約束するからよ」

「だい……じょ……ぶ……」

 艶やかな大理石の床を見つめながら、蓮葉が天使の微笑を浮かべた。




                              

          「すぐ……終わらせるから」 


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