【幕間】魚々島同盟 ー拇戦遊戯ー
──何故に、こうなった?
卓を挟んで手を握る二人を前に、青沼は考える。
友好の握手、ではない。二人の肘は卓上に据えられている。
緊迫した空気と屹立した親指。卓上に落ちた血の雫。
それは、腹ごなしの軽い提案から始まった。
遅れて現れた青沼を加えた朝食会は、しごく平和に再開した。
「初めまして。私、青沼と申します。
本業はライターですが、洋くんに雇われて情報屋の真似事をしています。
松羽 烏京さん……二つ名は《
松羽流は銃を使わぬ殺しのプロ集団。
中でも《天狗礫》は、若くして屈指の実力者だとか。
《神風》候補とは思いませんでした。よろしくお願いします」
青沼の屈託ない笑みに、烏京は眉を
丸眼鏡に口ひげ。痩せ肩にコートを引っ掛けた、どこにでもいそうな中年男だ。
引っ掛かったのは、その笑みである。
裏世界に精通する烏京は知っている。この世界の住人は、多かれ少なかれ陰を帯びるものだ。例外はズブの素人か、詐欺師に限られる。
──本業が別にあるが故の前者、か。
「……ああ」
ぞんざいに応じ、烏京は朝食に戻った。
この男は洋の持ち駒だ。自分が気にすることではない。
そもそも当の雇い主こそ、異常に陰のない男ではないか。似たもの同士で気が合ったのかもしれない。
「それにしても、すごい指ですねえ」
青沼の賛辞が自分に向けたものと知り、烏京はサンドイッチを運ぶ手を止めた。
手づかみの食事のため、黒手袋を外したその指は長く、鋭い。爪が伸びているのではない。形状そのものが一本の棘のようなのだ。それでいて動きは滑らかで、滞りが微塵もない。
「確かに、改めて見るとすげえな」
洋にも言われ、複雑な顔になる烏京だが、悪い気はしなかったらしい。
「──指は、投げの要だからな。
鍛え込みでは、魚々島にも後れを取らん」
「それは言い過ぎだろ」
「単なる事実だ──」
「試合に勝ったのは、オレだぜ?」
「豚らしい愚鈍さだな──指に限る話だとわからんか」
「指でも負けた覚えはないって話さ。
魚の鱗を素手で取るのが魚々島だ。おまえに出来んのか?」
「──造作もない話だな」
「おもしれえ。見せてもらおうじゃねーか」
あちゃー。内心で青沼はつぶやいた。
洋の根幹には魚々島への崇敬がある。《
そして、普段は大人びた洋が、そこを突かれると存外
普段なら流せる話も、感情的に受け止めてしまう。いわば地雷だ。
さらに悪いことにこの同盟相手、その手の
「オレは親指二本で逆立ちできんぜ」
「オレは指一本でこなせる──人差し指でもだ」
「《鮫貝》を片手で摘んで、ロープ代わりに昇れるか?」
「──鴨居に人差し指でぶら下がり、一夜を明かしてから言え」
際限ない指自慢を聞かされながら、青沼は頭を抱えた。
忍野選りすぐりの《神風》候補も、こうなればそこいらの悪ガキと大差ない。むしろタチが悪いくらいだ。
「じゃあもう、軽く勝負したらどうですかね?
腹ごなしついでに、指相撲か何かで」
「「指相撲……」」
いがみ合う二人が、異口同音に繰り返す。
「軽くですよ? あくまで軽~~く!」
睨み合う二人に、青沼の念押しが届いた様子はなかったが。
かくして、《神風》候補二名による《大一番》が始まったのである。
「えーと。審判は私、青沼が務めます。
使う指は親指だけ。肘はテーブルに置いてください。
相手の親指を3秒抑え込んだ方の勝ち。いいですね?」
「いいぜ」「──問題ない」
朝食を片付けた卓を挟み、洋と烏京は向かい合った。
まずは洋が肘をつける。袖をまくった前腕は、
次いで、烏京。幌のような袋袖を畳み、長い腕を剥き出しにする。洋より細いが、強さとしなやかさを併せ持つそれは、海風に抗う
「蓮葉、ちょっと離れてろ。
そうそう、そこから兄ちゃんが勝つとこ見てな」
「──守れん約束は、しないのが吉だぞ」
早くも火花を散らしながら、両雄は右手を握り合う。
ともに立ち上げた親指は、さながら主人の分身だった。
烏京の方が一節分ほど長い。逆に胴回りは洋が上回る。
妖しく揺れる烏京の指に対し、洋の指は微動だにしない。
「それでは──はじめ!」
試合の立ち上がりは、静かなものだった。
当然ではある。
指相撲では、攻めない相手には指が届かない。先手は常に誘いであり、本命は襲い掛かる指を
青沼もこの
パワーのみ優る洋の戦略は、先手で誘い、烏京の抑え込みを逃れて、逆に抑え込む。これしかない。
そう考えていたが故に、驚いた。
先手を打ったのは、まさかの烏京だったのだ。
長い親指が鎌首を飛ばし、洋の指に牙を突き立てる。
誘いではない。届かせたのだ。洋の親指に。
流石に取りついたのは指の根元だが、恐るべき指の長さだった。
とはいえ、指の根元を押して、指が伏せる道理もない。
むしろ自陣まで伸びた敵の指は、隙だらけの状態だ。洋にすればたなぼたのようなもの。この機を逃す洋ではないはず──
しかし、またしても青沼の予想は外された。
洋の親指が、じりじりと押し込まれる。下ではない。横へだ。根元を押す烏京の圧によって、あらぬ方向へ指が曲げられていく。
洋の指が、みりみりと音を立てた。
烏京の狙いは制圧ではなかった。
破壊だ。親指をへし折れば、後の制圧など必要ない。
「……オレと、力で張り合おうってか?」
けれど、不敵に笑う洋。同時に骨の呻きが止まる。
洋の親指が横殴りに飛んだ。烏京の指の横っ面を叩き、そのまま押し返す。
「くっ……ッ!」
烏京が肩を強張らせ、腕に力を込める。
交差した二本の指は、アーチを形成したまま、静止した。
二人の前腕が膨張している。力の拮抗による膠着状態だ。
「指相撲でがっぷり四つ……初めて見ました」
青沼の感想も呆れ気味だ。
膠着は長くは続かなかった。力で優る洋が勢いを増し、烏京を押し始める。
その逆転の機を狙い澄まし──烏京の指が閃いた。
洋の指の下をくぐり、逆サイドへ離脱する。つっかえを失くした指はともに弾かれ、鋭く左右に別れた。
「……やるじゃねーか、烏京」
その言葉に手元を覗いた青沼は、あっと声をあげた。
洋の親指から、血が滴っている。爪の左生え際、皮膚の薄い部分だ。
出血量は少ないが、次々とこぼれ落ちる雫が、卓を紅い水玉で彩っていく。
「指相撲で流血……」
青沼の感想は、もはや絶句の域である。
「爪だな。それにオレの力を逆利用しやがった。
鍛えちゃいるが、そこ狙われると流石に切れる。恐れ入ったぜ」
「──恐れ入るのは、ここからだ」
予言めいた言葉とともに、烏京の指が伸びる。
今度は洋も反応した。逃げる間を与えず、烏京の指に圧し掛かる。
力に勝る洋が、烏京を完全に抑え込む展開。
決したと見えた勝負は、烏京の予言通りに
ズルゥ! 烏京の親指が、無造作に危機を脱したのだ。
危機、転じて好機。烏京の指が踊り、逆に洋を抑え込む。
「──1!」
そうか。血だ。青沼は理解した。
烏京の狙いはダメージではない。血で洋の指を滑らせ、脱出したのだ。烏京自身は巧妙に、血を避けて抑え込んでいる。
「──2!」
さすがの洋でも、ここからの逆転は不可能だ。抑え込みの圧で、出血が激しくなっている。流れる血が、握り合う指の隙間にしたたり落ちていく。
最後のカウントを発するべく、青沼が息を吸い込んだ、その刹那。
洋が、握った手に力を込めた。
「──!」
突如、烏京が片目を閉じた。
指元が緩む。洋の指が抜け出す。
血まみれの指腹を擦って反転、烏京の上に立つ。
その指が、ふいに斜めに傾いた。
指だけではない。体もだ。洋自身が不自然に傾き、浮かされている。
──手首を極めやがった。
力に頼らぬ、痛みと反射を利用した、柔術の投げ。
自ら飛ばなければ、手首が外れる。
青沼の理解を置き去りに、洋は地を蹴った。
手首を軸に
転じて、相手の腕を捻り返す効果もある。
──《仙骨エンジン》!
超反応の切り替えしに、烏京は内心で舌を巻く。
青沼の反応を待たず、こちらも地を蹴った。
やはり腕越しの宙返りだ。反転した手首を、さらに反転させる。
しかし有利なのは、先に着地した洋の方だ。
空中に舞う烏京の指を捕らえ、巧みに抑え込──
「……!」
突如、洋が片目を閉じた。
烏京の指を抑えきれぬまま、その着地を許してしまう。
卓を挟んだ元の位置に戻り、対峙する二人。
どちらも片目を閉じたままだが、烏京の目から垂れるのは、一筋の紅だ。
「拳を握り込み、血を飛ばしたか──水鉄砲のように」
「たまたまだろ」
魚々島の手遊び──《
「おまえこそ、跳びながら唾の目潰しかよ」
「──たまたまだ」
松羽流
睨み合う両雄。抜き身の刃のような闘気が火花を散らす。
「いいから続けるぞ──勝負はこれからだ」
「上等だ。こっからは本気で行くぜ」
──何故に、こうなった?
卓を挟んで手を握る二人を前に、青沼は考える。
怪傑たちの闘争心を甘く見過ぎていた。
この調子でエスカレートすれば、同盟すら危うい。
指相撲の提案者として、事態を収拾しなければならない。
しかし、彼らを止める手立てがあるものか?
周囲を見回す青沼の目に、退屈そうな蓮葉の姿が映り込んだ。
「……蓮葉ちゃん。
お兄ちゃんがピンチみたいですよ」
後に青沼はこう語る。
あれが蓮葉と意思疎通できた、最初の会話だったと。
蓮葉の乱入によって、指相撲はたちどころに中断し、うやむやになった。
魚々島同盟、初の危機は、こうして回避されたのである。
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