【幕間】魚々島 洋 ー千客万来ー 其の四
じき暁を迎えんとする、夜の
純白の夢舞大橋の上で、洋は立ち尽くしていた。
ドロ婆の表情は読めない。
面の下なので当然だが、仕草や声の情報も消されている。嘘を見抜くのは洋の特技だが、海千山千のドロ婆だけはお手上げだ。
それでも、経験から知っている。
この畔の顔役は、肝心な場面で嘘を言う相手ではない。
「……何でだ?
何故、蓮葉は、その乳母を殺した?」
「三つ目の質問だが、サービスしてあげるよ。
おまえさんの死活を分かつ情報だからね」
温情を取り戻した声に、洋は安堵した。
「あの娘が捨てられたからさ。
乳母は蓮葉を見捨て、逃げ出した。
それを知った蓮葉は、乳母を追い、手にかけたんだ」
「
「ま、そういうことさ。
坊も
「なに言ってやがる。
最初に言わない時点で、ハメる気満々じゃねーか」
腕組みする洋に、ドロ婆は面を外し、笑みを見せた。
「おまえさんを信用してたのさ」
「烏京の顔でそれはやめてくれ。違和感がすごい」
「そりゃ悪かったね。
しかしまあ、思ったより動じていないじゃないか。
予想の範囲だったかい?」
「まあな。
スイッチの入った蓮葉は、オレ以外には止められない。
蓮葉のスイッチがオレに入ったら、誰が止めるんだって話になる。
乳母に起きたのはそういう話だろ? 同情はするけどな」
「解決策があると思うかい?」
「オレは蓮葉を見捨てない──これで解決だろ」
真顔の洋をまじまじと見たドロ婆が、ふいに吹き出した。
「烏京の顔でそれはやめてくれ」
「ひょっひょっひょっ、悪かったね。
急ごしらえとは思えない、堂に入った兄馬鹿ぶりじゃないか。
安心したよ。あたしの見込んだ通りだ」
「オレの何を見込んだんだよ」
「末っ子てのは兄になりたいものさ。違うかい?」
洋は舌打ちした。確かに否定しきれない。
「強さじゃ蓮葉に遠く及ばない兄貴だけどな」
「強さは万能の尺じゃない。
それを一番よく知ってるのは、坊のはずだよ」
「そりゃあそうかもだが」
「これは、あたしの勝手な希望だがね。
坊なら蓮葉を、《失敗作》から人間に戻せると思ってる。
能力じゃない。精神の自立って意味さ」
「即席兄貴に期待しすぎだろ。
オレはアニー・サリバンじゃねーんだぜ」
「重責は承知だが、坊しかいないからね。
それともおまえさん、蓮葉と添い遂げるつもりかい?」
「言われりゃ、そうか」
高欄に背をあずけ、洋は考え込んだ。
《神風天覧試合》を機に出会った兄妹だが、たとえ試合が終わろうとも、二人の関係は続いていく。そして乳母の話が本当ならば、蓮葉からは永遠に離れられない。呪縛と言っても過言ではない関係が生涯続くのだ。
けれど。
その事実に、まるで危機感を覚えない自分がいる。
それはそれでまあいいか。どこかでそう思っている。
「……なるほどな」
洋は思わずほくそ笑んだ。これが兄馬鹿という奴か。
「ま、その話は置くとしようか。
《天覧試合》はどうだったんだい。
初戦に勝ったとはいえ、手強そうな顔ぶれだったんだろ?」
「どうせ調べ終えてんだろ。オレに聞く意味あるか?」
烏京の変装の出来栄えを見れば、一目瞭然である。恰好はともかく、京都御苑に居合わせでもしなければ、あんな会話は絶対にできない。参加者に
「坊の見識を聞きたいのさ」
「そうだな……知ってると思うが、オレと烏京の試合は熾烈だった。
ハンデはあったが、お互い死力を尽くした、好勝負だったと思う。
けど、それを見た他の候補者は、誰一人臆していなかった。
「蓮葉と比べて、どうだった?」
「うちの妹が、一番化け物だよ」
洋は即答した。
「直感だが、オレ以上はいても蓮葉以上はいない。
まあ相性や運はある。勝負に絶対なんてないけどな」
「坊の勝算はどうだい?」
「勝算はわからねえが、面白い勝負になるとは思うぜ。
ま、蓮葉さえ盤石なら、オレの勝ち星なんておまけだ。
魚々島として負ける気なんてねえが、気軽にやらせてもらうさ」
「確かに、お気軽な道具を使ってるじゃないか」
ドロ婆が指したのは、洋が胸につけた万歩計である。海中で生死を賭す日常を修行とする魚々島からすれば、あまりに平凡なアイテムだ。
「走り込みは基本だろ?」
「ふうん。まあいいさ。
道具と言えば、新型の《鮫貝》が完成したそうだよ」
「おっと、それを待ってた」
「最終チェック後に郵送するから、試用後のレポートをよろしくってさ」
「ありがてえ。次の試合には間に合いそうだ」
車の走行音が聞こえてきた。
「さて、用件は以上だ。そろそろお暇するよ。
《天覧試合》、がんばりな。蓮葉のためにもね」
「ああ。ありがとよ、婆さん。また会おう」
片手を上げた烏京が、後方に跳んだ。
重低音を響かせ迫るトラックの荷台に手を伸ばすと、見る間に屋根まで登り、見えなくなる。
「勝負が気になる辺り、畔も魚々島と変わらねえのな」
洋の即答を聞いた時の、満面の笑みを思い出す。
顔こそ烏京だが、あの表情は間違いなくドロ婆のものだ。
「さあて、オレも帰るか。
ギリ夜明け前には家につけんだろ。
蓮葉に殺されちゃ、かなわねぇからな」
にやりと笑うと、洋は再び、夢舞大橋を渡り始めた。
東の空が白み始める頃、洋は廃スタンドに帰り着いた。
四方を囲むフェンスに近づくより早く、足を止めたのは理由がある。
廃スタンドの前に立つ、烏京の姿に気が付いたからだ。
「なんだよ。
何か言い忘れでもあったか?」
「言い忘れではないが──提案がある」
「提案って、蓮葉の話か?」
「──何の話だ」
「聞いてるのはオレだろ」
ともに首を傾げながらも、切り出したのは烏京だ。
「では聞け、魚々島 洋。
貴様に提案というのは──」
「……ちょっと待て。
おまえもしかして、本物の烏京か?」
「おまえこそ、本物の魚々島か?
豚なりに頭の回る男だと認識していたが──」
「ああいや! すまねえ!
まさか、本物が来るとは思わなかったからよ」
「突然
買い被りだったようだな──よもや寝惚けていようとは。
やはり提案の話はなしだ。
「待て待て、落ち着け!
ああクソ、ややこしいことになりやがった!」
眉をしかめる烏京を前に、洋は頭を搔きむしった。
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