【幕間】魚々島 洋 ー千客万来ー 其の三
その頃、洋は夢舞大橋を引き返していた。
走るのはやはり車道だ。今度は対向車線ではない。
まばゆい港の灯が遠ざかり、海上を渡る橋は闇に呑まれていく。
夢舞大橋は全長876. 6メートル。夜景こそ美しいが照明はまるで足りない。じき明け方を迎える、この時間帯ではなおさらだ。
──来るなら、このタイミングだな。
洋の想定する待ち人は、当然ながらドロ婆である。
行きは空振りだったが、帰りも格好のタイミングのはずだ。
アーチを半ばまで登ったところで、後方にトラックのヘッドライトが現れた。
洋の真後ろに迫る。スピードは落ちない。願ったりだ。
後方から迫る車を、ノールックから皮一枚でかわす。
本気の《
ふと蓮葉とやったキャッチボールを思い出す。
回転するボーリングの球を、洋の妹はいとも容易く、背面キャッチしてのけた。
烏京の
いや──洋は脳内でかぶりを振る。
あれはそれ以上に高難度だ。礫は疾いが見えはする。背後のトラックは音や振動を読み取れる。しかし回転する球には音も殺気もない。視覚を用いず、正確な状態を把握するのは至難の業だ。蓮葉が異常なのだ。
マジで背中に目がついてんじゃねーか?
あながち冗談でもない。本当に可能性があるのが畔の恐いところだ。
血縁関係にある魚々島ですら、畔の全貌は知るところにない。《最高傑作》と呼ばれる蓮葉なら、なおのことだ。
謎多き妹の秘密を知るには、ドロ婆に頼る他にない。
思いに耽りながら二台目のトラックを
トラックの上から放たれた閃光が、洋を襲った。
「──!?」
《海蛍》の回転から、咄嗟にもう一捻り。
間一髪で避けた弾が、道路に当たって砕け散る。
銃弾ではない。石だ。速さと精密さを兼ね備えた、
「まさかだろ」
通過するトラックの屋根から降り立つ長身を見て、洋は思わずつぶやいた。
星のない夜でも、見まがうはずがない。
覆帯で口元を隠した黒衣の男は、昨夜戦ったばかりの松羽 烏京だった。
ドロ婆の変装ではない。今の礫は女の威力ではなかった。精密さも速さも、変装でごまかせるものではない。
「何を驚いている──次と言ったのは、貴様だ」
「確かに言ったがよ。昨日の今日とは思わねえだろ」
「いかにも豚らしい愚鈍さだな──油断とは好都合。
ここでの《場外》は、《陸亀》の貴様にとって死を意味する。
──今度こそ、オレの勝ちだ」
「地の利ってわけか。
確かに、目のつけどころはいいな」
袋袖を胸元に構える烏京を前に、洋は不敵に笑った。
「けどここは、オレのランニングコースだぜ?
慣れって意味なら、地の利はオレだ。
勝ちを確信するにゃあ、ちと早いんじゃねーか」
黒ジャージのポケットをなぞる。無音で《鮫貝》が手中に現れる。
「いいや──オレの勝ちだ」
含みのある烏京の言葉を
「ああ……クソ! 勝ちってそういうことかよ!」
《鮫貝》で頭を叩き、顔を歪めて笑う。
「ひょっひょっひょっ。
今回は気付くのが遅かったね、
暗殺者に有るまじき哄笑だが、それもそのはず。
急襲した烏京は、やはりドロ婆の変装だったのだ。
「あーくそ。そろそろ来ると思ってたのによ。
礫が鋭すぎて、すっかり騙されちまった」
ドロ婆が礫を放ったのは、猛スピードのトラックの上からだ。慣性を上乗せすれば、あの威力にも説明がつく。それでも精確さの謎は残るが、
「長く生きてりゃ、芸の一つや二つ覚えるもんさね」
とのことらしい。
「にしても、情報早すぎんだろ」
「まずは勝ったそうだね。おめでとうさん」
「その顔で言わないでくれ。複雑な気分になる」
「口調も似せてやろうかい?」
「カンベンしてくれ。それより本題だ。
オレが勝てば、質問に答えてくれるって話だったよな」
洋がドロ婆を見やる。強い潮の匂いが、二人の間に流れた。
「……ああ、嘘じゃないさ。
ただし問答は二つまでにさせてもらう」
「なんだ、二つだけかよ」
「代わりに、坊が試合に勝つごとに受けてやるよ」
「ま、それでもいいか」
ドロ婆がいつもの
聞くとすれば当然、蓮葉についてだ。畔の情報は、畔からしか得られない。
ならば蓮葉について、優先順位の高い情報とは何か?
現状、蓮葉に緊急の問題はない。
健忘症や幼さによるトラブルは多いが、どれも対処可能なものだ。
洋との生活を経て成長を感じる面もある。必須の質問は特に見当たらない。残るは兄としての、純粋な興味だけだ。
「それじゃあ、一つ目だ」
洋は、頭に浮かんだ最初の疑問を選んだ。
「何故、オレに蓮葉を預けた?
兄妹つっても初対面だ。上手くいく保障なんてないだろ」
「前例があったからさ。
魚々島に送られる前、畔で育てられた頃の記憶はあるかい?」
「おぼろげにはな」
「畔で生まれた子供は、男女の別なく六歳まで畔の機関で育てられる。
あんたら魚々島が、学校にも行かず読み書きできるのはそのおかげだ」
「ああ、知ってるよ」
「畔の子は組織に育てられ、親の顔を知らない。
親が育てるという文化がない。これは魚々島も同じさね。
だが、幼少期の愛情は大切だ。愛なく育った人間は獣以下に成り果てる。
畔でその役目を担うのが
「あー、確かにいたな」
記憶はあいまいだが、そんな相手がいた気がする。子供の集団をまとめる立場で、母親というより保母に近い。畔にしては感情豊かな女性だったが、今思えば、あれも任務だったのかもしれない。
「蓮葉は、畔の組織に馴染まない子供だった。
仲間意識に欠け、誰とも打ち解けずにいた。
唯一の例外が、蓮葉を担当していた乳母さ。
蓮葉と実の姉妹であることを伝えて、信頼を築いたんだ。
六歳で乳母を卒業した後も、彼女は特例的に蓮葉の担当を続けた」
「なるほどねえ。
ならなんで、その乳母じゃなく、オレに蓮葉を預けたんだ?」
姥面が洋を見た。いや、見たように思われた。
「それが、二つ目の質問でいいのかい?」
「……いや、待ってくれ」
洋は顔を抑え、考え込んだ。
姥面のドロ婆を穴が開くほど見つめた後、慎重に口を開く。
「婆さん。
畔は蓮葉を放逐しようとした、って前に言ってたよな。
これが理由なんだな? 預ける相手がいなくなったことが」
一際強い海風が、橋全体を震わせた。
「坊は、本当に察しがいい」
風を見送り、姥面がつぶやく。
「乳母は、蓮葉が手にかけた。
あの子が追放された理由は──《同族殺し》だ」
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