【一幕】魚々島 洋 VS 松羽 烏京 其の十


「……おいおい、忍野。

 そこはまず《必至》を言うとこだろ」

 洋の台詞が胡乱うろんに響く中、烏京は声もなく立ち尽くす。

 最初に気付いたのは音。蛇が這うようにかすかな物音だ。

 次いで感触。うごめく何かが爪先をかすめ、甲を撫ぜる。

「もちろん、オレは《異議あり》だけどな。

 おまえが何も言わなきゃ、バレちまうじゃねーか」

 ──そんなはずはない。

 突如、床が抜けたような恐怖に、烏京は抗った。

 洋が小細工したにせよ、すでに両腕は殺してある。

 《鮫貝》も道に落ちたままだ。ただのハッタリに過ぎない。

 しかしならば。足元の感触は何だというのか。

「ま、ギリギリ気付かれずに済んだし、別にいいけどよ」

 見たくはない。だが見なければならない。

 暗澹たる気持ちで、烏京は目線を下げる。

 深淵を覗いたような眩暈めまいを覚えた。

 白線が幾重にも足首に絡みついている。その先が、洋の手を離れた《鮫貝》に続いているのは、確かめるまでもない。シュルシュルと音を立てるそれを。

 ──俺は、馬鹿か。

 烏京は己を呪った。

 《鮫貝》は白線を自動で巻き取れる。何度も見た光景ではないか。

 洋は烏京の着地点を見越し、罠を張った。最後に放った輪がそれだ。

 烏京も警戒しなかったわけではない。だが洋の右手を撃ち抜き、《鮫貝》を落とさせたことで、それをやめた。確信した勝利が油断を生んだのだ。

 あの絶叫も、白線の動く音を消し、烏京の注意を引きつける芝居だ。

 右手を撃たれたことすら、この流れを意図してかもしれない。

 ギャリリリ!

 引き絞られた白線が、烏京の足首を締め上げた。

 鋸刃の牙が肌に喰い込み、右足を完全に拘束する。

 操作したのは、洋だ。倒れたまま《鮫貝》に手を伸ばし、両の前腕で白線を巻き取り、手繰っていく。

 そのパワーと重量に、烏京の右脚が引き寄せられる。

 洋の策に狼狽こそしたが、烏京の次の反応は早かった。

 迷いなく、洋に向かって駆け出したのだ。


 正解だ、と立ち会う忍野は思う。

 白線で罠を編み、敵の足を絡め取る技、《鬼磯目オニイソメ》。 

 忍野は片足を切り飛ばされたが、それはない。今の洋にとって、この白線は生命線だ。断たれた時点で勝ち目が消失する。

 洋の狙いは、烏京を手の届く間合いに引き寄せることだ。

 対して烏京は、その前に接近することを選んだ。手繰るより早く進めば、白線に引っ張られることはない。その方が反撃の目はある。危険だが英断だ。

 洋と戦った忍野だからこそ、わかることがある。

 《鮫貝》でもっとも危険なのは、白線が緩んだ状態だ。

 単純な《アゴ打ち》とは違い、まるで変化が読めない。鞭でも鎖でもない、唯一無二の武器ならではの恐さがある。隙だらけに見える白線回収に、ついぞ二人がつけこまなかったのはそれが理由だ。

 しかし、今の洋は両手を壊されている。

 高度な技ほど故障に脆い。繊細な《鮫貝》の操作はもはや不可能だろう。

 加えて、烏京には《袈裟けさ打ち》がある。

 直進の勢いを上乗せした飛礫は、闘いを終わらせるに十分な威力だ。

 起死回生の《オニイソメ》は、確かに烏京を捕らえた。

 それでも逆転は可能なのか。

 忍野には、その筋がまだ見えない。


 鹿のように軽やかな疾駆で、烏京は瞬く間に洋の前に迫った。

 彼我の距離3メートル。白線はまだ張りつめていない。

 ここが限界だった。近づき過ぎると、組みつかれる怖れがある。

 四肢を壊された男が逆転できるとすれば、密着しての首絞めのみ。

 それさえ警戒しておけば、烏京の勝ちは揺るがない。

 いや──この手で、確実に止めを刺す。

 烏京の眼に、暗い炎が灯った。

 失格になろうが構わない。目的の一つは果たされる。

 倒れたままの洋を見下ろし、烏京は狙いを定めた。

 四肢はすでに獲ってある。

 残るは亀のように起こした、無様な素っ首のみだ。

 突進から歩を変化させ、強引に力の向きを変える。たいを斜めに飛ばして敵の横に入りながら、石手裏剣を握る手を振り上げる。

 推進力のベクトルに投力を乗せた渾身の礫が、斜めから打ち込まれた。

「松羽流──《袈裟打ち》」

 棒型の石手裏剣が、顔を上げた洋の眉間に吸い込まれる。

 瞬間、洋の体が跳ね起きた。

 白線を巻いた腕は使えない。

 肥大した上半身を、腹筋の膨張だけで浮かせたのだ。

「苛立つと、殺気が漏れてくる。

 悪い癖だぜ、烏京」

「!……ほざけッッ!」

 顔色を失う、烏京の前で。

 石手裏剣が砂利道に刺さる。宙の白線が張りつめる。  

「これで最後だ。

 行くぜ──《鬼魳オニカマス》」 

 膝立ちになった洋が、両腕を揃えて振り回した。

 片足を強烈に引かれ、体勢を崩す烏京。

 だが、その背中が地に触れることはなかった。

 むしろ離れていく。巨大な竜巻に巻かれたように。

 それは、見る者全てを絶句させる光景だった。

 膝立ちの洋が、《鮫貝》に繋がれた烏京を振り回しているのだ。

 ──《仙骨エンジン》。

 戦慄のさ中、その名が烏京の脳裏に閃く。

 股関節で動力を生み出す《仙骨エンジン》は、脚の筋肉を使わず、膝立ちでも常軌を逸したパワーを発揮する。

 だが、膝立ちでこの技を使えば、負荷は両膝に集中する。元より壊れた膝の酷使は、常軌を逸した破壊と激痛を生むはずだ。

 洋の両腕も同様である。乱雑に巻き取った白線は、洋の腕に喰い込み、肉を切り裂いている。このまま回し続ければ、いずれ前腕が千切れ飛ぶ。

 それでも、洋は止まらなかった。

 満身創痍を重ねながら、さらに回転を上げていく。

 血しぶきとともに腕の白線がほどけ、暴風圏を拡大する。

 風切り音は死神の笛と化し、烏京の足首に地獄の激痛を刻む。

 《オニカマス》──バラクーダと呼ばれ、鮫以上に畏怖される凶魚。

 《オオカマス》で見た暴風に、よもや自身が巻き込まれるとは。

 特急のような勢いで、視界を土壁が通過した。

 叩きつけられれば、確実に死ぬ。

 洋に殺気は感じないが、報復の理由は十分にある。

 烏京は両手で後頭部をかばい、全方位に視線を巡らせた。

 腕の防御は気休めにもならない。叩きつけられるまでに背後に脚を繰り出す。

 脚がおしゃかになるのは確実だが、頭の直撃だけは免れるはずだ。 

「うおおおおオ────ッッ!」

 洋の咆哮と同時に、最後の白線が洋の腕から離れた。

 限界まで加速した烏京の体が、闇の彼方へ放たれる。

 烏京は頭を抱えたまま、背後に目を飛ばした。壁が迫り次第、蹴りを放たんと身構える──

 刹那。烏京は目を疑った。

 迫る壁の色が、漆喰の白ではなく、ピンクだったからだ。

 反射的に放った蹴りがピンクの壁に当たるも、手応えはない。

 そのまま、背中から突っ込んだ。

 柔らかいが、痛い。無数の鞭に全身を打たれながら、落下する。

 地面に投げ出された烏京に、桜吹雪が降り注いだ。

 御苑の道端に植えられた、数々の桜。

 その内の一本に投げ込まれたことに、ようやくにして思い至る。

 ──だが何故、土壁に叩きつけなかった?

 報復にも勝利にも、最短の手段のはずだ。

 答えを告げたのは、道端に浮かぶドローンだった。

『15……14……』

 機械音声のカウントダウンに合わせ、赤ランプが明滅する。

 その意味は明らかだった。

 洋の狙いは、烏京のだったのだ。

 烏京は慌てて身を起こした。

 枝がクッションになったおかげで、打ち身と擦過傷以外の怪我はない。

 落下の衝撃で体は麻痺しているが、経験上、数秒もあれば回復する。

 砂利道までは10メートル。麻痺が消えれば、戻るのに何秒もかからない。 

 問題は、足に喰い込んだままの《鮫貝》だ。

 足首から頭上に伸びた白線は、桜の枝葉に複雑に絡まっている。枝や脚からほどくには、残り時間が心許ない。かといって白線も断てない。その強度は己が肉体で証明済みだ。

 烏京は建礼門の方向を見やる。

 道の上に座り込んだ洋の姿を見つけた。

 地に手をつき、かろうじて身を起こした状態だ。《オニカマス》に全力を注いだ結果だろう。元より怪我の度合いは烏京より酷い。戦闘継続はまず不可能だ。

 カウント内に戻れたなら、今度こそ烏京の勝ちが決まる。 

『11……10……』

 まだ震える手で懐を探り、烏京は苦無クナイを取り出した。

 通常、苦無に刃はないが、これは作業用に刃をつけたものだ。

 これで足首を切断すれば、《鮫貝》のを逃れられる。

『8……7……』

 震えが止まった。手に力がよみがえる。

 ──だが、しかし。


 オレは用意した武器を使わん。

 ここにある石だけで闘ってやろう──《陸亀》相手なら、十分だ。


『6……』

 烏京は、その手を振り降ろした。

 乾いた音を響かせ、苦無が桜の幹に突き立つ。 

 もはやカウントを聞くこともなく、烏京は満開の桜を見上げた。

「最後は力技だと──ふざけるな」

 悔し気に。けれど満足気に。

 最後に洋を見やり、吐き捨てる。


「──反吐が出るほど、だ」





《神風天覧試合 第一試合》(野試合)

〇魚々島 洋 VS 松羽 烏京●

決まり手:《鬼魳オニカマス》(場外負け)

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