【一幕】魚々島 洋 VS 松羽 烏京 其の九
松羽 烏京は考える。
《オオカマス》の攻略は、そう難しくはない。
たとえば狭い場所への移動。障害物の利用。重みのある器物を白線に絡めれば、それだけで回転の維持は不可能になる。
《オオカマス》の使える状況は、ごく限られると言っていい。
問題は烏京が、まさにその限られた状況下にあることだ。
戦場は広く、逃げ場も障害物もない。武器の使用は封じられ、防御もままならない状態だ。防弾繊維と鋼の骨組を備えた袋袖は、小口径の銃弾程度は防ぐが、あの威力相手ではひとたまりもない。
そして何より、この技は足捌きを必要としない。
片手片脚の逆境で、逆王手をかけるにはこれしかないという選択である。
──
この間合いでやり合えば、烏京の不利は否めない。
単発の《アゴ打ち》と違い、《オオカマス》の攻撃は連続する。その高威力故、急所を狙う必要がなく、守りに集中できる。原理が単純であれ、手数と威力で優る側が有利なのは、当然の話だ。
──距離を取り、消耗を待つのが最善手。
《仙骨エンジン》の推理が正しければ、左膝に負荷は蓄積していく。おくびにも表情に出さないが、自滅はそう遠くないはずだ。つきあう必要はどこにもない。
しかし、烏京は足を止めた。
鼻を削がれたからではない。
投擲を突き詰めた松羽の代表として。《投げを極めた男》として。
この間合いで後れをとることを、誇りが許さなかったのだ。
たとえ温存予定の《奥義》を、衆目に晒すことになろうとも──
烏京の新たな構えを前に、洋は束の間、足を止めた。
右脚を前にした、右半身の構えである。
右腕は肘を張り出し、石手裏剣を持つ右手を顔の横に。
左腕は肘を曲げ、後ろ腰を抑えるように、それぞれ配置している。
一部を除く全員の顔に、怪訝な色が浮かんだ。
烏京の構えが、一見してダーツ投げのそれだからだ。
忍術派生故か、松羽流には武術のセオリーを無視する傾向が見られる。体軸を斜めに倒す《独楽打ち》然り、袖の内から礫を打つ《竈門打ち》然りだ。
しかしまさか、ここに来て西洋スポーツとは。
素人目で見ても、ダーツ投げに威力は期待できない。矢じりも羽もない石手裏剣ではなおのことだ。およそ実戦向きではない。
唯一、ダーツと異なるのは、右手指にもう一本の《棒型》があることか。弓道の二の矢の如く、指の間に挟まれたそれは、次弾の明確な予告ながら、どう繋いでくるかまるで読めない、不気味な存在だ。
観衆は、凝然と言葉を失った。
闇を喰いちぎる《オオカマス》の咆哮。それだけが御苑にこだまする。
「行くぜ」「──来い」
洋が前進を再開した。
烏京は半身の構えを変えない。彫像のように動かず、洋を待ち受ける。
距離を寄せてくる《オオカマス》に、怖れがないと言えば嘘になる。
現時点での《オオカマス》の半径は10メートル。鼻をもがれた際は2メートル伸長したが、それが限界とは限らない。
《鮫貝》の全長も不明だ。事前に掻き集めた情報にも存在しなかった。
どれだけ伸ばせるかわからない。すでに射程圏内かもしれない。
考えただけで鼓動が高まる。口に溜まった血が舌を刺す。
いや。その術理はすでに分析済みだ。
鍛えぬいた眼力があれば、必ずや攻撃の予兆を読み取れる。
今は己が眼と直感を信じる外にない。幾多の死線をそうして潜ってきたのだ。
対する洋もまた、烏京の挙動から目を離せない。
未知の構えから繰り出されるのは、未知の技だ。満身創痍の自分に、果たして凌ぎうるのか。烏京が勝負を受けたのは僥倖だが、勝てるという自信のあらわれでもある。本命は二投目か。それとも別の狙いがあるのか。
息詰まる緊張の中、両者の距離が詰まる。
13メートル。
左膝の感覚はもはやない。傷の中は無惨にシェイクされた状態だ。
ここで決めなければ、洋の逆転の目は、限りなくゼロに近くなる。
12メートル──因縁の間合いで、烏京が動いた。
起こりも音もなく、手首だけで放たれた石手裏剣は、洋が気付いた時には、すでに《オオカマス》の上に達していた。
それは、異常なまでに遅い礫だった。
これまでの紫電の早打ちに比べ、月の巡りにも似た緩慢さ。
ゆっくり、されど正確に、《オオカマス》の中心へ放物線を伸ばして来る。
──陽動。
その二文字が、何名かの脳裏に閃いた。
洋もその一人だ。落ちてくる礫に脅威はないと読み、烏京の右手を警戒する。
洋の瞳の中で、長い指が手品師のように動いた。
二本目の棒手裏剣が手の内で踊る。一瞬で《直打ち》の握りに転じる。
緩慢な流星が頭に命中したが、洋は意に介しない。《ウミホタル》すら使わず、烏京の二投目に全神経を集中する。
しかし。着弾に合わせると思われた次弾は、いまだ烏京の手の中だ。
「あっ」
洋以外の誰かが声を漏らした、その時。
水平を保っていた《オオカマス》の渦が、突如として乱れた。
爆音とともに玉砂利が爆ぜた。軌道の狂った白線の先が、道に触れたのだ。
暴走はなおも止まらず、地を
「はっ……やら……れたぜ……烏京」
異常の渦中でつぶやいた、洋の背中が崩れ落ちる。
その残された右膝に、新たな石手裏剣が突き立っていた。
右手に残った二投目ではない。降って来た一投目でもない。
洋の最後の脚を奪った、第三の投擲。
その正体は、背後に回していた左手だ。
腰にあてがった左腕を固め、背中と一体化させる。
腕と上半身で左手を加圧し、腰と下半身で左手を止める。
拮抗による静止の中で、限界まで力を蓄え、鉄砲水のように放出する。
松羽流秘伝の《奥義》。その名は──
「──《
洋より先に観衆が気付いたのも道理。右半身に構えた烏京と対峙すれば、左手は隠れて見えなくなる。前述した手品の原理と同じである。
力の解放は一瞬で済むため、起こりはほぼゼロ。さらに右手の奇妙な動きで注意を逸らす念の入れようだ。
死角で放たれ、意識外を飛び、銃弾並みの威力を持つ礫を防ぐ術が、果たしてあるだろうか。覚醒した《ウミホタル》すら、例外ではありえない。
両脚の支えを失った洋が、砂利道に膝をつき、倒れ伏す。
寸前──その右手が動いた。
暴走も止まり、息絶えかけた《鮫貝》に、再び命が吹き込まれる。
鈴音を奏でて、波打つ白線に輪が生じた。自転車大のそれが《御所の細道》をなぞり、まっしぐらに烏京へと転がっていく。
しかし、暗殺者に油断はない。
その場で軽やかに跳躍し、やすやすと輪を跳び越える。
── 豚の最後っ屁か。
眼下に地を這う洋の姿を捉えながら、烏京は思う。
《鮫貝》には煮え湯を呑まされた。最後まで油断はできない。
だがそれも、これで終わりだ。
矢のような一投が、《鮫貝》を握る手を貫いた。
天を衝くような絶叫に、御苑の夜空が揺れた。
《鮫貝》を取り落とし、叫びながら身悶える洋。
鶏の声が夜明けを告げるように、その声は闘いの終わりを告げるものだった。
緊張が途切れ、痛みを止めるアドレナリンが切れたのだ。
烏京自身、鼻の傷が疼き始めた。激痛が来る前に終われたのは僥倖だ。
再び《御所の細道》に降り立つと、烏京は忍野を探した。
《オオカマス》によって離れざるを得なかった立会人が、洋に駆け寄る。
予告通りに豚の四肢を潰し、肉達磨に変えた。
《必至》の判断が下されるのは、もはや確実だ。
今にもその手が上がり、自分の勝利が確定する。
果たして、駆け付けた忍野は、身も世もなく叫び続ける洋を確認する。
次いで烏京を。《細道》の上を。
洋の悲鳴が、不意にぴたりと止んだ。
「……おいおい、忍野。
そこはまず《必至》を言うとこだろ」
不吉な予感が一滴、昂ぶる烏京の胸にしたたり、広がった。
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