【序幕】選抜、畔 蓮葉 其の五




「……強すぎんだろ」 

 忌憚のない感想が、洋の口をついた。

 忍野は一流の剣客である。不殺のハンデがあったにせよ、洋と渡り合える者はそうはいない。そこらのとは格が違う。

 その忍野を、蓮葉は手玉に取った。

 ハサミの有利不利など歯牙にもかけぬほどの圧勝だ。

 疑惑の一つが、洋の中で確信に変わる。

「悔しいが……こいつは、オレより強え」

 今の数合のやりとりを見れば十分だった。

 反応、速度、技量、知略、全てにおいて蓮葉は数段上を行く。

 付け加えるなら、蓮葉はこれでもまだ本気ではない。暗い水を湛えた淵のように、底知れぬ実力を秘したままなのだ。

 畔の強さは承知のつもりだったが、これほどの傑物とは思わなかった。

 魚々島時代を振り返っても、妹に比肩する者は覚えがない。唯一思い当たる相手は、五年前にこの世を去っている。

「《最高傑作》てのも、ハッタリじゃねーなこりゃ」

 嘆息する洋の前で、停止した戦場が動き出す。

 頭部を失った忍野の身体が、まず崩れ落ちた。ついで《化け烏》を手に蓮葉が降り立ち、最後に宙を舞った首級が、力なく草原に転がる。首を刎ねても甦ると知らなければ、心穏やかではいられなかったはずだ。

 強い血の匂いが、一気に草原に広がった。

 冴え冴えとした月明りの下、蓮葉は無表情で忍野の死体を見下ろす。真珠色のジャージには一点の返り血も見当たらない。この為に《玉兎》を使ったのかと思われるほどだった。

 蓮葉に声をかけようとして、洋はとどまった。 

 勝ち名乗りを上げるのは立会人の役目だ。忍野に頼まれこそしたが、洋は正式な勝負の立会人ではない。この場合、代理の者が来て合格を宣言すると忍野は言った。まずはそれを待つべきか。

 洋の判断は正しかったが、大きな誤りも犯していた。 

 忍野の遺体が、銀糸を噴き始めたのだ。

 草地に落ちた首級は、肢体から2メートルと離れていない。対となる首の断面から伸び出た無数の糸は、手をつなぐように互いの先端を繋ぎ、首級を遺体に向けて引き始める。

 野良猫のように、蓮葉は跳び上がった。

 人外と名高い畔でも、首を切られてなお動く怪物は初対面らしい。

 だが、対応の早さは流石だった。

 《化け烏》が嘴を開いた。束になった糸を挟み、噛みちぎる。

 しかし断ち切れはしない。断たれた糸が互いを求め、また繋がる。これでは、いくら切ってもきりがない。

 ズズ、ズズ……目を開いたままの忍野の首級が、体へと近づいていく。

 悪夢のような光景に、あの蓮葉が顔色をなくしている。

 妹を呼ぼうとした洋を止めたのは、蓮葉の変化だった。

 月光を避けるように美貌をうつむかせる。一瞬、泣いているのかと思ったが、そうではない。

 やがて浮上した顔を見て、洋は驚いた。

 畏怖の色が消えている──代わりにあるのは、満面の笑み。

 爆発的な殺気が、草原を吹き飛ばしたかに思われた。

 外れに並ぶ木々がいっせいにざわめいた。梢で眠っていた野鳥の群れが、飛翔すら許されず落下したのだ。

 それはもはや、兵器と呼ぶべき代物であった。

 先刻、忍野を圧した殺気すら比較にならない。固化された夜気は巨大な氷塊に変わり、草原もろとも忍野を封殺する。

 それは《白銀さま》も例外ではなかった。糸の動きがにわかに弱まる。

 そこに、蓮葉が飛び掛かった。

 ガシュン! 《化け烏》の刃が組み変わる。

 最短の刃が意味するのは、最強の切断力。

 その嘴が、横たわった忍野をついばみ始めた。

 手首、肘、肩、頸椎。ランナーからパーツを切り離すような小気味よい音とともに、忍野がみるみる解体されていく。

 純白のジャージは、瞬く間に血の色に染まった。

 血飛沫とともに銀糸が噴き上がるも、月下の解体ショーは止まらない。

 《化け烏》の嘴が首級を摘み上げると、鋭いスイングで投げ飛ばす。分解した腕も次々と宙を飛ぶ。パーツの行先は、夜の海だ。これでは復活のしようがない。

 酸鼻極まる血の花園で、笑いながら鋏を振るう少女。

 洋は、思わず胸を押さえた。

 二つ目の確信に、そこをえぐられた気がしたのだ。

「…………すは」

 予感はあった。

 初めて出会った時、格下のチンピラを鏖殺おうさつした時から。

 ウイステでは誘拐犯を殺すのを禁じた。稽古でも仕合いを避けた。

「……はすは」 

 暴走する凶刃。無慈悲な殲滅者。心を持たざる者。魔物。

 《最高傑作にして失敗作》。

「──蓮葉ァ!!」

 洋の大音声だいおんじょうに、草原を覆う殺気が、砕け散った。

 血まみれの蓮葉が、ようやく振り返る。

 質量すら帯びた殺気は露消していた。呆然とした表情だ。

「おまえの勝ちだ。そこまでやらなくていい」

 代理を待つ判断が間違いだった。あの殺気を浴びて動けるわけがない。気絶していてもおかしくないくらいだ。

「取って来い。全部だ」

「全部?」

「お前がバラして海に捨てた、忍野の体だよ」

「バラした?」

 きょとんとした蓮葉の表情には、見覚えがある。

「覚えてないのか」

「うん……蓮葉は、覚えてない」

「……わかった。それはいいから、大至急で拾ってこい。

 頭と腕だ。沖まで流されちまう前にな」

「う……うん」

 怪訝そうに海へ向かう蓮葉を見送り、洋は重い息を吐いた。 

 畔らしからぬ、あの無邪気さの謎が解けた気がする。

 蓮葉は、血生臭い記憶を《忘れる》のだ。おそらく港の件も覚えていない。

 何らかの精神病か、自己防衛なのかは不明だが、神域の達人が精神的小学生という謎も、これで説明がつく。

 無惨に切り刻まれた忍野の傍に膝をつき、洋は二度、ため息をついた。

 糸のおかげか出血は止まっているが、果たして生き返るものなのか。

「死んでくれるなよ、忍野」

 戦いの前の高揚は、もはやない。

 胸中に垂れこめる暗雲は、いずれ来る嵐を予感させるばかりだった。


 

「助かりました──本当に死ぬところでした」

 拾い集めた部位を繋げると、幸いにして忍野は目を開けた。

 開口一番、礼を述べる忍野に、洋はかぶりを振る。

「すまねえ。止めるのが遅れた。下手すりゃ間に合わなかった」

「いえ。洋殿の立ち合いなくば、今宵が命日になっていたはず」

「不死身でもねえって意味が、よくわかったぜ」

「まことに汗顔の至り。

 ですがこれで、《天覧試合》立会人の役目を果たせられます」

 立ち上がった忍野は、蓮葉へと向き直る。

「畔 蓮葉殿──《合格》です」

 忍野の宣言を受けた蓮葉が、草地に膝をつく。

 その瞳が見つめるのは忍野でなく、洋。

 宿すのは勝利の感慨ではなく、大粒の涙だ。

「ごめ……なさい……」

 さめざめと泣き始める蓮葉の頭上で、洋と忍野は顔を見合わせた。

「なんで謝ってんだ?」

「だって……お兄ちゃん……怒ってる……」

「うん? あー、いや……」

 洋は困惑した。胸に秘めたつもりの不安が、漏れていたのか。

「大丈夫だ。兄ちゃんは別に怒っちゃいない。

 《忘れる》のは、おまえのせいじゃないしな」

「ほんとに?」

「ああ。けど次からは、オレが止めたらすぐにやめろよ」

「……うん」

「これまで忘れたら、流石に怒るからな」 

「うん!」

「おわっ!」

 蓮葉に抱きつかれ、慌てふためく洋を見て、忍野は微笑した。

 洋は、不思議な男だ。

 洋が蓮葉を止めた際、忍野はすでに意識なく、その場を見たわけではない。

 しかし、奇妙な確信はある。

 洋でなければ、蓮葉は止められなかった。 

 ドロ婆の忠告は、それを知った上でのことだったのだ。

 それはいつか、洋を滅ぼす呪いではないか。

「……まったく、困った妹だよ」

 忍野は、それが杞憂であることに気が付いた。

 妹の髪を撫ぜる洋の背中は、どこまでも嬉しそうだった。



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