【序幕】選抜、畔 蓮葉 其の四
月も恥じらう、美男麗女の対峙であった。
十分な間合いを開け、二人は互いの得物を構える。
忍野は、洋と闘った時と同じ《砦の型》だ。
左前半身の構えから左の小刀を顔の前に翳し、右の大刀は腰溜めに引いて切尖を水平に蓮葉へと向ける。攻撃は限られるが堅守を誇るこの形は、未知の敵を探るにうってつけだ。服装は昼と同じく、道衣に袴履きである。
対する蓮葉は、大鋏の《化け烏》を無造作に両手で構え、開いた
大鋏は薙刀や長巻に近い長大武器だ。重量もそれなりにあるはずだが、蓮葉は柄の端を持たず、十分に余すことで負担を軽減している。その分、リーチは短くなるが、それでも忍野の打ち刀より長い。工夫と言えばそれくらいで、拍子抜けするくらいに普通の構えである。
少女の服装は白のジャージの上下。スポーティな恰好だが、足元はウイステで買ったグラディエーターサンダルだ。お気に入りらしい。
同じ草原での昼と夜、兄妹を換えた戦場は、されど同じ展開ではなかった。
忍野が動かない。敵の隙を探る、円の運足に移らない。
もっとも当惑しているのは、当の忍野だった。
刀を抜いてようやく、《畔》が妖怪といわれる
闇が密度を増し、重く垂れこめるようだった。
夜空は雲一つないはずだが、見上げる余裕はない。余所見一つ、瞬き一つが命取りになる。早鐘を打つ胸が、そう警告している。
汗が
まさか、
《白銀さま》を身に宿し、数多の死線を潜り抜けた、この忍野が。
遠い昔、痛みとともに絶縁したはずの感情が、鎌首をもたげる。
──恐れるな。私は《天覧試合》の立会人だ。
必死に気を奮わせ、忍野は鼻から息を吸い込む。濃さを増す闇に反して、大気の密度はことさらに薄く感じられる。
目を眇め、蓮葉を睨みながら小刀を構え直したのは、息の吸い時が危険だからだ。剣術では《虚》と呼ばれるタイミングで、反応が遅れるとされる。泳ぎと同じで、息継ぎをいかにこなすかも一流の条件である。
闇に開いた大鋏の嘴は、一挙一刀足の間合いの外だ。むしろこの距離で、これほどの殺気を発せることに驚嘆──
カチリ。
眼前に翳した忍野の小刀が、かすかな音を立てたのは、その時だ。
鋏の先端が、小刀の刃を噛んでいた。
顔を伝う汗が一瞬で凍り付く。
《虚》を突かれた? いや、明らかに間合いの外だった。
何故気付かなかった? 起こりは? 気配は?
絶句したのは、傍から見る洋も同じだ。
傍観者である洋にのみ見えるものがある。
説明するまでもなく、ハサミは伸縮する構造を持つ。
一般的な手持ちの武器は、腕の動きが武器の動きに通じる。動きは起こりを生み、これを消すために剣術家は生涯を費やす。
しかしハサミは違う。連結した刃は、柄を閉じることで突き出される。左右の動きを前後に変換する、こんな武器は他に存在しない。
未知の挙動に蓮葉の卓越した技量が加われば、武術の理想たる完全な無拍子に手が届く。忍野が虚を突かれたのも無理はない。刀を噛まれるのも想定外のはずだ。
そして、気配を読めなかった、もう一つの理由は──殺気だ。
周囲にまき散らされた膨大な殺気に、繊細な感覚を狂わされた。木を隠すなら森の中。蓮葉は気配を殺気に隠したのだ。
刀身を挟んだ《化け烏》に、蓮葉が捻りを加えた。
身体ごと一回転すると、小刀があっけなく宙を舞う。
忍野の顔を、狼狽が叩いた。
上段に振りかぶった大刀を両手で握ると、気合もろとも突貫する。
洋は思わず眉を寄せた。
回転直後で、態勢が十分でない蓮葉を狙った良手──ではない。
忍野は恐怖に突き動かされただけだ。一見は勇敢だが本質は真逆。反撃に転じたのではなく、転じさせられたのだ。
《化け烏》が
太刀筋は右袈裟。攻め筋そのものは悪くない。
取り回しの悪い大鋏を携えての回避は難しい。嘴を躱せば柄で受けるほかない。柄は木製だ。渾身で打ち込めば諸ともに袈裟切り。悪くとも武器は壊れる。槍の弱みは懐と柄だが、これは大鋏も同じはずだ。
果たして、蓮葉は化け烏を展開した。広げた柄で一刀を受け止める。
忍野は瞠目した。
刀が柄の表面で止まったのだ。浅く食い込んだ刃は、それ以上に進まない。
見た目は明らかに木製だが、これは違う。金属に近い手応えだ。
これだよ──洋は半ば、忍野に同情する。
敵の先入観につけ入るのは畔の真骨頂だ。素材の質感を偽るなど当たり前。初回限りの小細工ではあるが、殺せるなら二度目は不要だ。勝ちの目が増えるなら手間を惜しまない。《鮫貝》もそうだが、それが畔の流儀なのだ。
切れない柄の驚き。その間隙を蓮葉が襲った。
サンダル履きのつま先が跳ね、袴へ飛ぶ。
反射的に両膝を閉じたのは、忍野ならばこそだろう。
金的の警戒は格闘技では基本だが、剣士にその概念は乏しい。剣術に金的もくそもないからだ。忍野が無手の修練を積んだ証である。
しかし、畔の魔技はその上を行く。
忍野が呆然と口を開けた。袴の股座に突き入った足指が、金的ならぬものを挟んだからだ。男性の象徴とされる、股を閉じても隠せぬあれを。
「うへえ……ここで《尻子玉》か」
今度は全力で、洋は忍野に同情した。
尻子玉の名は、妙薬同様に河童譚で広く知られる。河童に負けた人間は尻から玉を抜かれるという迷信で、溺死体の肛門が開いているのが由来とされる。
畔の《尻子玉》とは、性器と肛門への攻撃を指す。
足指を用いた攻めは多岐に渡り、主に大技への導線を果たす。特に男性に有効なのは論を待たない。猿も裸足で逃げる足指の器用さも凄いが、着衣の下の一物の位置を見抜く眼力にこそ驚嘆すべきだろう。
はたと洋は気がついた。指の開いたサンダルを好む理由はこれか。
洋の思考を置き去りに、蓮葉の攻めは止まらない。
《尻子玉》と同時に、忍野に向かって跳ぶ。一物を捉えた右脚が直下に伸ばされる。どうなるかは自明の理だった。少女の全体重が、一物に集中する──
咄嗟に左手を股間に伸ばした忍野を、責められる男がいるだろうか。
陰茎は急所ではない。急所ではないが、引き抜かれるなら話は別だ。
その手が届く寸前、蓮葉は再び跳躍した。
一物、ついで肩を踏み台に、忍野の頭上さらに高く。
白ジャージの脚が月に触れる。夜空に化け烏が弧を描く。
空中で倒立した蓮葉を、ようやく忍野が見上げた、その時。
闇を裂き旋回した漆黒の刃が、若武者のうなじに滑り込む。
「…………《
満月に浮かぶ少女と大鋏の影に、忍野の
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