【開幕】《神風天覧試合》、始まりの儀
【開幕】《神風天覧試合》、始まりの儀
「……釣れまっか?」
釣りベストの男が洋に声をかけたのは、北港に架かる長大な橋の上だった。
海を越えた先には、そこだけ魔法にかかったようなUSJの区域がある。さらにその先を東に突き進めば、大阪都心部に辿り着く。針山のようなビル群が、じりじりと夜明けを待ち構える、そんな時刻である。
「全然だね」
洋は肩をすくめてみせる。春とはいえ夜の海風は身を切るように冷たいが、洋の服装は長袖というだけで、いかにも薄手だ。全身に蓄えた脂肪があれば、防寒は十分とでも言うように。
「よう言うわ。こんだけ釣れたら上等やろ」
中年男が足元のバケツを覗き込んだ。見事な
「外道ばっかさ」
外道とは、目的以外の魚を指す釣り用語だ。
「これが外道て」
「でもまあ、やっと本命が釣れたよ」
「本命?」
「あんたさ」
洋は男に振り向き、高欄に背を預けた。
「やっと来てくれたな、ドロ婆」
「…………」
大きく開いた男の口が、次いで朗らかに笑い始めた。
「くやしいねえ。何でわかったんだい?」
悪戯ぽく問うた声色は中年男のまま、口調が明らかに違っている。
「竿を持ってないだろ」
「岸に置いてきたのさ」
「この夢舞大橋の歩道は、建設以来ずうっと立ち入り禁止だ」
「ルールを破る人間は、どこにでもいるよ」
「この時間、橋には車だって通らない」
高欄に挟まれた橋上は二人を除けば無人。暁風以外は無音の世界だ。
「この状況なら、橋に踏み込む時点で気配がわかる。
けど、オレがあんたに気付いたのは、声をかけてくる数秒前だ。
あんたの
それに──」
「それに?」
「こう毎回じゃ、パターンも読める」
中年男は頬を膨らませ、洋は
畔の渉外の顔役であり、畔の中枢に精通する数少ない人物だ。畔に関する洋の知識は、大半がこのドロ婆から得たと言ってよい。
その容姿は変幻自在にして神出鬼没。四年近いつきあいがある洋すら、いまだに素顔を見たことがない。言うまでもなく、今の格好も変装である。ちなみに理由などない。単なる年寄りの悪趣味だ。
神技の域にあるドロ婆の変装ではあるが、繰り返せば手口も読めてくる。今回は、人のいない場所に誘いこんだ洋の勝利だった。
「なるほどねえ。
「坊はやめてくれって前にも言ったろ」
「あたしから見りゃ、みんな可愛い坊と嬢さ」
「何年生きてんだよ、ドロ婆さん」
「初カレは九朗義経だったよ」
「静御前かよ」
流石にこれは冗談だろうが、ドロ婆の長寿は有名だ。
洋の師である魚々島の老人の口癖は「ドロ婆は変わらない」だったが、これは彼の師の言葉でもあったという。不老の妖怪という噂もあるが、彼女の出自を知る者は、とっくに墓の下だ。特技の変装も、どこまで技術でどこから自前なのか、見極められる者は誰もいない。
「だがまあ、《天覧試合》に間に合ってよかったぜ。
蓮葉について訊いておかねえと、どうにも尻が落ち着かなくてな」
「
およそ見当はついてるんじゃないのかい?」
「多少はな。でも確信てわけじゃない。
できる範囲でいい。答え合わせがしたいんだが、頼めるかい?」
中年男、いやドロ婆が懐を探る。取り出したのは能面、
老女の顔が刻まれたそれを、無言で被った。ドロ婆いわく、これが彼女の素顔らしい。真面目な話では、装いの顔すら見せない。
それを肯定と受け止め、洋は話を続けた。
「最初に奇妙に思ったのは、蓮葉が来るって連絡がなかったことだ。
あれだけの世間知らずを、付き添いなしで送り出したのも変だしな。
その後、蓮葉について聞こうと何度連絡しても、取り次ぎ拒否。
これだけ見ると、畔の宗家は蓮葉を切り捨てたみてーな感じだ」
太い指を折りながら、これまでの疑問を数えていく。
「けど一方で、あんたは忍野にヒントを与えた。
《最高傑作にして失敗作》てのと、選抜試合にオレを立ち会わせること。
おかげさんで《失敗作》の意味は多少なり見えてきたよ」
「わからないのは、あんたの考えだ。
あのヒントは蓮葉の手助け以外の何物でもない。
だがそれじゃあ、さっき並べた畔の意向と食い違う。
とは言え、最古参のあんたが、畔を裏切るなんて考えられねえ」
「人ならざる者の受けた迫害と排斥。絶対的な危機感と同属意識。
それこそが《畔》の強さの根源──そう教えてくれたのはあんただ。
そのあんたが、畔を裏切ってるようにオレには見える……何故だ?」
よく冷えた暁風が、洋の上着を跳ね上げた。
面を被ったドロ婆は応じない。身じろぎもしない。
「けど、ここにあんたが来たことで、謎の一つは解けた。
あんたがオレに接触しなかったのは、傍に蓮葉がいたからだな。
畔の宗家は、蓮葉との接触を禁止してる──
だから、オレが確実に一人になる機会を待っていた。違うかい?」
蓮葉の感覚の異常な鋭さには、同居してほどなく気が付いた。壁越しに気配の変化を読み、目覚めると部屋に現れる。電話の声も筒抜けだ。蓮葉の来た初日、シャワー中の青沼との打ち明け話も聞かれていたかもしれない。
もっとも、さして問題はなかった。鷹揚な気質の兄は、知られて困るプライバシーもないと開き直り、従順な気質の妹は知り得たことを表に出さない。蓮葉の謎に限ってだけは、忍野とそうしたように秘密にすると決めたが、それ以外では不便もなく、洋は蓮葉と暮らしていた。選抜試合の凄惨な顛末の後ではなおのこと、片時も離れなかった。
それがドロ婆、ひいては畔宗家を遠ざけている可能性に気付いたのは、今朝のことだ。忠犬よろしくついて来る蓮葉に留守番を頼み、未明の夢舞大橋で待った結果、ドロ婆が釣れた。
「──正解だ。たいしたもんだよ、坊」
姥面が、初めて応じた。歳も性別も読めない声だった。
「理由は言えないが、宗家は蓮葉との接触を禁じてる。
この状態は少なくとも、《天覧試合》が終わるまで続く。
蓮葉には畔のサポートや情報提供は与えられない。
蓮葉と組んでるおまえさんも同じだ。悪いが情報は回せない」
「うへえ、マジかよ」
海という狭い世界で生きる魚々島が、道具や武器、情報の入手を畔に頼るようになって久しい。特に情報に関しては、あらゆる組織に一人はいるという畔の眷属のネットワークなしでは、目鼻も効かないのが実情だ。
「青沼がいるじゃないか」
「流石に無茶ぶりだろ、そりゃ」
額に手を当てる洋だが、すぐに気を取り直す。
「待てよ。回せないのは情報だけか。《鮫貝》のサポートは続くんだな?」
「そっちは構わないよ。蓮葉には関係ないからね」
「じゃあ蓮葉のハサミはダメか。壊れたらどうすんだ」
「その気になりゃ、あの子は何だって一人で出来るのさ。
それに《化け烏》は、自己修復合金製だよ。
あのバッグに入れとけば、多少壊れても勝手に直っちまうさ」
「すげえな。《鮫貝》もそれにしてくれ」
「まだ注文を増やす気かい? 研究班が首を吊っちまうよ」
おどけた口調に、洋の顔が綻んだ。こんなやり取りも久しぶりだ。
機械のように非情で画一化した畔の女の中で、ドロ婆だけは違う。面越しでさえ伝わる人間味が残っている。それすら変装の一端である可能性は否めないが、洋はこの自称老婆を気に入っていた。陸に上がってから、何かと面倒を見てもらった恩も無論ある。
「ドロ婆、もう一つ訊いていいか?」
「訊くのは自由だよ」
「蓮葉が畔の代表に推されたのは、なんでだ?
確かにありゃあ《最高傑作》だが、ブレーキの壊れた《失敗作》だよな。
それに勘当同然のあいつが、畔の代表に選ばれてるのもおかしな話だ」
白い陽の揺らぎが水面に広がる。洋は姥面の返答を待った。
「……蓮葉が、《最高傑作にして失敗作》だからさ。
《失敗作》故に、畔は蓮葉を放逐しようとした。
けれど《最高傑作》故に、惜しむ声も多かった。
どちらの言い分にも理があり、宗家は二つに割れた。
さっき坊の言った畔の根幹、それが蓮葉によって崩れ始めた」
「そりゃあ、畔の一大事だな」
「両派は折衷案として、蓮葉をもう一度だけ試すことにした。
あの子が《神風天覧試合》に選ばれたのは、そういう理由からさ。
──おまえさんに預けたことも含めてね」
「ちょっと待てよ。試すってどういうことだ?」
「今日はこれ以上、言えないね」
姥の面を外すと、ドロ婆は中年男の顔でニヤリと笑った。
洋はため息をついた。面を取ったドロ婆から情報が取れないのは、経験則で知っている。
「いつならいいんだよ」
「そうさね。おまえさんが《天覧試合》で勝てたら、また来よう」
「優勝して来いってか?」
「一勝でいいさ。《天覧試合》は長丁場だからね」
曙光を浴びたアーチの影が、二人の間で踊り始める。
「一回、勝ちゃいいんだな。
オーケー、約束だぜ婆さん……って、ちょっと待てよ」
背を向けたドロ婆を、洋は慌てて呼び止めた。
「何だい。話せることはもうないよ」
「最後に一つだけだ」
洋の真顔に、中年男が振り向いた。
「兄貴の情報は、何か出てきたか?」
姥面を着け直し、一言告げる。
「──ないね」
一際眩しい光が、アスファルトを叩いた。
洋が目を開けた時、ドロ婆は溶けるように消えていた。
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