【序幕】選抜、畔 蓮葉
廃スタンドに戻った忍野を驚かせたのは、洋のエプロン姿だった。
「何だ。オレが料理しちゃあ変かよ?」
「いえ……けしてそういうわけでは」
無骨なビニール引きの黒エプロンは、確かに魚々島の男に似つかわしい。魚市場のバイトと言っても通用しそうだ。
「ははーん。
空木の一族はアレか。嫁がメシ作ってくれんのか」
「はい。炊事洗濯は伝統的に女性の役回りです」
「そりゃ羨ましいね。
魚々島には嫁どころか女っ気の欠片もねぇからな。
自分の魚は自分で捕る、自分のメシは自分で作るが魚々島流だ」
バケツを手に扉を出ると、二人は洗車コーナーに向かう。
敷地の片隅に設置されたドライブスルー型の洗車機は腐食激しく、廃スタンドの象徴のようなオブジェだ。すでに辺りは暗く、フェンスに覆われた敷地に外灯の光はほぼ届かない。その中でも忍野の目は、洗車機の内に複数の輪郭を見出した。
「なんせガスタは手狭でな。
水回りの道具はこっちに置いてんだ」
見れば、洗濯機や乾燥機といった白物家電だ。給水を確保した倉庫として使っているようだが、錆び切った洗車機の中に最新型の家電が並ぶ景色はなかなかシュールなものだった。
風呂桶ほどもある水槽の前で洋は立ち止まり、その蓋を開ける。
「今朝、釣ってきた
言われてみれば、水槽の傍には釣り道具が一式揃っている。
タモ網もあったが、洋は使うことなく、無造作に水槽に手を潜らせた。
水音とともに黒光りする魚体が飛び出す。飛沫ごと無造作にバケツで受ける。続いて二匹、三匹。どれも見事な魚体のチヌを水場に運ぶと、慣れた手つきで絞めていく。
「これを全て、洋殿が?」
思わず訊ねた。朝だけの釣果にしては破格にすぎる。
「オレは魚々島だぜ? 魚の声くらい聞けるさ」
うそぶきながら笑うと、洋は鼻歌交じりに洗車機を出た。
「そう言えば、洋殿には《水かき》がありませんね」
《魚々島》の民は、手足に水かきがあるという。忍野の指摘はそれだ。
「ありゃあ陸に上がると、一年くらいで消えちまうんだよ。
海に戻れば、また生えてくるらしいがな」
「なるほど」
敷地を戻り、スタンドの扉を開けると、ラウンジに蓮葉の姿があった。両膝を抱えソファに座っている。キュロットパンツでなければ小言を言うところだ。
「お兄ちゃん。ごはん、作る?」
「おう、ちょっと待っとけ」
「うん」
台所に向かう洋と忍野を見送るも、眼差しの温度差は歴然だ。
じっとりと背中に絡む視線に、思わず忍野は身震いした。初対面の女性に好かれはすれど、嫌われることは珍しい。身に覚えがなければ、なおさらである。
いや。《天覧試合》立会人が突然やって来たのだ。不審に思われても、なんら不思議はない。
台所は給湯室を改造したもので、見るからに手狭だった。冷蔵庫や棚を廊下に出してなお、人二人並ぶのがやっとだ。
「ラウンジで待ってていいぜ?」
「いえ、ここで結構」
廊下の壁に背を預けたまま、忍野はかぶりを振った。洋は蓮葉の視線に気付いていないようだが、針の
「刺身とカルパッチョ、どっちがいい?」
「カ……る……?」
「ま、刺身でいいか」
洋は雪平鍋を火にかけ、出刃包丁を取り出した。
「今日の献立はチヌの刺身に
ご馳走でもない漁師飯だが、手早く作れて美味い」
「そういや、大阪には《
サバのアラを使った潮汁なんだが、忙しい商人町で流行したらしい。
手早く作れて栄養豊富、おまけに安い。
着眼点が
「忍野、冷蔵庫から野菜取ってくれ。
中段の右。大根と人参、あと三つ葉も」
「御意」
忍野は業務用の大型冷蔵庫を開けた。一刻前まで殺し合いをしていたとは思えないやり取りではある。
パッドに並べたアラに洋が塩を振る。おろした身の塩揉みを終えるタイミングで、火にかけた鍋がぐらついた。アラと身を湯引きし、野菜を切り始める。
「失礼ですが、大阪湾の魚が食せるものですか?」
「一年食ってるが、案外悪くないぜ?
昔に比べりゃ、水もかなり綺麗になったらしいしな。
ま、不味そうな奴は逃がしてるってのもあるが」
忍野は内心で舌を巻いた。選別してなお、あの釣果とは。
洋に驚かされるのは、これで何度目だろうか。
精力的に料理を作る姿も、激戦の後とは思われぬほどだ。武者の矜持で平常を保っている自分とはやはり違う。負けるべくして負けたと改めて思った。
その妹が台所に現れたのは、野菜が煮え、鍋にアラを入れた頃合いだった。
「ん、どうした?」
問いに応えず、蓮葉は鍋に向かう洋の後ろに立つと、背中から抱きしめた。
「お、おお?」
下腹に回した手が一瞬でベルトを外し、カーゴパンツを引き降ろす。
「うぉおおおオおいっッッ!?」
想像外の展開に驚く忍野だが、その目を引いたのは青地にイルカ柄のトランクスではなく、その凄まじい筋量だ。丸太のような太腿に、カマキリの卵胞にも似た四角いふくらはぎが続く。あの体躯で《海蛍》を体現する説得力に満ちた代物だ。《秘剣・かわほり》の小刀が刺さったのが幸運なくらい──
そこまで考えを巡らせ、ようやく忍野は気がついた。
「お、おい蓮葉。何考えてんだおまえ?」
「お兄ちゃん、怪我」
「あ、ああ──そっちか」
洋の様子が平常すぎて失念していたが、太腿の傷はけして浅くはない。今しも左腿から血が零れ、膝下を赤く染めていく。パンツに張り付き塞がれていた傷口が開いたのだ。
「ほっときゃ治るだろ」
「駄目」
足元にしゃがんだ蓮葉が、取り出した薬を塗り始める。
「それは……《畔の妙薬》ですか」
忍野の問いを蓮葉は無視するが、間違いない。
数々の伝説に登場する《河童の妙薬》の元祖がこれだ。《畔》の人体改造の研究過程で生まれた万能薬であり、その薬効は現代医学を遥かに凌駕し、千切れた手足ですら繋げると聞く。畔以外には門外不出の品であり、見るのは忍野も初めてだ。
「いやま、ありがたいけどよ」
洋は知っていたらしい。突然ズボンを脱がされた以上の驚きがない。
粘りのある膏薬を塗り込むと出血が止まった。その上に応急テープを巻く。これも畔が開発した、包帯とガーゼを兼ねた医療品だ。こちらは闇で出回っていて、値段は相場の数倍ながら、荒事のプロの必携品になっている。
「言い忘れてたが、勝ったぜ。合格だ」
ぽつりと降った洋の言葉に、蓮葉は嬉しそうに頷いた。
「次はおまえの番だな。ま、心配はしてねぇけどよ」
もう一度頷いた蓮葉が、忍野を一瞥する。
その視線に、忍野は三度目の気付きを得た。
蓮葉の敵意は、兄を傷つけたが故か。
当然といえば当然の感情だが、二人は出会って間もないはず。蓮葉の洋への思慕は、常軌を逸してはいないか。
厨房に仲良く並ぶ兄妹に、忍野は言い知れぬ不安を覚えた。
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